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第四章 届かなかった声

「川沿いの廃屋に、糸を探しに行ってくるね」

 ミリアはそう言いながら、紐を切るための小さなナイフを鞄にしまった。

 見本に持っていく布切れも畳んで入れ、肩紐をかけ直す。

 エトは入口で銃の点検をしていた。

「私も一緒に行こうか」

「前に通った道だから大丈夫。エトは罠を見に行くんでしょ?」

 エトはうなずいた。

「小川の北側だ。昼までには戻る」

 ミリアは服の下にある円盤に触れ、エトに見せた。

 エトが手首のボタンを押すと、ミリアの円盤に小さな光が灯った。

 彼女も試しに押し返した。

 エトが顔を向ける。

「正常に作動している」

「新しい足跡や知らない人を見つけたら、すぐに引き返すこと」

「わかってるよ」

 ミリアは二歩ほど歩き出してから、振り返った。

「エト」

 彼が顔を上げる。

 危うく贈り物のことを口にしそうになり、ミリアは笑顔に変えて手を振った。

「じゃあ、行ってくるね」


 川沿いの古い建物は、以前来たときと同じように静まり返っていた。

 屋根の一部は崩れ落ち、二階の窓には蔦が絡みついている。

 入口の上にある看板は色あせ、店の名前を最後まで読み取ることはできなかった。

 ミリアは壁際で足を止め、しばらく耳を澄ませてから中へ入った。

 エトに危ないと言われていた床を避け、壊れたミシンが置かれたテーブルの横を通り、奥の木製の棚へ向かった。

 小さな箱は、まだそこにあった。

 ミリアは一つずつ蓋を開けていった。

 黒い糸。

 白い糸。

 ボタン。

 そして、ほとんどが錆びてしまった針。

 最後の箱を開けたとき、ミリアの手が止まった。

 布の包みの下に、青い糸巻きが挟まっていた。

 彼女はそれを取り出し、持ってきた布切れと並べてみた。

 それから、窓の近くの明るい場所へ移動して確かめた。

 エトの瞳よりも、少しだけ淡い青だった。

 けれど、灰色の布に刺繍すれば、きっとはっきり見えるだろう。

 ミリアは糸巻きを鞄にしまった。

 そのとき、入口の方から靴がガラス片を踏む音がした。

 彼女はすぐに振り返った。

 そこに立っていた男の左頬には、傷跡があった。

 ミリアはその顔を覚えていた。

 男もしばらく彼女を見つめてから、名前を口にした。

「ミリア」

 ミリアは、一瞬警戒することも忘れて歩み寄った。

「無事だったの? おばさんは? 一緒にいる?」

 男は答えなかった。

 その視線はミリアの鞄へ、きれいに繕われた服へ、そして傷一つない手足へと移っていった。

「まだ、あいつと一緒にいるのか」

 ミリアは足を止めた。

 男の背後から、ほかの人々が次々と入ってきた。

 基地で見かけたことのある顔がいくつもあった。

 上腕に赤い布を巻いた男も、その中にいた。

 彼らの服は破れ、煤で汚れていた。

 傷口に巻かれた布が、元の色もわからないほど汚れている者もいた。

「おばさんのことを聞いてるの」

 頬に傷跡のある男が、ミリアの手首をつかんだ。

 ミリアはびくりとして、手を引こうとした。

「機械どもは基地の場所を知っていた」

 男が言った。

「俺たちは、あそこでずっと隠れて暮らしていたんだぞ」

「煙が見えたから、私もエトと見に行ったの。でも――」

 つかまれた手首に、さらに力がこもった。

「またあいつを基地に連れていったのか?」

「生き残った人を探しに行ったの!」

 ミリアは空いている手で男の腕を押した。

 しかし、赤い布の男が近づき、そちらの腕もつかんだ。

「違うの、わかってないよ。エトが教えたんじゃない。ずっと私と一緒に――」

「お前の見ていないところで、あいつが何をしていたか、どうしてわかる?」

 強く引っ張られ、ミリアの肩が戸枠にぶつかった。

 彼女は歯を食いしばった。

 まだ動かせる方の手を服の下へ差し入れ、金属の円盤を握りしめる。

 そして、ボタンを押し続けた。

 手のひらの下で、青い光が灯った。

 赤い布の男が彼女の腕を引き離した。

 しかし、信号はすでに送られていた。

「エト!」

 少女の声が入口の外へ響いた。

 頬に傷跡のある男が、彼女の口を手で塞いだ。

 ミリアはすぐさまその手に噛みついた。

 男は悪態をつき、彼女を突き飛ばした。

 ミリアは床に倒れ、鞄が肩から滑り落ちた。

 中の物がぶつかり合い、小さな音を立てた。

 彼女はテーブルの脇の隙間を通って逃げようとした。

 しかし、足首をつかまれた。

「ひとまず連れていけ」

 赤い布の男が言った。

「あいつにも食料を蓄えている場所があるはずだ。どこにあるか吐かせろ」

 ミリアは抵抗したが、そのまま店の外へ引きずり出された。

 一度だけ、誰もいない入口へ目を向けた。

「エト!」


 手首で警告音が鳴った。

 エトは罠にかかった獲物の包みをすぐに地面へ置いた。

 ミリアの位置情報は、川沿いの建物が集まる一帯を示していた。

 もう一度信号が届いた。

 その直後、位置がミリアの向かうと言っていた店から離れ始めた。

 エトはそちらへ顔を向けた。

 そして、走り出した。

 行く手を塞ぐ枝が衝撃で折れた。

 小川を一息に飛び越え、以前は迂回していた崩れた壁の脇を通り抜ける。

 そのまま坂を駆け上がり、古い揚水施設へ向かった。

 施設の隣にある資材倉庫から、人の声が聞こえてきた。

 続いて、ミリアの声がした。

「もう何が欲しいのかわからないよ! 離して!」

 少女の声が途切れ、建物の中から何かがぶつかる音がした。

 エトは銃のグリップを強く握った。

 金属同士がきしむ音がするほどだった。

 これまで戦場で、人間の叫び声を数え切れないほど聞いてきた。

 しかし今回は、銃のグリップを壊さないよう、自分の手に握る力を緩める命令を出さなければならなかった。

 エトは銃を構えた。


 ミリアの両手は、身体の前で縛られていた。

 彼女は、土台から取り外された古いポンプのそばで、床に座らされていた。

 男が一人、肩をつかんで押さえつけている。

 立ち上がろうとするたびに、床へ押し戻された。

 頬に傷跡のある男と、赤い布を巻いた男は、すでに奥の機械室へ入っていた。

 外にも何人かの見張りがいた。

 そのうちの一人がミリアの鞄を開けて中を調べ、壁際へ放り投げた。

 ミリアはその鞄を目で追った。

 口の開いた鞄から、灰色の布切れがのぞいていた。

 ようやく見つけた青い糸巻きも、中に入ったままだった。

「隠れ家はどっちだ」

 肩を押さえている男が尋ねた。

 ミリアは答えなかった。

 男の手に、さらに力がこもった。

 入口の方から銃声が響いた。

 見張りに立っていた男が、誰かが振り向くよりも早く倒れた。

 窓際にいた別の男が武器を持ち上げたが、二発目の銃弾を受け、壁の縁から仰向けに落ちた。

 ミリアが振り返ると、青い光が見えた。

「エト!」

 彼女の肩をつかんでいた男がナイフを抜いた。

 しかし、刃を振り下ろすよりも先に、エトが目の前まで迫っていた。

 金属の手が男の手首をつかみ、横へねじった。

 ナイフが手からこぼれ落ちる。

 エトはもう片方の手に持つ銃を男の顔面に叩きつけ、ミリアから引き離すように突き飛ばした。

 男は倒れながら、少女の脚をつかもうとした。

 エトの手首から刃が伸び、一閃した。

 男の身体はポンプの脇へ崩れ落ちた。

 左側から銃声が響いた。

 弾丸がミリアの頭のすぐ横にある鉄板へ命中した。

 彼女は反射的に身を伏せた。

 エトは振り向きざまに一発撃ち返した。

 テーブルの陰に隠れていた男が、自分の武器の上に倒れ込んだ。

 エトはミリアの手首を縛っていた紐を切った。

 そして、腕で彼女をかばいながらポンプの陰へ移動させ、身を伏せさせた。

「頭を下げていろ」

 ミリアはエトの腕をつかんだ。

 エトはほんの一瞬、彼女へ顔を向けた。

「必ず連れて帰る」

 背後から駆け寄る足音がした。

 エトは身体をひねって迎え撃った。

 ナイフを持った男が、脇の装甲の隙間を狙って突きかかってくる。

 エトは身をかわし、相手の手首をつかんだ。

 刃が装甲を擦り、甲高い音が響く。

 そのまま手首をねじり返すと、男の握っていた刃が自分の胸へ突き刺さった。

 男はよろめいて後退した。

 エトはその身体を、鉄棒を持って走ってきた別の男へ突き飛ばした。

 二人はぶつかり合い、体勢を崩した。

 エトは鉄棒を持つ男を蹴り飛ばした。

 男は柱に激突した。

 鈍い音が響き、身体が柱を滑るようにして床へ崩れ落ちた。

 もう立ち上がることはなかった。

 正面の入口で影が動いた。

 外にいた二人の男が、同時に銃を向けてきた。

 エトは前を塞ぐ身体を払いのけ、ポンプの陰から踏み出すと、続けざまに二度引き金を引いた。

 一人は入口の敷居に倒れた。

 もう一人は後ろの壁にぶつかり、そのまま隣に崩れ落ちた。

 銃のスライドが後退したまま止まった。

 弾切れだった。

 エトは銃を半ば下ろし、ミリアを隠れさせた場所へ振り返った。

 彼女の姿は、そこになかった。


 奥の機械室の扉が開け放たれていた。

 頬に傷跡のある男が、建物の脇にある細い通路へミリアを引きずり出していた。

 片腕を少女の肩の上から回して抱え込み、もう片方の手に持ったナイフを首筋へ押し当てている。

 赤い布の男は後ずさりしながら、その後ろについていた。

 手に持った拳銃は、エトへ向けられていた。

 戦闘の間、二人は機械室の壁とポンプ本体に遮られ、エトの視界から外れていた。

「そこで止まれ!」

 エトは側面の扉まで進んだところで足を止めた。

 建物の脇の地面は、古い水路へ向かって下り坂になっていた。

 土手には木の根が長く露出している。

 その先には、二人の寝床へ続く森が広がっていた。

 ミリアは荒い息を繰り返し、両手で自分を押さえつけている腕をつかんでいた。

 ナイフの刃が肌に食い込み、首元に細い赤い跡ができていた。

 エトは少女を拘束している手から、もう一人の男が持つ拳銃へと視線を移した。

 エトとミリアの間には、まだ何歩分もの距離があった。

 しかし、ナイフの刃と少女の首の間には、隙間がまったくなかった。

「銃を捨てろ」

 エトは手を開き、銃を落とした。

 金属が地面にぶつかる音に、ミリアがびくりと震えた。

 彼女を拘束していた男は、すぐさまナイフを強く押しつけた。

 エトはすべての動作を止めた。

「彼女を放せ」

 赤い布の男は建物の中に倒れている人々を見た。

 それからエトへ向き直った。

 拳銃を持つ手が、かすかに震えていた。

「胸の装甲を開けろ」

 エトは動かなかった。

 男がもう一度怒鳴った。

「開けろ!」

 ミリアは首を横に振った。

「だめ……」

 エトは拳銃の位置を確認した。

 少女を拘束する男の足の位置。

 ナイフを持つ手に到達するまでの距離。

 計算を繰り返した。

 もう少し速く動けたとしても、ミリアの安全を保証するには足りなかった。

 手首をつかむより先に刃が動けば――

 エトはその予測を中断し、最初から計算し直した。

 結果は変わらなかった。

「エト……」

 ミリアの声は、言葉にならないほど震えていた。

 エトは視線を上げ、彼女を見た。

 濃い桃色の髪がほどけ、片方の頬にかかっていた。

 岩の裂け目の入口で、薬草を集めていたあの日と同じだった。

 けれど、あのとき髪を払いのけていた手は今、ほかの人間の腕を必死につかんでいる。

 エトは手を上げ、胸の中央にある留め具に触れた。

 ミリアが目を見開いた。

「やだ……」

「動くな」

 エトは彼女に言った。

 装甲カバーが開いた。

 少し歪んだハートの絵が胸の中央からずれ、内側にある動力炉の青い光が現れた。

 直後、銃声が響いた。

 胸の中で青い光が激しく瞬いた。

 動力炉の表面に亀裂が走った。

 そこから細かなひびが枝分かれするように広がり、これまで一定の調子で鳴っていた駆動音が突然途切れた。

 エトの脚から力が抜けた。

 片膝をついて倒れ込み、手を地面につこうとした。

 しかし、手首が折れるように崩れ、身体は土手の脇へ横倒しになった。

 ミリアの声が聞こえた。

 最初に呼ばれた自分の名前は、はっきりと聞き取れた。

 しかし、二度目にはその声がひどく歪んだ。

 破損した動力炉からの不安定な電流が回路を駆け抜けた。

 予備電源へ切り替わると同時に、記憶の一部から映像と音声が抜け落ちた。

 両眼の光が弱まった。

 目の前の映像が途切れ途切れになり、二人の人間の位置が、途中の動きを飛ばして移り変わっていく。

 ふいに、地面の映像が消え、木箱のテーブルが見えた。

 少女が一人、皿をこちらへ寄せている。

 目の前に立つ少女よりも、髪が短かった。

 唇が動いていた。

 あの日、彼女が何を言ったのか思い出せなかった。

 エトは腕を動かそうとした。

 しかし、指がわずかに震えただけだった。

 残されたエネルギーでは、機能停止を防ぐだけで精一杯だった。

 赤い布の男は拳銃を下ろした。

 長い間、金属の身体を見つめていた。

 そして、大きく息を吐いた。

「……終わったな」

 頬に傷跡のある男が、ミリアの首から腕を離した。

 彼女は男の腹へ肘を叩き込み、身体を押しのけた。

 男は背後から悪態をついたが、もうナイフで引き止めようとはしなかった。

 ミリアは走り、エトのそばに膝をついた。

 膝が石にぶつかり、思わず身体が跳ねた。

 それでも、両手で装甲の縁をつかみ、エトの身体を起こして土手にもたれさせようとした。

「エト、こっちを見て!」

 エトは頭を動かそうとした。

 少女の顔が、はっきり見える距離まで近づいた。

 頬にはあざがあり、両手首には赤い跡が残っていた。

 編んでいた髪も、ほとんどほどけていた。

 エトは彼女の名前を呼ぼうとした。

 毎日、何度も呼んでいたことは覚えている。

 しかし今は、名前の最初の音だけが引っかかり、その先がどうしても出てこなかった。

 ミリアは動力炉をのぞき込んだ。

 彼女の指が亀裂の上で震えた。

 触れることができず、代わりに胸の開口部の縁をつかんだ。

「どうしたらいいの? 教えてよ……!」

 エトは音声システムを起動した。

 しかし、かすれた雑音しか出なかった。

 ミリアはすぐに顔を近づけた。

「ここにいるよ。ちゃんと聞いてるから!」

 エトはもう一度試した。

 声は言葉にならなかった。


「この娘はどうする?」

 頬に傷跡のある男が、ナイフを鞘に戻しながら尋ねた。

 赤い布の男は建物の方を見た。

 一緒に来た八人の仲間が、床に倒れていた。

 誰一人、動く者はいなかった。

 男は奥歯を強く噛みしめた。

「先に食料の隠し場所へ案内させる」

「じゃあ、こいつは……」

「あとで部品を回収しに来ればいい」

 赤い布の男は近づいてくると、服の中からしわくちゃになった紙を取り出し、ミリアの前へ投げ捨てた。

 ミリアは、その絵をすぐに思い出した。

 紙の角は破れ、中央の折り目は黒ずんでいた。

 折り目に重なった文字は、ほとんど読めなくなっている。

 男は靴の先で紙を広げた。

「描いてあったとおりだったな」

 ミリアは紙に描かれた動力炉の図を見つめ、それから顔を上げた。

「……自分たちを守るために使うって言ったのに」

 赤い布の男は答えなかった。

 代わりに、もう一人の男を呼び、少女を引き離すよう命じた。

 ミリアはエトの腕に手を置いた。

「教えてくれたのはエトなんだよ! みんなを助けてくれたのに!」

 エトの頭の中で、音が一瞬途切れた。

 次に聞こえてきたのは、頭上から響く赤い布の男の声だった。

「お前がこいつの弱点を教えてくれなかったら、もっと何発も撃ち込まなきゃならなかっただろうな」

 エトは視線を紙へ向けた。

 鉛筆で描かれた線は、少し片方へ傾いていた。

 動力炉を表す円の周りには、何度も消した跡が薄く残っている。

 覚えていた。

 ミリアは、木箱のテーブルを挟んで向かいに座り、この絵を描いていた。

『じゃあ、胸の動力炉は? エトのと同じなの?』

 エトは、そのあとの会話を思い出そうとした。

 しかし、ランプの光に照らされた光景は途中で途切れ、今、自分の胸を押さえている少女の手へと変わってしまった。

「ごめんなさい……」

 ミリアの声は、そこまでしか聞き取れなかった。

 彼女は慌てて何かを話し続け、紙を指さしてから、再びエトの手を握った。

 しかし、その唇の動きに音声は伴わなかった。

 エトは少女を見つめた。

 なぜ、あいつらに教えた。

 彼女に胸の装甲を開けて見せたことは覚えている。

 あの手が動力炉の上に伸びてきたときも、避けずにそのままにしていた。

 あの夜、自分は何と答えたのだろう。

 エトは記憶をたどり、木箱のテーブルへ戻った。

 聞こえてくるのは、彼女の質問ばかりだった。

 自分が何と答えたのか、その音声はすべて失われていた。

 残っているのは、弱点について尋ねる声。

 少女の筆跡。

 そして、紙に描かれた位置へ撃ち込まれた銃弾だけだった。

 頬に傷跡のある男が、ミリアの腕をつかんで引き上げた。

 彼女は激しく振り払った。

「触らないで!」

 もう片方の手は、まだエトの手首を握っていた。

 赤い布の男も近づき、そちらの腕を引っ張った。

 ミリアの身体が地面から引き上げられる。

 金属の手をつかんでいた指が、一本ずつ滑り落ちていった。

 エトはその手を見つめた。

 別の記憶が浮かび上がった。

 外では雨が降っていた。

 膝の上には一枚の布があり、小さな指が自分の手首を握っていた。

 それがいつの夜だったのか、もうわからなかった。

 今も彼女は、必死に自分の手をつかもうとしていた。

 唇が、同じ名前を何度も繰り返している。

 金属の手がそれを追うように動いた。

 しかし、力が尽き、途中で止まった。

 このまま、彼らに彼女を連れていかせるわけにはいかなかった。

 エトは残りの予備電力を、腕と脚へ送り込んだ。

 視界の端から映像が消えていく。

 無理に動けば機能停止につながるという警告音が響いていた。

 今度は、指先が命令どおりに動いた。

 頬に傷跡のある男のナイフは、すでに腰の鞘に戻されていた。

 男がつかんでいるのは、ミリアの腕だけだった。

 エトは手を伸ばし、その男の足首をつかむと、力任せに引き寄せた。

 男は体勢を崩し、少女の腕から手を離した。

 エトはすぐに身体を起こした。

 片膝が地面に食い込み、土が沈んだ。

 手首から刃が伸び、倒れ込んでくる男の身体へ突き刺さった。

 頬に傷跡のある男は、口を開いたまま動きを止めた。

 エトはミリアを武器の届く範囲から引き離した。

 そして、その男の身体を、こちらへ向けられた銃との間に押し出した。

 一発の銃声が響いた。

 弾丸の衝撃が、盾にした身体を通して金属の腕へ伝わってきた。

 エトはその身体を突き放した。

 赤い布の男へ踏み込み、拳銃を握る手首をつかんで上へねじり上げた。

 次の銃弾が、頭上の枝をかすめて飛んでいった。

 エトのもう片方の手が、男の喉元を薙いだ。

 赤い布の男はよろめき、後退した。

 拳銃が手から落ちた。

 そのまま木の根の上へ倒れ込んだ。

 エトはしばらく立ち尽くしていた。

 胸の中で、青い光が激しく明滅している。

 やがて、両脚が崩れた。

 ミリアは慌てて駆け寄り、身体を支えようとした。

 しかし、金属の身体はあまりにも重かった。

 二人は土手の脇へ倒れ込んだ。

 エトはまだ動く方の腕を使い、自分の身体がミリアの上に倒れかからないように支えた。

 そして、動きを止めた。


 ミリアはすぐに彼のそばへ這い戻った。

 肩で身体を押し、木の根の下にある土のくぼみへもたれさせた。

 下敷きになっていた片腕を引き出し、正面に座り込んだ。

 胸の装甲カバーは、まだ開いたままだった。

 内部の光が一瞬だけ強くなり、すぐにまた弱まった。

 ミリアは手を差し入れ、動力炉の縁から外れた部品を支えた。

 覚えている位置へ戻そうとする。

 指先の近くで火花が散った。

 ミリアは驚いて手を引いたが、すぐにまた身を乗り出して中をのぞき込んだ。

 亀裂は、まだ大きく開いたままだった。

 彼女はこれまで、エトの留め具の修理を手伝ったことがあった。

 工具を持っていてあげたこともあった。

 けれど、エトがこれを修理するところは、一度も見たことがなかった。

「どの部品が必要なの?」

 ミリアはエトの手の下に、自分の手を差し出した。

「指さすだけでいいから。私が取ってくるよ」

 エトは指を動かそうとした。

 ミリアはすぐに顔を近づけた。

 何も言わず、その動きを待った。

 しかし、金属の手は持ち上がらなかった。

 ミリアはゆっくりと、その手を彼の膝へ戻した。

 そして、建物の中に置き去りにされていた鞄を急いで取りに戻った。

 中の物をすべて地面へ広げた。

 布切れ。

 針。

 糸巻き。

 ミリアは小さなナイフを手に取った。

 その刃先を見つめ、やがてゆっくりと地面へ置いた。

 動力炉を固定する部品を外すための道具すら、持っていなかった。

 青い糸巻きが転がり、木の根のそばで止まった。

 ミリアは思わず手を伸ばしかけた。

 しかし、その前にエトの胸の光が明滅した。

 彼女は糸巻きへ伸ばした手を下ろし、再びエトの腕をつかんだ。

「……おうちに帰ろう、エト」

 ミリアは金属の腕の下へ肩を差し入れ、身体を起こそうとした。

 重みがのしかかり、傷ついた膝が再び地面に落ちた。

 彼女は歯を食いしばった。

 今度は装甲の縁をつかみ、もう一度持ち上げようとした。

 ほんの少ししか動かなかった。

 ミリアはゆっくりとエトの身体を元の位置へ戻した。

 自分の手も土だらけになっているのに、彼の肩についた土を払い落とした。

「誰か呼んでくる。運ぶのを手伝ってもらうから」

 早口でそう言うと、袖で顔を拭った。

 涙を拭い、前が見えるようにした。

「ここで待っててね。帰り道は覚えてるから。すぐに戻ってくるよ」

 エトは、少女が立ち上がろうとしているのを見た。

 小川の脇の道には気をつけるように伝えたかった。

 前に降った雨で、あの辺りの地面は崩れていた。

 しかし、帰り道を思い浮かべようとすると、森の光景がところどころ抜け落ちていた。

 曲がり角にある木は覚えている。

 だが、その木を通り過ぎた先には、何の映像も続かなかった。

 ミリアは、エトの両眼の光がさらに弱くなったことに気づき、立ち上がるのをやめた。

「エト」

 唇が動いているのは見えた。

 しかし、もう声は届かなかった。

 彼女はもう一度名前を呼んだ。

 エトと同じ高さまで顔を下げ、ちゃんと見えているか確かめようとするように、金属の顔をのぞき込んだ。

 エトは彼女の方を向こうとした。

 頭は動かなかった。

 ミリアは彼の手を持ち上げた。

 手首の装置がずり落ち、指の付け根に当たった。

 彼女は急いで革紐を元の位置に直した。

 そして、中央のボタンに目を留めた。

 ミリアは自分の服の下から、円盤を引き出した。

 ボタンを押し続けた。

 エトの手首に青い光が灯った。

 しかし、ほんの一瞬で消えてしまった。

 ミリアは自分の指を見下ろした。

 ボタンから手を離し、今度はさっきより強く押した。

 返事の光は灯らなかった。

「……ここにいるよ」

 彼女は円盤をエトの手首に近づけた。

 涙が手の甲に落ちても、そのまま待ち続けた。

 エトは、少女の手の中で震えている円盤を見つめた。

 そのとき、別の光景が一瞬だけ戻ってきた。

 少女がテーブルの向こうに座っている。

 円盤を持ち上げて口元を隠しているが、笑みまでは隠しきれていなかった。

 あのとき、自分は振り返った。

 呼ばれるたびに、必ず答えていた。

 エトは記憶の中の少女の名前を呼ぼうとした。

 その名前は、まだ一部が欠けたままだった。

 けれど、いつも口にしていた返事だけは覚えていた。

『ここにいる』

 金属の身体から、かすれた雑音が漏れた。

 ミリアはすぐに顔を上げた。

 円盤が手から滑り落ち、首から下がった紐の先で揺れた。

 彼女はさらに近づき、次の言葉を待った。

 エトはもう一度、声を出そうとした。

 しかし、何も聞こえなかった。

 代わりに、手を持ち上げた。

 腕が地面からわずかに離れた。

 指がゆっくりと開いていく。

 それに気づいたミリアは、すぐにその手をつかんだ。

 両手で支えながら、自分の顔の高さまで持ち上げた。

 涙が金属の指先を濡らした。

 エトは、優しく触れなければならないことを覚えていた。

 指先が、少女の頬をほんの少しだけなぞった。

 それから、腕が落ち始めた。

 ミリアはすぐに受け止めた。

「ちゃんと持ってるよ」

 彼女は両手でエトの手を包み、頬に押し当てた。

 涙を流しながら、何度もうなずいた。

 エトは少女を見つめた。

 視界の端から、少しずつ暗くなっていく。

 やがて背後の建物も見えなくなった。

 残っているのは、少女の顔と、自分の手を包んでいるその両手だけだった。

 休止状態への移行を促す警告が、再び表示された。

 エトは、それを遅らせようとした。

 彼女はまだ、返事を待っている。

 動力炉の脇で火花が散った。

 金属の身体が一度、大きく震えた。

 そして、胸の中で鳴り続けていた低い駆動音が止まった。

 最後の映像が消える直前まで、ミリアはエトの手を支えていた。

 少女は動かなくなった指先に頬を寄せ、ゆっくりとその指に頬をすり寄せた。

あとがき


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

ここまでのお話は、『ルセリア』という物語のほんの始まりにすぎません。

次回、いよいよルセリアが登場します!

でも、エトのことも忘れないでいてくれたら嬉しいです……(;;)


The Tear Bear

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