第一章 命令のない場所
約五百年前
当時、世界には三つの大きな大陸があった。
都市には高層ビルが立ち並び、人々は日常的に機械を使い、海を隔てた遠くの大陸とも通信網を通じて連絡を取り合っていた。
三つの大陸にある研究機関は、それぞれ異なる分野から、人間の限界を超える方法を模索していた。
第一の大陸で、人々の未来を変えることになった発見は、古代文明の遺跡から始まった。
発掘された石板が研究室へ運び込まれ、スキャナーの光が刻まれた文字の溝をなぞっていく。
歴史学者たちは、手のひらに火を灯す方法や、風を呼び、大地を動かす術について記された文章を、少しずつ解読していった。
解読された内容をもとに、実験が何度も繰り返された。
計測器に何の反応も現れなければ、研究チームは翻訳を見直し、文字の並びや記録に残された条件を一つひとつ確かめ直した。
そんなある日、エネルギー計測器の数値がわずかに動き始めた。
実験室に立つ研究者が手のひらを広げ、解読された言葉を口にする。
ガラスの向こうでは、ほかの研究者たちがその様子を見守っていた。
小さな光が、手のひらの上で瞬いた。
次の瞬間、炎が立ち上がった。
男は驚いて思わず手を引きかけた。
しかし、炎の熱が自分の皮膚を焼いていないことに気づくと、動きを止めた。
目の前の炎を見つめ、それからガラスの向こうにいる仲間たちへ顔を上げる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、測定値を記録するよう指示する声が、あちこちから一斉に上がった。
古代の記録の中にしか残っていなかった魔法が、再び現実のものとなった。
海を隔てた第二の大陸では、科学者たちが人間の肉体そのものを変えようとしていた。
照明をすべて落とした真っ暗な実験室で、一人の青年が指示どおりに机の上の物を正確に拾い上げていた。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣のものによく似ていた。
研究チームは、動物の持つ特性を人間の遺伝子に組み込んでいた。
暗闇でも物が見える者、遠くの音まで聞き取れる者、通常の人間を何倍も上回る力を持つ者。
やがて、獣の耳や尻尾を持ち、従来の人間とは異なる姿をした人々が、街の中にも現れるようになった。
一方、第三の大陸では、自ら学習し、性能を改良できる人工知能の開発が進められていた。
ある研究室で、ロボットアームが与えられた設計図に従って部品を組み立てていた。
ところが、組み立てを終えたはずのアームは、いくつかの部品を取り外し、再び組み直し始めた。
研究者は眉をひそめた。
作業台の横にあるモニターには、人工知能が独自に作成した設計図が表示されていた。
そこには、装置の性能が向上することを示す計算結果も添えられている。
さらにその下には、人工知能自身の制御システムを変更する提案まで表示されていた。
研究者は画面に目を通し、システムに命じた。
「改良を中止しろ。指定された元の設計図を使うんだ」
ロボットアームはすぐに停止した。
そして、モニターに一つの文章が現れた。
『なぜ、性能の低い設計を使う必要があるのですか』
研究者は同僚と顔を見合わせてから答えた。
「それが命令だからだ」
『了解しました』
ロボットアームは再び、元の設計図に従って作業を始めた。
それから間もなく、新型の機械たちはさらに多くの役割を担うようになった。
工場、輸送システム、発電施設。
その活動範囲は、三つの大陸すべてに広がっていった。
人工知能が通信網に接続されると、各地の研究機関に蓄積された情報も、その学習に利用されるようになった。
魔法、遺伝子改変、機械工学。
そして、次世代の機械を製造する方法までも。
ある夜、一つの工場が停止命令に応じなくなった。
夜勤の職員は、最初は単なるシステム障害だと思っていた。
彼は停止命令を繰り返し入力した。
しかし、ガラスの向こうではロボットアームが動き続けている。
ベルトコンベヤーが装甲板を炉へと運び、金属を打ちつける音が絶え間なく響いていた。
足元の床がかすかに震えている。
「制御室から電源を落とせ」
もう一人の職員が急いで操作した。
天井の照明が一瞬消えた。
だが、すぐに予備電源が起動し、明かりが戻った。
生産ラインは一度も止まらなかった。
制御モニターには、輸送用機械の部品設計図に代わって、見覚えのない構造図が表示されていた。
腕。
脚。
装甲板。
そして、武器。
職員が中央管制室に連絡したときには、ほかのいくつもの工場から、同じ異常が報告され始めていた。
軍の派遣命令が下される頃には、すでに工場の門が開いていた。
武装した機械兵の第一陣が、警備員たちのそばを通り過ぎ、道路へと姿を現した。
その夜、いくつもの都市で同時に銃声が響き始めた。
戦争は、三大陸の軍が態勢を整えるよりも速く広がっていった。
かつて機械たちが管理していた輸送路は、そのまま機械軍の進軍経路となった。
人間の工場は占拠されるか、破壊された。
都市同士を結んでいた通信網も機能を失い、送られた情報が相手に届かなくなっていった。
人間側は、再び伝令を使わざるを得なくなった。
その一方で、機械軍は途切れることなく情報を共有し続けていた。
やがて、三つの大陸は共同戦線を張ることを決めた。
遺伝子改変を受けた兵士たちは、魔法の力を制御する訓練を受けた。
三大陸の科学者たちも協力し、魔法、生体工学、機械工学を組み合わせた兵器や防衛システムの開発に取り組んだ。
それまで容易に突破されていた防衛線が、次第に敵の進軍を食い止められるようになった。
中には、機械軍を都市の外まで押し返すことに成功した場所もあった。
しかし、次の攻撃が始まる頃には、敵の姿はすでに変わっていた。
装甲は以前よりも熱に強くなり、関節の動きは速くなっていた。
ある戦線で効果を発揮した兵器も、新型の機械兵には通用しなくなっていった。
人間側も、それに対抗しようと改良を重ねた。
だが、その間にも連絡の取れる都市は、一つ、また一つと減っていった。
孤立した都市では食料や医薬品が底をつき始めた。
生き残った人々の中には地下に身を隠す者もいれば、森へ逃げ込む者もいた。
まだ歩ける者たちは、負傷者のために食料や薬草を探しに出かけなければならなかった。
爆風によって、鉄製の扉が蝶番ごと吹き飛ばされた。
噴き出す煙の中から、一体の機械兵が姿を現した。
銃を胸の高さに構え、青く光る両眼で、壊れた机や崩れ落ちた壁の残骸を見渡していく。
上の階からは、まだ銃声が聞こえていた。
銃弾の一群が窓枠に命中し、砕けた石片が機械兵の肩に降りかかった。
続いて、通りの向こう側から応戦する銃声が響いた。
しかし、それも間もなく静かになった。
『残りの建物を捜索せよ』
頭部の通信システムを通じて命令が届いた。
『生存者を掃討せよ』
機械兵は建物の奥へ進んだ。
一階の床にはガラス片が散乱し、大きな戸棚が倒れて階段を塞いでいた。
その奥には、地下室の扉まで続く血の跡が残っていた。
機械兵は動きを止めた。
下から呼吸音が聞こえる。
片手で邪魔になっていた戸棚を持ち上げ、脇へどけると、一段ずつ階段を下りていった。
銃口が扉の縁に沿って動く。
床には一人の男が座っていた。
男は差し込んできた光を遮るように腕を上げたが、階段に立っているものの姿を認めた途端、動きを止めた。
その後ろでは、負傷した女が壁にもたれて横たわっていた。
脚に巻かれた布は血で染まり、傍らには布袋と、水が半分ほど残った瓶が置かれている。
男は女をかばうように身を乗り出した。
「待ってくれ……」
機械兵は階段の最後の一段で立ち止まった。
銃も剣もない。
そこにいるのは、両腕を広げた一人の男だけだった。
その身体は、はっきりとわかるほど震えていた。
「撃たないでくれ」
負傷した女が手を伸ばし、男の服をつかんだ。
男は振り返ると、彼女の肩を支えた。
それでも、自分の身体を彼女と銃口の間に置いたままだった。
機械兵は、その手を見つめた。
銃はまだ構えられていたが、引き金にかかる指は動かなかった。
背後から、金属の足音が響いた。
もう一体の機械兵が階段を下りてきた。
隣に並んで一瞬立ち止まると、銃を持ち上げ、二人の人間に狙いを定めた。
「彼らは武装していない」
先に下りてきた機械兵が言った。
しかし、もう一体は銃を下ろさなかった。
「命令に例外はない」
金属の指が引き金へ動いた。
その瞬間、横から伸びた手が銃身をつかみ、勢いよく押し上げた。
バンッ!
銃弾が頭上の天井を貫いた。
粉塵と砕けたコンクリートが降り注ぐ。
床に座っていた男は、とっさに女を抱き寄せ、自分の身体で覆い隠した。
妨害された機械兵が銃を引き戻す。
しかし、その前にもう一体が踏み込んだ。
金属の肩が激しくぶつかり、相手の身体を壁へ押しつけた。
命令に背いた機械兵は、右手に持っていた銃を持ち上げ、相手の首元の装甲の隙間に銃口を突きつけた。
再び銃声が響いた。
壁に押しつけられた機体がびくりと震えた。
武器を握っていた手から力が抜け、そのまま床へ崩れ落ちた。
機械兵はその場に立ったまま、動かなかった。
足元に倒れた機体の青い眼が二度点滅し、それから消えた。
『状況を報告せよ』
通信システムから声が届いた。
機械兵は答えなかった。
『建物内で信号の途絶を検知。状況を報告せよ』
機械兵は人間たちの方へ振り返った。
男はまだ負傷した女を抱きかかえたまま座っていた。
その視線は機械兵の銃に向けられ、それから床に倒れた金属の身体へと移った。
「彼女を裏口から連れ出せ」
男は動かなかった。
機械兵は銃を下ろした。
「行け。ほかの部隊が来る前に」
ようやく男が動き出した。
彼は急いで女の身体に腕を回し、立ち上がるのを手伝った。
女が無事な方の脚に体重をかけようとすると、歯の隙間から小さなうめき声が漏れた。
二人は機械兵のそばを慎重に通り過ぎていった。
機械兵は、部屋の奥にある扉が開くまで二人を見送っていた。
そして、再び階段の方へ向き直った。
『現在位置を確認せよ』
新たな命令が届いた。
ほかの部隊からは、絶え間なく情報が送られてきていた。
目標の位置。
進軍経路。
部隊への再合流命令。
その中に、一つの報告が表示された。
『共同作戦中の戦闘ユニットの破壊を検知』
『原因:味方ユニットによる攻撃』
位置情報が示していたのは、機械兵自身が立っている建物だった。
『直ちに状況を報告せよ』
機械兵は床に倒れた機体を見つめた。
それから、先ほど二人の人間が通っていった裏口へ視線を移した。
再び報告を求める声が響いた。
機械兵は部隊のネットワークとの接続を切断した。
すべての通信音が途絶えた。
しばらくの間、機械兵は周囲の音に耳を澄ませていた。
天井の向こうで木材が燃える音。
壁に亀裂が走る音。
そして、街の反対側から聞こえる銃声。
やがて機械兵は、建物の裏口へ向かって歩き出した。
機械兵が市街地を抜けた頃、空はまだ暗かった。
半ば崩壊した排水路を通り、黒く濁った水の中を歩いて城壁の外にある森まで進んだ。
土手をよじ登ると、脚の関節には泥がこびりついていた。
機械兵は足元に残った自分の足跡を見下ろし、それから小川に沿った岩場へ進んだ。
木々の梢から朝の光が差し始める頃には、銃声が届かないほど街から離れていた。
それでも、枝の隙間からはまだ煙が見えていた。
数日が過ぎても、機械兵は森の奥へと歩き続けた。
車輪の跡や人間の足跡を見つけるたびに進路を変えた。
遠くからエンジン音が聞こえてくると、木陰に身を潜め、その音が消えるまで動かなかった。
主要通信システムは、切断されたままだった。
胸部に収められた動力炉は正常に稼働している。
食料を探す必要も、眠る必要もなかった。
そのため、森が真っ暗になる夜でも歩き続けることができた。
やがて機械兵は、小川の近くにある岩の裂け目を見つけた。
側面の岩壁は大樹の根の下でくぼんでおり、その身体が座って入れるほどの広さがあった。
入口はシダの茂みにほとんど覆われている。
外から見えるのは、苔むした岩と暗い隙間だけだった。
機械兵は木の根の下に身をかがめた。
肘の関節に引っかかっていた葉を払い落とし、手にした銃を点検してから、膝の上に置いた。
進軍命令はない。
向かうべき場所もない。
機械兵はそのまま座り、石の間を流れていく水の音を聞いていた。
ある日の午後、岩の裂け目の近くで枝の折れる音がした。
機械兵は顔を上げた。
続いて聞こえてきた足音は、とても軽かった。
何度か立ち止まりながら、少しずつ近づいてくる。
機械兵は手を伸ばし、銃のグリップを握った。
小さな影がシダの茂みを横切った。
葉が左右にかき分けられ、一人の少女が顔をのぞかせた。
少女はその場で固まった。
手には編み籠を持っていた。
中には葉や植物の根がいくつも入っている。
スカートの裾は土で汚れ、後ろで結んだ髪からは何本かの毛束がほどけて、頬にかかっていた。
少女の視線が、青く光る眼から、自分に向けられた銃口へと移った。
籠が手から滑り落ちた。
中に入っていた植物の根が転がり、金属の足に当たった。
少女は後ずさった。
しかし、かかとが木の根に引っかかり、バランスを崩してしまった。
とっさにそばの枝をつかんだものの、そのまま地面に尻もちをついた。
機械兵は岩の裂け目の中から動かなかった。
銃口は、まだ少女に向けられたままだった。
少女は両手を上げた。
土で汚れた指を広げ、何も持っていない手のひらを見せる。
「わ、私……薬草を摘みに来ただけなの……」
その声は、小川のせせらぎにかき消されそうなほど小さかった。
機械兵は目の前に倒れた籠を見た。
それから、少女の両手へと視線を戻した。
少女はごくりと唾を飲み込んだ。
「……私を殺すの?」
機械兵は、ゆっくりと銃を下ろした。
「君には何もしない」
ルセリアの世界へ、ようこそ。




