第四章 届かなかった声
「川沿いの廃屋に、糸を探しに行ってくるね」
ミリアはそう言いながら、紐を切るための小さなナイフを鞄にしまった。
見本に持っていく布切れも畳んで入れ、肩紐をかけ直す。
エトは入口で銃の点検をしていた。
「私も一緒に行こうか」
「前に通った道だから大丈夫。エトは罠を見に行くんでしょ?」
エトはうなずいた。
「小川の北側だ。昼までには戻る」
ミリアは服の下にある円盤に触れ、エトに見せた。
エトが手首のボタンを押すと、ミリアの円盤に小さな光が灯った。
彼女も試しに押し返した。
エトが顔を向ける。
「正常に作動している」
「新しい足跡や知らない人を見つけたら、すぐに引き返すこと」
「わかってるよ」
ミリアは二歩ほど歩き出してから、振り返った。
「エト」
彼が顔を上げる。
危うく贈り物のことを口にしそうになり、ミリアは笑顔に変えて手を振った。
「じゃあ、行ってくるね」
川沿いの古い建物は、以前来たときと同じように静まり返っていた。
屋根の一部は崩れ落ち、二階の窓には蔦が絡みついている。
入口の上にある看板は色あせ、店の名前を最後まで読み取ることはできなかった。
ミリアは壁際で足を止め、しばらく耳を澄ませてから中へ入った。
エトに危ないと言われていた床を避け、壊れたミシンが置かれたテーブルの横を通り、奥の木製の棚へ向かった。
小さな箱は、まだそこにあった。
ミリアは一つずつ蓋を開けていった。
黒い糸。
白い糸。
ボタン。
そして、ほとんどが錆びてしまった針。
最後の箱を開けたとき、ミリアの手が止まった。
布の包みの下に、青い糸巻きが挟まっていた。
彼女はそれを取り出し、持ってきた布切れと並べてみた。
それから、窓の近くの明るい場所へ移動して確かめた。
エトの瞳よりも、少しだけ淡い青だった。
けれど、灰色の布に刺繍すれば、きっとはっきり見えるだろう。
ミリアは糸巻きを鞄にしまった。
そのとき、入口の方から靴がガラス片を踏む音がした。
彼女はすぐに振り返った。
そこに立っていた男の左頬には、傷跡があった。
ミリアはその顔を覚えていた。
男もしばらく彼女を見つめてから、名前を口にした。
「ミリア」
ミリアは、一瞬警戒することも忘れて歩み寄った。
「無事だったの? おばさんは? 一緒にいる?」
男は答えなかった。
その視線はミリアの鞄へ、きれいに繕われた服へ、そして傷一つない手足へと移っていった。
「まだ、あいつと一緒にいるのか」
ミリアは足を止めた。
男の背後から、ほかの人々が次々と入ってきた。
基地で見かけたことのある顔がいくつもあった。
上腕に赤い布を巻いた男も、その中にいた。
彼らの服は破れ、煤で汚れていた。
傷口に巻かれた布が、元の色もわからないほど汚れている者もいた。
「おばさんのことを聞いてるの」
頬に傷跡のある男が、ミリアの手首をつかんだ。
ミリアはびくりとして、手を引こうとした。
「機械どもは基地の場所を知っていた」
男が言った。
「俺たちは、あそこでずっと隠れて暮らしていたんだぞ」
「煙が見えたから、私もエトと見に行ったの。でも――」
つかまれた手首に、さらに力がこもった。
「またあいつを基地に連れていったのか?」
「生き残った人を探しに行ったの!」
ミリアは空いている手で男の腕を押した。
しかし、赤い布の男が近づき、そちらの腕もつかんだ。
「違うの、わかってないよ。エトが教えたんじゃない。ずっと私と一緒に――」
「お前の見ていないところで、あいつが何をしていたか、どうしてわかる?」
強く引っ張られ、ミリアの肩が戸枠にぶつかった。
彼女は歯を食いしばった。
まだ動かせる方の手を服の下へ差し入れ、金属の円盤を握りしめる。
そして、ボタンを押し続けた。
手のひらの下で、青い光が灯った。
赤い布の男が彼女の腕を引き離した。
しかし、信号はすでに送られていた。
「エト!」
少女の声が入口の外へ響いた。
頬に傷跡のある男が、彼女の口を手で塞いだ。
ミリアはすぐさまその手に噛みついた。
男は悪態をつき、彼女を突き飛ばした。
ミリアは床に倒れ、鞄が肩から滑り落ちた。
中の物がぶつかり合い、小さな音を立てた。
彼女はテーブルの脇の隙間を通って逃げようとした。
しかし、足首をつかまれた。
「ひとまず連れていけ」
赤い布の男が言った。
「あいつにも食料を蓄えている場所があるはずだ。どこにあるか吐かせろ」
ミリアは抵抗したが、そのまま店の外へ引きずり出された。
一度だけ、誰もいない入口へ目を向けた。
「エト!」
手首で警告音が鳴った。
エトは罠にかかった獲物の包みをすぐに地面へ置いた。
ミリアの位置情報は、川沿いの建物が集まる一帯を示していた。
もう一度信号が届いた。
その直後、位置がミリアの向かうと言っていた店から離れ始めた。
エトはそちらへ顔を向けた。
そして、走り出した。
行く手を塞ぐ枝が衝撃で折れた。
小川を一息に飛び越え、以前は迂回していた崩れた壁の脇を通り抜ける。
そのまま坂を駆け上がり、古い揚水施設へ向かった。
施設の隣にある資材倉庫から、人の声が聞こえてきた。
続いて、ミリアの声がした。
「もう何が欲しいのかわからないよ! 離して!」
少女の声が途切れ、建物の中から何かがぶつかる音がした。
エトは銃のグリップを強く握った。
金属同士がきしむ音がするほどだった。
これまで戦場で、人間の叫び声を数え切れないほど聞いてきた。
しかし今回は、銃のグリップを壊さないよう、自分の手に握る力を緩める命令を出さなければならなかった。
エトは銃を構えた。
ミリアの両手は、身体の前で縛られていた。
彼女は、土台から取り外された古いポンプのそばで、床に座らされていた。
男が一人、肩をつかんで押さえつけている。
立ち上がろうとするたびに、床へ押し戻された。
頬に傷跡のある男と、赤い布を巻いた男は、すでに奥の機械室へ入っていた。
外にも何人かの見張りがいた。
そのうちの一人がミリアの鞄を開けて中を調べ、壁際へ放り投げた。
ミリアはその鞄を目で追った。
口の開いた鞄から、灰色の布切れがのぞいていた。
ようやく見つけた青い糸巻きも、中に入ったままだった。
「隠れ家はどっちだ」
肩を押さえている男が尋ねた。
ミリアは答えなかった。
男の手に、さらに力がこもった。
入口の方から銃声が響いた。
見張りに立っていた男が、誰かが振り向くよりも早く倒れた。
窓際にいた別の男が武器を持ち上げたが、二発目の銃弾を受け、壁の縁から仰向けに落ちた。
ミリアが振り返ると、青い光が見えた。
「エト!」
彼女の肩をつかんでいた男がナイフを抜いた。
しかし、刃を振り下ろすよりも先に、エトが目の前まで迫っていた。
金属の手が男の手首をつかみ、横へねじった。
ナイフが手からこぼれ落ちる。
エトはもう片方の手に持つ銃を男の顔面に叩きつけ、ミリアから引き離すように突き飛ばした。
男は倒れながら、少女の脚をつかもうとした。
エトの手首から刃が伸び、一閃した。
男の身体はポンプの脇へ崩れ落ちた。
左側から銃声が響いた。
弾丸がミリアの頭のすぐ横にある鉄板へ命中した。
彼女は反射的に身を伏せた。
エトは振り向きざまに一発撃ち返した。
テーブルの陰に隠れていた男が、自分の武器の上に倒れ込んだ。
エトはミリアの手首を縛っていた紐を切った。
そして、腕で彼女をかばいながらポンプの陰へ移動させ、身を伏せさせた。
「頭を下げていろ」
ミリアはエトの腕をつかんだ。
エトはほんの一瞬、彼女へ顔を向けた。
「必ず連れて帰る」
背後から駆け寄る足音がした。
エトは身体をひねって迎え撃った。
ナイフを持った男が、脇の装甲の隙間を狙って突きかかってくる。
エトは身をかわし、相手の手首をつかんだ。
刃が装甲を擦り、甲高い音が響く。
そのまま手首をねじり返すと、男の握っていた刃が自分の胸へ突き刺さった。
男はよろめいて後退した。
エトはその身体を、鉄棒を持って走ってきた別の男へ突き飛ばした。
二人はぶつかり合い、体勢を崩した。
エトは鉄棒を持つ男を蹴り飛ばした。
男は柱に激突した。
鈍い音が響き、身体が柱を滑るようにして床へ崩れ落ちた。
もう立ち上がることはなかった。
正面の入口で影が動いた。
外にいた二人の男が、同時に銃を向けてきた。
エトは前を塞ぐ身体を払いのけ、ポンプの陰から踏み出すと、続けざまに二度引き金を引いた。
一人は入口の敷居に倒れた。
もう一人は後ろの壁にぶつかり、そのまま隣に崩れ落ちた。
銃のスライドが後退したまま止まった。
弾切れだった。
エトは銃を半ば下ろし、ミリアを隠れさせた場所へ振り返った。
彼女の姿は、そこになかった。
奥の機械室の扉が開け放たれていた。
頬に傷跡のある男が、建物の脇にある細い通路へミリアを引きずり出していた。
片腕を少女の肩の上から回して抱え込み、もう片方の手に持ったナイフを首筋へ押し当てている。
赤い布の男は後ずさりしながら、その後ろについていた。
手に持った拳銃は、エトへ向けられていた。
戦闘の間、二人は機械室の壁とポンプ本体に遮られ、エトの視界から外れていた。
「そこで止まれ!」
エトは側面の扉まで進んだところで足を止めた。
建物の脇の地面は、古い水路へ向かって下り坂になっていた。
土手には木の根が長く露出している。
その先には、二人の寝床へ続く森が広がっていた。
ミリアは荒い息を繰り返し、両手で自分を押さえつけている腕をつかんでいた。
ナイフの刃が肌に食い込み、首元に細い赤い跡ができていた。
エトは少女を拘束している手から、もう一人の男が持つ拳銃へと視線を移した。
エトとミリアの間には、まだ何歩分もの距離があった。
しかし、ナイフの刃と少女の首の間には、隙間がまったくなかった。
「銃を捨てろ」
エトは手を開き、銃を落とした。
金属が地面にぶつかる音に、ミリアがびくりと震えた。
彼女を拘束していた男は、すぐさまナイフを強く押しつけた。
エトはすべての動作を止めた。
「彼女を放せ」
赤い布の男は建物の中に倒れている人々を見た。
それからエトへ向き直った。
拳銃を持つ手が、かすかに震えていた。
「胸の装甲を開けろ」
エトは動かなかった。
男がもう一度怒鳴った。
「開けろ!」
ミリアは首を横に振った。
「だめ……」
エトは拳銃の位置を確認した。
少女を拘束する男の足の位置。
ナイフを持つ手に到達するまでの距離。
計算を繰り返した。
もう少し速く動けたとしても、ミリアの安全を保証するには足りなかった。
手首をつかむより先に刃が動けば――
エトはその予測を中断し、最初から計算し直した。
結果は変わらなかった。
「エト……」
ミリアの声は、言葉にならないほど震えていた。
エトは視線を上げ、彼女を見た。
濃い桃色の髪がほどけ、片方の頬にかかっていた。
岩の裂け目の入口で、薬草を集めていたあの日と同じだった。
けれど、あのとき髪を払いのけていた手は今、ほかの人間の腕を必死につかんでいる。
エトは手を上げ、胸の中央にある留め具に触れた。
ミリアが目を見開いた。
「やだ……」
「動くな」
エトは彼女に言った。
装甲カバーが開いた。
少し歪んだハートの絵が胸の中央からずれ、内側にある動力炉の青い光が現れた。
直後、銃声が響いた。
胸の中で青い光が激しく瞬いた。
動力炉の表面に亀裂が走った。
そこから細かなひびが枝分かれするように広がり、これまで一定の調子で鳴っていた駆動音が突然途切れた。
エトの脚から力が抜けた。
片膝をついて倒れ込み、手を地面につこうとした。
しかし、手首が折れるように崩れ、身体は土手の脇へ横倒しになった。
ミリアの声が聞こえた。
最初に呼ばれた自分の名前は、はっきりと聞き取れた。
しかし、二度目にはその声がひどく歪んだ。
破損した動力炉からの不安定な電流が回路を駆け抜けた。
予備電源へ切り替わると同時に、記憶の一部から映像と音声が抜け落ちた。
両眼の光が弱まった。
目の前の映像が途切れ途切れになり、二人の人間の位置が、途中の動きを飛ばして移り変わっていく。
ふいに、地面の映像が消え、木箱のテーブルが見えた。
少女が一人、皿をこちらへ寄せている。
目の前に立つ少女よりも、髪が短かった。
唇が動いていた。
あの日、彼女が何を言ったのか思い出せなかった。
エトは腕を動かそうとした。
しかし、指がわずかに震えただけだった。
残されたエネルギーでは、機能停止を防ぐだけで精一杯だった。
赤い布の男は拳銃を下ろした。
長い間、金属の身体を見つめていた。
そして、大きく息を吐いた。
「……終わったな」
頬に傷跡のある男が、ミリアの首から腕を離した。
彼女は男の腹へ肘を叩き込み、身体を押しのけた。
男は背後から悪態をついたが、もうナイフで引き止めようとはしなかった。
ミリアは走り、エトのそばに膝をついた。
膝が石にぶつかり、思わず身体が跳ねた。
それでも、両手で装甲の縁をつかみ、エトの身体を起こして土手にもたれさせようとした。
「エト、こっちを見て!」
エトは頭を動かそうとした。
少女の顔が、はっきり見える距離まで近づいた。
頬にはあざがあり、両手首には赤い跡が残っていた。
編んでいた髪も、ほとんどほどけていた。
エトは彼女の名前を呼ぼうとした。
毎日、何度も呼んでいたことは覚えている。
しかし今は、名前の最初の音だけが引っかかり、その先がどうしても出てこなかった。
ミリアは動力炉をのぞき込んだ。
彼女の指が亀裂の上で震えた。
触れることができず、代わりに胸の開口部の縁をつかんだ。
「どうしたらいいの? 教えてよ……!」
エトは音声システムを起動した。
しかし、かすれた雑音しか出なかった。
ミリアはすぐに顔を近づけた。
「ここにいるよ。ちゃんと聞いてるから!」
エトはもう一度試した。
声は言葉にならなかった。
「この娘はどうする?」
頬に傷跡のある男が、ナイフを鞘に戻しながら尋ねた。
赤い布の男は建物の方を見た。
一緒に来た八人の仲間が、床に倒れていた。
誰一人、動く者はいなかった。
男は奥歯を強く噛みしめた。
「先に食料の隠し場所へ案内させる」
「じゃあ、こいつは……」
「あとで部品を回収しに来ればいい」
赤い布の男は近づいてくると、服の中からしわくちゃになった紙を取り出し、ミリアの前へ投げ捨てた。
ミリアは、その絵をすぐに思い出した。
紙の角は破れ、中央の折り目は黒ずんでいた。
折り目に重なった文字は、ほとんど読めなくなっている。
男は靴の先で紙を広げた。
「描いてあったとおりだったな」
ミリアは紙に描かれた動力炉の図を見つめ、それから顔を上げた。
「……自分たちを守るために使うって言ったのに」
赤い布の男は答えなかった。
代わりに、もう一人の男を呼び、少女を引き離すよう命じた。
ミリアはエトの腕に手を置いた。
「教えてくれたのはエトなんだよ! みんなを助けてくれたのに!」
エトの頭の中で、音が一瞬途切れた。
次に聞こえてきたのは、頭上から響く赤い布の男の声だった。
「お前がこいつの弱点を教えてくれなかったら、もっと何発も撃ち込まなきゃならなかっただろうな」
エトは視線を紙へ向けた。
鉛筆で描かれた線は、少し片方へ傾いていた。
動力炉を表す円の周りには、何度も消した跡が薄く残っている。
覚えていた。
ミリアは、木箱のテーブルを挟んで向かいに座り、この絵を描いていた。
『じゃあ、胸の動力炉は? エトのと同じなの?』
エトは、そのあとの会話を思い出そうとした。
しかし、ランプの光に照らされた光景は途中で途切れ、今、自分の胸を押さえている少女の手へと変わってしまった。
「ごめんなさい……」
ミリアの声は、そこまでしか聞き取れなかった。
彼女は慌てて何かを話し続け、紙を指さしてから、再びエトの手を握った。
しかし、その唇の動きに音声は伴わなかった。
エトは少女を見つめた。
なぜ、あいつらに教えた。
彼女に胸の装甲を開けて見せたことは覚えている。
あの手が動力炉の上に伸びてきたときも、避けずにそのままにしていた。
あの夜、自分は何と答えたのだろう。
エトは記憶をたどり、木箱のテーブルへ戻った。
聞こえてくるのは、彼女の質問ばかりだった。
自分が何と答えたのか、その音声はすべて失われていた。
残っているのは、弱点について尋ねる声。
少女の筆跡。
そして、紙に描かれた位置へ撃ち込まれた銃弾だけだった。
頬に傷跡のある男が、ミリアの腕をつかんで引き上げた。
彼女は激しく振り払った。
「触らないで!」
もう片方の手は、まだエトの手首を握っていた。
赤い布の男も近づき、そちらの腕を引っ張った。
ミリアの身体が地面から引き上げられる。
金属の手をつかんでいた指が、一本ずつ滑り落ちていった。
エトはその手を見つめた。
別の記憶が浮かび上がった。
外では雨が降っていた。
膝の上には一枚の布があり、小さな指が自分の手首を握っていた。
それがいつの夜だったのか、もうわからなかった。
今も彼女は、必死に自分の手をつかもうとしていた。
唇が、同じ名前を何度も繰り返している。
金属の手がそれを追うように動いた。
しかし、力が尽き、途中で止まった。
このまま、彼らに彼女を連れていかせるわけにはいかなかった。
エトは残りの予備電力を、腕と脚へ送り込んだ。
視界の端から映像が消えていく。
無理に動けば機能停止につながるという警告音が響いていた。
今度は、指先が命令どおりに動いた。
頬に傷跡のある男のナイフは、すでに腰の鞘に戻されていた。
男がつかんでいるのは、ミリアの腕だけだった。
エトは手を伸ばし、その男の足首をつかむと、力任せに引き寄せた。
男は体勢を崩し、少女の腕から手を離した。
エトはすぐに身体を起こした。
片膝が地面に食い込み、土が沈んだ。
手首から刃が伸び、倒れ込んでくる男の身体へ突き刺さった。
頬に傷跡のある男は、口を開いたまま動きを止めた。
エトはミリアを武器の届く範囲から引き離した。
そして、その男の身体を、こちらへ向けられた銃との間に押し出した。
一発の銃声が響いた。
弾丸の衝撃が、盾にした身体を通して金属の腕へ伝わってきた。
エトはその身体を突き放した。
赤い布の男へ踏み込み、拳銃を握る手首をつかんで上へねじり上げた。
次の銃弾が、頭上の枝をかすめて飛んでいった。
エトのもう片方の手が、男の喉元を薙いだ。
赤い布の男はよろめき、後退した。
拳銃が手から落ちた。
そのまま木の根の上へ倒れ込んだ。
エトはしばらく立ち尽くしていた。
胸の中で、青い光が激しく明滅している。
やがて、両脚が崩れた。
ミリアは慌てて駆け寄り、身体を支えようとした。
しかし、金属の身体はあまりにも重かった。
二人は土手の脇へ倒れ込んだ。
エトはまだ動く方の腕を使い、自分の身体がミリアの上に倒れかからないように支えた。
そして、動きを止めた。
ミリアはすぐに彼のそばへ這い戻った。
肩で身体を押し、木の根の下にある土のくぼみへもたれさせた。
下敷きになっていた片腕を引き出し、正面に座り込んだ。
胸の装甲カバーは、まだ開いたままだった。
内部の光が一瞬だけ強くなり、すぐにまた弱まった。
ミリアは手を差し入れ、動力炉の縁から外れた部品を支えた。
覚えている位置へ戻そうとする。
指先の近くで火花が散った。
ミリアは驚いて手を引いたが、すぐにまた身を乗り出して中をのぞき込んだ。
亀裂は、まだ大きく開いたままだった。
彼女はこれまで、エトの留め具の修理を手伝ったことがあった。
工具を持っていてあげたこともあった。
けれど、エトがこれを修理するところは、一度も見たことがなかった。
「どの部品が必要なの?」
ミリアはエトの手の下に、自分の手を差し出した。
「指さすだけでいいから。私が取ってくるよ」
エトは指を動かそうとした。
ミリアはすぐに顔を近づけた。
何も言わず、その動きを待った。
しかし、金属の手は持ち上がらなかった。
ミリアはゆっくりと、その手を彼の膝へ戻した。
そして、建物の中に置き去りにされていた鞄を急いで取りに戻った。
中の物をすべて地面へ広げた。
布切れ。
針。
糸巻き。
ミリアは小さなナイフを手に取った。
その刃先を見つめ、やがてゆっくりと地面へ置いた。
動力炉を固定する部品を外すための道具すら、持っていなかった。
青い糸巻きが転がり、木の根のそばで止まった。
ミリアは思わず手を伸ばしかけた。
しかし、その前にエトの胸の光が明滅した。
彼女は糸巻きへ伸ばした手を下ろし、再びエトの腕をつかんだ。
「……おうちに帰ろう、エト」
ミリアは金属の腕の下へ肩を差し入れ、身体を起こそうとした。
重みがのしかかり、傷ついた膝が再び地面に落ちた。
彼女は歯を食いしばった。
今度は装甲の縁をつかみ、もう一度持ち上げようとした。
ほんの少ししか動かなかった。
ミリアはゆっくりとエトの身体を元の位置へ戻した。
自分の手も土だらけになっているのに、彼の肩についた土を払い落とした。
「誰か呼んでくる。運ぶのを手伝ってもらうから」
早口でそう言うと、袖で顔を拭った。
涙を拭い、前が見えるようにした。
「ここで待っててね。帰り道は覚えてるから。すぐに戻ってくるよ」
エトは、少女が立ち上がろうとしているのを見た。
小川の脇の道には気をつけるように伝えたかった。
前に降った雨で、あの辺りの地面は崩れていた。
しかし、帰り道を思い浮かべようとすると、森の光景がところどころ抜け落ちていた。
曲がり角にある木は覚えている。
だが、その木を通り過ぎた先には、何の映像も続かなかった。
ミリアは、エトの両眼の光がさらに弱くなったことに気づき、立ち上がるのをやめた。
「エト」
唇が動いているのは見えた。
しかし、もう声は届かなかった。
彼女はもう一度名前を呼んだ。
エトと同じ高さまで顔を下げ、ちゃんと見えているか確かめようとするように、金属の顔をのぞき込んだ。
エトは彼女の方を向こうとした。
頭は動かなかった。
ミリアは彼の手を持ち上げた。
手首の装置がずり落ち、指の付け根に当たった。
彼女は急いで革紐を元の位置に直した。
そして、中央のボタンに目を留めた。
ミリアは自分の服の下から、円盤を引き出した。
ボタンを押し続けた。
エトの手首に青い光が灯った。
しかし、ほんの一瞬で消えてしまった。
ミリアは自分の指を見下ろした。
ボタンから手を離し、今度はさっきより強く押した。
返事の光は灯らなかった。
「……ここにいるよ」
彼女は円盤をエトの手首に近づけた。
涙が手の甲に落ちても、そのまま待ち続けた。
エトは、少女の手の中で震えている円盤を見つめた。
そのとき、別の光景が一瞬だけ戻ってきた。
少女がテーブルの向こうに座っている。
円盤を持ち上げて口元を隠しているが、笑みまでは隠しきれていなかった。
あのとき、自分は振り返った。
呼ばれるたびに、必ず答えていた。
エトは記憶の中の少女の名前を呼ぼうとした。
その名前は、まだ一部が欠けたままだった。
けれど、いつも口にしていた返事だけは覚えていた。
『ここにいる』
金属の身体から、かすれた雑音が漏れた。
ミリアはすぐに顔を上げた。
円盤が手から滑り落ち、首から下がった紐の先で揺れた。
彼女はさらに近づき、次の言葉を待った。
エトはもう一度、声を出そうとした。
しかし、何も聞こえなかった。
代わりに、手を持ち上げた。
腕が地面からわずかに離れた。
指がゆっくりと開いていく。
それに気づいたミリアは、すぐにその手をつかんだ。
両手で支えながら、自分の顔の高さまで持ち上げた。
涙が金属の指先を濡らした。
エトは、優しく触れなければならないことを覚えていた。
指先が、少女の頬をほんの少しだけなぞった。
それから、腕が落ち始めた。
ミリアはすぐに受け止めた。
「ちゃんと持ってるよ」
彼女は両手でエトの手を包み、頬に押し当てた。
涙を流しながら、何度もうなずいた。
エトは少女を見つめた。
視界の端から、少しずつ暗くなっていく。
やがて背後の建物も見えなくなった。
残っているのは、少女の顔と、自分の手を包んでいるその両手だけだった。
休止状態への移行を促す警告が、再び表示された。
エトは、それを遅らせようとした。
彼女はまだ、返事を待っている。
動力炉の脇で火花が散った。
金属の身体が一度、大きく震えた。
そして、胸の中で鳴り続けていた低い駆動音が止まった。
最後の映像が消える直前まで、ミリアはエトの手を支えていた。
少女は動かなくなった指先に頬を寄せ、ゆっくりとその指に頬をすり寄せた。
あとがき
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
ここまでのお話は、『ルセリア』という物語のほんの始まりにすぎません。
次回、いよいよルセリアが登場します!
でも、エトのことも忘れないでいてくれたら嬉しいです……(;;)
The Tear Bear




