第29話:フェイク停止
崩壊していくデータ空間の最奥。
ガブリエルという巨大な管理者が消滅し、無限の暗闇がボロボロと剥がれ落ちていく中で。そこだけが、まるで時間が止まった旧時代の研究室のように、ぽつんと切り取られていた。
俺――朝霧レンは、感覚の消えた右腕を引きずりながら、古びたデスクの上に置かれた『メインコンソール』の前に立った。
かつて。藤堂博士とミナの母親が。
争いに疲れた人々の心を癒やすために作った、システムの一番最初の原型。
すべての始まりであり。すべての終わりとなる場所。
緑色の文字だけが不気味に発光する、古いモニター画面。
そこには、たった一行。
一切の慈悲もないシステムメッセージが点滅していた。
『フェイク・レゾナンス・システムを完全にシャットダウンしますか? [ Y / N ] 』
「…………」
俺は。震える指先を、キーボードの上にそっと置いた。
この『Y』のキーを叩けば。本当に、すべてが終わる。
ネオ・トーキョーを優しく守り、残酷に縛り付けていた人工天蓋は消え失せる。
市民たちは。外側に広がる、あの赤茶けた死の荒野という現実を、直視することになる。
それだけではない。
システムによる感情の麻痺と調律が解ければ。
彼らは「失ったもの」の激痛を。今この瞬間から、その心で直接味わうことになるのだ。
桐生さんの死を。リクトさんの犠牲を。
俺自身も。誤魔化しようのない圧倒的な悲しみと、焼けつくような喪失感として。
この先、一生背負って生きていかなければならない。
ガブリエルが言っていた通り。
人間は再び、自らの感情に振り回され、また争いを、破滅の道を選ぶのかもしれない。
「……それでも」
俺の右手に。微かに、『銀色の光』が灯った。
痛みがなければ、誰かに優しくすることはできない。
悲しみがなければ、今ある命の尊さは分からない。
偽物の笑顔で塗り固められた永遠の檻より。
傷だらけでも、泥だらけでも。
自分の足で明日へと歩き出す、不器用で醜い世界の方が。
……絶対に、美しいはずだ。
「……おやすみ、ガブリエル。そして……藤堂博士、サユリさん」
俺は。この狂ったシステムを創り出し、そして最後に命を賭して止めようとした者たちへの祈りを込め。
右手の銀色の光と共に。
力強く、『Y』のキーを叩き込んだ。
カチャッ。
小さな、どこまでも無機質な打鍵音が、データ空間に響いた。
『――システム、シャットダウン。……全プロセスを、停止します』
そのアナウンスと共に。モニターの緑色の光が、プツリと途絶えた。
直後。
足元から凄まじい浮遊感が襲いかかり。
俺の意識は、真っ逆さまに、現実の肉体へと引き戻されていった。
*
「……っ、はぁッ!!」
俺は。肺が張り裂けるほど大きく息を吸い込み、跳ね起きるように目を開けた。
ひんやりとした。突き刺さるような冷たい風が、頬を撫でる。
そこは、果てしない暗闇の空間ではなく。
レゾナンス・タワー最上階、ボロボロに損壊した展望デッキだった。
「レン君……ッ!」
呼ぶ声と共に、ミナが俺の胸に飛び込んできた。
彼女はボロボロと大粒の涙を流しながら、俺の背中に腕を回し、折れんばかりに強く抱きしめていた。
「よかった……! コアの光が消えて、レン君が倒れたから……私、どうしようかと……っ」
「ミナ……。ごめん、心配かけたな」
俺は。震えるミナの肩を支え、ゆっくりと体を起こした。
全身の筋肉がズタズタに引き裂かれたように痛み、感覚のない右腕は重たい鉛の棒のようだったが。
不思議と、視界はどこまでも澄み切っていた。
俺たちは。展望デッキのひび割れた強化ガラス越しに、眼下のネオ・トーキョーを見下ろした。
『……ザ、ザザッ……レン! ミナ!! 聞こえるか!!』
インカムから、ハルの興奮しきった声が飛び込んでくる。
「ハル! そっちの状況は……!」
『……信じられねえ……っ! 地下の第六実験施設で、カプセルに繋がれてた連中が……全部、パージされた! ロックが外れたんだ! 生きてる……! みんな、ちゃんと、息をしてるんだよ……っ!』
ハルの声が、感極まった涙声に変わる。
『街中の市民の脳内チップも、干渉波が完全にロストした。……フェイク・レゾナンスは、死んだんだ! 俺たちは、やったんだよ!』
ハルの報告を聞きながら。俺たちは、街の様子をじっと見つめていた。
システムの強制力が霧散し。
街中の巨大なホログラム広告や、空を覆っていた人工天蓋の欺瞞が、砂嵐を立てて次々と消滅していく。
ネオ・トーキョーのドーム内に。外の荒野から入り込んだ、氷のような風が吹き込み始めていた。
街角に立ち尽くす数百万の市民。
自分たちを包んでいた、あの「温かい幸福のベール」が突然剥ぎ取られ。
彼らは戸惑い、怯え、そして、震えていた。
今までシステムによってゴミ箱へ棄てられていた。
不安、怒り、悲しみの波形が。
都市の隅々まで、渦を巻いて流れ出しているのが、俺にははっきりと分かった。
「……パニックになるな。……でも、それが、生きているってことだ」
俺は。祈るように、静かに街を見下ろした。
これから、この街は地獄のような日々を迎えるだろう。
食糧。エネルギー。そして、心に負ったあまりにも深すぎる傷。
システムという杖を失った人間たちが、自分たちの足だけで立ち上がり、社会を再構築するための、長く、果てしない道のりが待っている。
だが。
絶望に呑まれそうになった俺たちの頭上には、それがあった。
「……見て、レン君」
ミナが。涙で濡れた顔を上げ、天を指差した。
人工の青空が完全に剥がれ落ちた、ネオ・トーキョーの天蓋の向こう側。
そこには。
これまで百年間、誰も見たことがなかった。
息を呑むほどに澄み切った、圧倒的な『本物の星空』が広がっていた。
百年以上の間。分厚いホログラムと欺瞞に隠されていた、ドームの向こう側。
そこには、数え切れないほどの星々が、無言のまま、激しく瞬いていた。
「……きれい」
ミナが、子供のような掠れた声で呟く。
大地は死に、外気は毒に満ちている。
それでも。
宇宙の暗闇に輝く、その星々の光は。
作られたどんな幸福な映像よりも圧倒的な質量と、確かな『命の波形』を放っていた。
「ああ。……これが、俺たちの、本当の世界だ」
俺――朝霧レンは。星空からゆっくりと視線を下ろし、展望デッキの中心へと振り返った。
そこには。
機能を停止したレゾナンス・コアの傍らで。
一つの、巨大な『鈍色の塊』が、静かに立ち尽くしていた。
「……リクトさん」
俺は。重い足を引きずりながら、その塊へと、一歩ずつ近づいていった。
致死量の熱波から俺を護るために。
限界を越えて、肉体を溶かしながら盾となってくれた。
自由戦線の盾、白峰リクトの。変わり果てた姿。
かつて彼が誇った鋼の肉体は。凄まじい熱によって焼け焦げ、既に人の形すら留めていない。
今はただ。俺を送り届けるための、絶対に折れない『杭』として。
その場所に、深く、深く根を下ろしているだけだ。
俺は。まだ微かな熱を帯びている、その鋼の表面に、そっと右手で触れた。
「……あんたが、背中を押してくれたから」
堪えきれず。俺の目から、再び大粒の涙が零れ落ち、焼け焦げた鋼鉄を濡らしていく。
「あんたが、俺たちの感情を信じてくれたから。……俺、勝てたよ。リクトさん」
返事はない。
いつものように、豪快に笑って。俺の頭を乱暴に撫でてくれる、あの分厚い掌は。
もう、どこにもない。
「……白峰」
背後から、静かな靴音が近づいた。
霧島カイが、俺の横に立ち、その場に静かに片膝をついた。
かつて敵対し、そして共にシステムの真実に挑んだ男。
カイは。白峰リクトという一人の反逆者に対し。
調整局の、あるいは一人の騎士としての最敬礼である『右の拳を左胸に当てる』ポーズを、ゆっくりと捧げた。
「お前の。不器用で、真っ直ぐすぎる波形。……私は、嫌いではなかった。……安らかに眠れ」
ミナも。俺の隣で両手を組み。言葉にならない、深い祈りを捧げていた。
悲しい。
心が、内側から張り裂けそうだ。
システムが機能していた頃なら。この痛みも、瞬時に吸収され、平坦な安心感で上書きされていただろう。
だが。俺は、絶対に忘れない。
この胸を刺すような喪失感も。彼から受け取った、あの熱い波形も。
すべてを俺自身の『本物の感情』として。
この先、一生、抱えて生きていく。
ズズズズズズズズ……ッ!!!
その時。タワーの最上部が、不気味な地鳴りと共に、大きく、不規則に揺れた。
「っ!? なんだ……!」
「……タワーの崩壊が始まる」
カイが。鋭い眼光で立ち上がり、周囲を見回した。
「コアが機能を停止したことで、この構造を維持していた重力制御が落ちた。自重に耐えきれず、ここから順に崩れ落ちるぞ!」
カイの言葉を裏付けるように。
展望デッキの強化ガラスに、クモの巣状の亀裂が走り。
足元の特殊合金が、悲鳴を上げて砕け始めた。
『……ザザッ……おい、レン! ミナ! 早くそこから離れろ!!』
インカムから、ハルの焦燥しきった声が響く。
『タワーの非常用エレベーターを、こっちから物理強制で動かした! 今すぐそれに飛び乗って、地上へ降りてこい! 急げ!!』
「分かった! すぐに向かう!」
俺は。インカム越しに吠え返し、もう一度だけ、リクトさんの鋼鉄の背中を振り返った。
「……行くよ、リクトさん。桐生さん」
涙を、乱暴に袖で拭い。俺はミナとカイに向き直った。
「帰ろう。……俺たちの、悲しくて、痛くて。でも、どうしようもなく愛おしい、あの街へ」
「……ええ!」
「……ああ」
ミナが力強く頷き。カイが、静かに、だが確かな意志を宿して同意する。
頭上から瓦礫が、火花を散らして降り注ぐ中。
俺たちは。崩れゆく展望デッキを後にし、開かれたエレベーターの暗闇へと飛び込んだ。
重厚な扉が閉まり。エレベーターが、地上という名の『現実』へと降下を始める。
窓の外。
そこには。フェイク・スカイの消え去った、本物の『夜』が広がっている。
光を失い。凍えるような風に曝された、ネオ・トーキョー。
そこにはもう。
システムが与えてくれる完璧な平和も、甘い嘘も、どこにもない。
これから俺たちを待っているのは。
飢えと。寒さと。そして、己の剥き出しの感情に振り回される。
あまりにも泥臭い、人間の営みだ。
それでも。
俺の右手に。いまだに残る、その消えることのない『銀色の光』は。
どんな作られた幸福よりも、眩しく、そして暖かく。
俺たちの、本当の未来を照らしていた。




