つ『父親とは偉大であるか』 前編
六月三十日、土曜日。
どうにか無事に美濃部の海外行きを逃れさせた俺は、五月二十日に姉さんに連れ出されてから初めて、実家へと帰ろうとしていた。
美濃部はドラマ制作のメンバーとして続行。青木さんもすっかり元の調子を取り戻し、一週間あまりの月日が経った。
無事下着も買い足したようだし(後に聞いたら、そんな事は女の子に聞くもんじゃないと言われて怒られたが)、近々、台本も完成すると言っていた。
間辺は今回の件で相当怒られたようで(当たり前だ)、それきり学園に顔を出すことはなかった。
一人で海外に行くことになったのだろう。
「おはようございます、純さん」
俺はいつも通りにベッドで目を覚まし、目覚まし時計を確認した。
六時五分。いつも通りだ。
一回目には通ることもなかった筈の道筋。考えてみれば、俺がこの時期に青木さんや美濃部に近付かなければ、美濃部が間辺とどうこうなる事もなかったし、俺が嵌められることもなかった。
俺が全く関与していない場合に、如何にして美濃部が海外行きを逃れたのか、という問題については謎が残るが――まあ、そんなものだろうと思う。
間辺も海外に行っていなかった可能性があるし、一概には言えない事だ。
改めて、世の中というものは複雑に絡み合って出来ているのだなあと驚きもしたが、ひとまず俺は平常運転だ。
うんと伸びをして、ケーキに答える。
「おはよ、ケーキ」
ケーキは俺の頭の上まで行くと、座った。
どうやら、そこが彼女の定位置になったらしい。肩では狭すぎるのだろうか。
キッチンからは、姉さんの鼻歌が聞こえてくる。……落ち込んでいるかと思いきや、意外と元気だ。俺は洗面台に向かいがてら、キッチンの姉さんに声を掛けた。
「おはよう、姉さん」
「あ! 起きた!」
くるりと反転し、頬を染めて俺に微笑みかける姉さん。
今日も平常運転である。
「純くんがー、起きました・わー」
何がそんなに嬉しいんだか。
亜麻色の髪を後ろでまとめ、今日はタンクトップにホットパンツという格好で料理をしていた。まだ終盤とはいえ六月なので、その格好のまま外に出るということは無いだろうが。顔を洗い終えて戻ってくると、姉さんは朝食を並べていた。
今日はハニートーストか。食事は三皿。……ん?
「レンタカー、予約してあるから」
「ん、分かった。……これは?」
その時、インターフォンが鳴った。特に姉さんは反応しなかったので、手が空いている俺が普通に玄関へと向かう。
カメラには、杏月の姿が映っている。
俺は扉を開いた。
「おっはよー、純」
「おはよう、杏月」
「お邪魔しまーす」
俺が静止する暇もなく、杏月は中へと入った。別に杏月は実家に暮らしているんだろうから、わざわざここまで来なくても良いだろうに。
しかし、懐かしいな、我が家。まだ一ヶ月程しか経っていない筈なのに、体感的にはもう一年近く離れているような気さえしてくる。
そうか、姉さんも杏月の来訪を見越していたのか。食卓に並んだ皿の数を見て、俺は納得した。姉さんも特に機嫌は悪くなっていないようだし。
「おはよー、お姉ちゃーん」
杏月は満面の笑みで、姉さんを見た。
「……おはよう、杏月っ」
姉さんも杏月に微笑み返した。
……その状態で、硬直している。他の誰にも見えないだろうが、俺には見える。その両名の間に、飛び散る火花が。ああ恐ろしや。
とにかく、朝飯だけでも平和に終えないと。
「わー、ハニートースト。うーん、良い香り」
「でしょー? これはね、ひまわりの蜂蜜だけを使っているのよ」
……そうか。分かったぞ、この異様な空気の正体。
姉さんは今日、親父に姉さんと俺の今後について話す。そこで自分達が二人暮らしをすることを認めて貰うつもりでいる。
杏月は、姉さんが親父に報告することで、二人暮らしに否定意見が出て俺は実家に残り、姉さんは一人暮らしを始めるものと思っている。
両者、既に勝つ気でいるということだ。
「わー、純さん純さん。私、蜂蜜大好きなんですよー」
脳天気な事を言っているケーキは無視しておくことにして。
まいったな。俺は、どっちの味方をすれば良いんだ。
強いて言うなら、俺は一人暮らしがしたい。
ふと、寝室の方で物音が聞こえた。あれは……バイブ音? そうか、俺の携帯電話が鳴っているのかもしれない。俺は一度食卓から立ち上がり、寝室を目指した。
やはり、携帯電話だ。俺は枕元にあるそれを手に取り、中を確認した。……誰だ? 知らないメールアドレスだ。
『休日の予定 教えてくれ 越後谷』
なんて簡潔な……。というか、誰からメールアドレス聞いたんだよ。青木さんか。しかしまた唐突だ。
俺は今日は空いていない、来週の土日なら特に用事はないと記述し、越後谷に返信した。
越後谷もよく分からない奴だよな。あれきり特別俺に関わる事もしないし、かと思えば俺の事をどこか推し量るような目で見てみたり……。
考えても仕方の無い事ではあるのだが。
「あ、そうだ」
四回目の死因について、記述しておかないとな。俺は例のテキストファイルを開き……パスワードを入力、と。
四回目、六月二十日。美濃部とデートした帰り、姉さんが家に油を撒いて放火。
……なんて恐ろしいテキストファイルだ。
「純! ご飯食べようよー」
保存して、と。
俺は携帯電話を閉じ、ポケットに、
「おー、今行く」
――――入れようとして、再度開き直した。
あれ?
「……純さん?」
ケーキが俺のことを、不安そうな眼差しで見ていた。ざわざわと胃の奥から腸にかけて、冷たいものが流れる。
この不自然さと不気味さが正規のものであると、俺に知らせているように感じた。
それは、おかしい。
明らかにおかしい。
俺は携帯電話を開いた体勢のまま、開き直したテキストファイルを穴が空くほど見詰めた。
なんだ?
なんだよ、これ。
「……ケーキ。今日、何月の何日だ」
「ふえ? ……六月の、三十日ですけど」
「俺が最後に死んだの、いつだ」
「それはもちろん、六月二十――」
言葉は、そこで途切れた。ケーキもようやく、この事態の異常さに気付いたらしい。
そう、このテキストファイルが存在しているのは、おかしいのだ。何故なら、俺がこれを書いた日付は、『やり直す前の六月十九日』なのだから。
これを記述したその日の夜に美濃部立花が俺の家に現れ、最後の別れを告げて明日のデートを俺に申し込む。
そして、六月二十日の夜、俺は暴走した姉さんに殺される。
戻って来たのは六月十八日――……
どうして?
頬を流れ落ちた汗が、携帯電話の画面に当たった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね。神様に確認――」
「ケーキ。黙ってろ」
「……え?」
「良いから、黙ってろ」
わざとか?
いや、理由がない。やり直す前の痕跡なんて残っていたら、この世界にとってそれは重大な矛盾になる。俺でなくたって、何かがおかしいと何処かで気付くかもしれない。
本来、こんな出来事は起こり得ない筈だ。
――時が戻るって、それはつまり、どういう事なんだ?
周りの人間は全てを忘れている。時間も確かに、遡っている。
だが、俺はその記憶を持っている。
それは――?
考えろ。
――考えろ。
「純くん? どうしたの?」
姉さんが俺を呼ぶが、俺はその場を動かなかった。
俺だけは間違いなく、失われた時間の記憶を持っている。この肉体が毎度どうなっているかは兎も角、意識は明らかに死ぬまでの記憶を持っている。
ということは少なくとも、この世界は全てを無かったことにする訳ではない、ということが言える。
例えば俺を過去に『引き戻している』ということだ。そうでなければ、俺は何度時間を遡ろうと同じ行動を取るだろう。
――もしもそれが、記憶だけではないとしたら?
この現象は、裏付けとも言えるのではないか?
俺は、携帯電話のテキストファイルを閉じる。そうして、再びポケットに入れた。
「……純さん?」
何かが、変わっていると思っていた。
やり直すたび、何かの変化が起きる。それは俺が行動した結果としてもそうだが、そうではない部分でも、ほんの少しだけ、微妙に、世界はその姿を変えてきた。
シナリオはほとんど同じでも、完全に一致はしなかった。特に、強い意思を持っていない、確率次第でいくらでも変わりそうな出来事については。
このループには、欠陥もあるのかもしれない。
神様にとっても、何度も時間を戻すことにはリスクがある事なのかもしれない。
そうだよ。だって、本来は『時間を戻す』なんていうことは、やらないことだろ。
……本当に、それが答えだろうか?
結局のところ、俺の想像でしかない。
唯一つ確実に言えることは、この携帯電話は『失われた六月十九日』の情報を持っていた、ということ。
もしかしたら、もう神様にバレているかもしれない。今この瞬間に監視されているとか、あるいは神様の想定通りの出来事だという可能性もある。
――だけど、何かこれは、俺の未来にヒントを残しそうな気がした。
「ケーキ。これは、神様には黙っていよう」
「……で、でも」
「なに、神様の予定通りだろ、多分。何の手掛かりもないとまずいから、携帯電話だけ残したんだよ」
「……そ、そっかあ。……そうですよね」
俺はケーキを丸め込むように説得し、ぎこちない笑みを浮かべた。
◆
運転席に姉さん、助手席に俺、後部座席に杏月を乗せ、レンタルした軽自動車は高速道路でエンジン音を唸らせた。
本当はそこまで離れてはいないので電車でも良いのだが、まあ車は姉さんの趣味みたいなものなのだろう。思えば引っ越しの時でさえ、ハイエースを借りて自分で荷物を移動していたしな。
そこまで私物が無かったという事もあるのだろうけど。
三十分だか一時間ほど車を運転し、実家に到着した。和風の屋敷が見せる昔懐かしい外観と、やたらとだだっ広い敷地。姉さんと杏月と俺、当時の懐かしい記憶が蘇る。
二階の内装だけ洋式になっているのは、当時海外の家に憧れた俺や姉さんが親父に駄々をこねたせいらしいというのは、今でもたまに言われる事だ。
そこそこ広い門の向こうには入り口へと続く道と、隣の駐車場にはフォルクスワーゲンやらBMWの高級車なんかが三台ほど並んでいる。
流石に六月三十日を指定してきたくらいだから、親父は家に居るんだろうな。
「……開けるね?」
「なーに緊張してんの」
姉さんの態度に、杏月が鼻で笑って門を開いた。木製の門の向こうに見える、懐かしい我が家。今更ながら、どうしてこんなに広いんだろう、なんて思った。
杏月を先頭に、俺と姉さんは後ろを歩いた。
親父、あんまり得意じゃないんだよなあ……。
暫く歩いて、引き戸の玄関扉を開いた。
「おかえりいいい、我が息子よおおお――――!!」
――きた。
俺は苦い顔をして、そいつを見た。
陽気なアフガンハウンドを抱いて、くるくるとバレリーナの如く回転しながら、欠片も真面目な印象を与えないアホ顔でこちらに近付いて来るのが、親父こと穂苅恭一郎。
歳を全く考慮しない茶髪と、夏は甚平、冬は作務衣で一年中過ごす厚かましさ。
彼こそ、紛れも無く俺の親父だ。
「お姉ちゃんもアンちゃんもおかえり!! 今日は一日、家でホームパーティーだよ!!」
……とりあえず、このテンションなんとかしろ。
一瞬にして当てられてしまった俺は既に何も言えず、無言で靴を脱いで家に入った。親父が俺の腰に抱き付いて来たが、構うものか。
ずるずると、そのまま居間まで引き摺ってやる。
「純くん、ノリが足りないぞ。髪の毛白くなってハゲるぞ」
「別に海苔食べても頭は黒くならないだろ」
「いけずうー」
何の話をしているのやら。
そのまま引き摺っていくと、居間では母さんが茶を啜っていた。
穂苅志津江。黒髪ロング、やや垂れ目なのが特徴の母さんは、俺を見るとにっこりと微笑んだ。態度やテンションが年齢とかけ離れている親父よりは、いくらか話し易いと思う。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
しかしなんで、そんなに落ち着いているんだ。
「純くん!! お犬様が!! お犬様がー!!」
見ると、アフガンハウンドにもふもふされいる姉さんが、涙目で俺に抱き付いてきた。……大型犬はあまり得意じゃないのか。全く知らなかったが、俺は居間に親父を捨てて姉さんを抱き留める。
アフガンハウンドは姉さんのホットパンツの隙間に一生懸命舌を入れていた。
……確信犯か。
「パスカル! 邪魔しないで」
杏月は手慣れた様子で姉さんに群がっている犬を宥め、居間に入ると鞄を置いた。知らなかったけど、いつの間に大型犬なんて飼うようになったんだろう。名を、パスカルと言うらしい。
俺と姉さんも、居間へと入って行く。
家に戻った瞬間、杏月と姉さんの表情が引き締まった事に、俺は若干の懐疑心を抱いていた。