第18話:裏切り
『――俺たちの仲間に。調整局に情報を流し続けている「スパイ」がいる』
ハッカー・ハルの放ったその一言は、熱気に満ちていたレジスタンス司令部の空気を、一瞬にして絶対零度まで凍りつかせた。
「スパイ、だと……?」
白峰リクトが、喉の奥から地鳴りのような声を絞り出す。
誰もが言葉を失い、隣に立つ者の顔を、強張った表情で、あるいは刺すような疑念を込めて見回した。
この閉鎖された地下空間で、調整局という巨大な怪物と戦う反逆者たちにとって、「裏切り」という二文字は、即座に「全滅」と「死」を意味する。
「おい、ハル! 冗談じゃねえぞ。俺たちの中に調整局の飼い犬が紛れ込んでるってのか!?」
レジスタンスの若い闘士の一人が、通信機に向かって唾を飛ばしながら怒鳴り声を上げた。
『冗談でこんなこと言うかよ。……俺が傍受した暗号通信のログは、間違いなく「第六廃棄ブロック」の内部から発信されていたんだ』
通信の向こうで、ハルが忌々しそうに奥歯を鳴らす音が響く。
『しかも、使われていたのは調整局の最高幹部クラスしかアクセスできない、ブラックボックス化された軍用プロトコルだ。……あの場にいた人間か、あるいは遠隔で俺たちの全動線を監視できた権限者の中に、発信源がいる』
「最高幹部クラスのプロトコル……」
その言葉が司令部の床に落ちた瞬間。
数十人のレジスタンスたちの視線が、物理的な重圧を伴って、一斉に「ある一点」へと突き刺さった。
俺――朝霧レンの真横に立つ少女。
神崎ミナへ。
「……っ」
ミナは、肺を射抜かれるような無数の敵意を浴びて、小さく、喉を鳴らした。
肩を震わせ、力なく一歩後ずさる。
「……おい、まさか。あの女は、元・調整局のエリート部隊だろ?」
「親が局の幹部で、システムの設計者だって話じゃねえか……!」
「騙されてたんだ! 情報を売るために、このアジトまで潜り込みやがったんだよ!」
雪崩のように膨れ上がる罵声。
レジスタンスのメンバーたちが、次々とミナに向けて旧時代のアサルトライフルや、無骨に改造された共鳴デバイスの銃口を突き出した。
「待て! 早まるな、お前ら!!」
東雲ガイが、重厚な油圧音を鳴らして義手の左腕を広げ、ミナを庇うように一歩前へ出た。
「ミナがそんなことをするはずがねえ! 彼女は俺たちを逃がすために、あの霧島カイにだって、命を捨てて立ち向かったんだぞ!」
「そんなの、俺たちを信用させるための芝居かもしれないだろ! 現に、あの実験施設で奴らはピンポイントに、最速で強襲されてるんだぞ!」
一人の男が、血走った目で喚き散らした。
指がデバイスのトリガーに食い込んでいく。
「自由戦線のトップである獅堂さんの首を取るために、俺たちをここまで案内させたんだ! ……おい、その女から離れろ! 今すぐここで『処理』してやる!!」
カチャリ、カチャリ。
無数の銃の安全装置が外される音が、地下の静寂に冷たく反響した。
疑心暗鬼。
極度の緊張と死への恐怖が、彼らの『波形』をどす黒く、粘り気のある汚濁へと変えていく。
これが、感情の暴走。
俺は、ギリッと奥歯が欠けるほどに噛み締めた。
調整局が「感情は危険だ」と切り捨て、漂白しようとする、人間が持つ負の連鎖。
一度芽生えた不信の種は、恐怖という薪を焚べて、瞬く間に理性を焼き尽くしていく。
「ち、違う……! 私は、何も送信なんて……っ」
ミナが、紙のように青ざめた顔で首を激しく横に振る。
その銀色の瞳からは大粒の涙が溢れ、震える両手で自分の肩を、引き千切らんばかりに抱きしめていた。
「お母さんのシステムを……あの地獄みたいな実験施設を壊すために、私はすべてを捨てたの! みんなを裏切るなんて、死んでもしない……!!」
「調整局の犬の鳴き真似なんて信じられるか!!」
男が一人、ミナに向けてデバイスの引き金を引き絞った。
その刹那。
「――いい加減にしろッ!!」
俺は、ミナの前に弾丸のような速度で飛び出した。
右手に宿る漆黒のノイズを、爆発的に滾らせる。
ビリビリビリィィィッ!!
極限まで圧縮された不協和音が、司令部全体の空気を激しく震わせた。
攻撃としてではなく、周囲の殺気をねじ伏せるための威嚇の咆哮。
その圧倒的な波形の圧力は、レジスタンスたちの殺気立った動きを、物理的に押し留めた。
「……レン! お前、本気でその女を庇うつもりか!?」
「ああ、庇うさ。……ミナは、絶対に裏切り者なんかじゃない」
俺は、突きつけられた銃口の群れを真正面から射抜き、一歩も引かずに言い放った。
「あの実験施設で……カプセルに繋がれた人たちを見て、誰よりも悲しそうな、張り裂けそうな波形を流していたのはミナだ。……あいつの涙が、あいつの魂が吐き出した『本物の感情』が嘘だなんて……。そんなこと、俺が絶対に認めない!!」
俺の右手のノイズが。
ドロドロとした怒りから、透き通るような深い『信念』の重みを帯びて、静かに脈打ち始める。
その真っ直ぐで揺るぎない波形は、レジスタンスたちの濁りきった感情を、少しずつ、穏やかに鎮めていった。
「……レンの言う通りだ」
リクトもまた、銀色に結晶化させた両腕を構えたまま、俺の隣に並び立った。
「俺もミナの背中を預かって戦ってきた。……あいつの音に、裏切りの不純物なんて一滴も混ざってなかったぜ。お前ら、調整局への憎しみに脳を焼かれて、隣にいる仲間の顔すら見えなくなってんじゃねえのか?」
俺とリクト、二人の『リアル・レゾネーター』が放つ覚悟を前にして。
レジスタンスのメンバーたちは、戸惑いながら、ゆっくりと銃口を下げ始めた。
「……待ちなさい」
その時。
重苦しい沈黙を守り続けていた自由戦線の代表・獅堂が、静かに、だが重厚な口を開いた。
「彼女の涙が本物だという君たちの主張は、感情論としては信じよう。……だが。ハル君の解析した『データ』もまた、紛れもない物理的な真実だ」
獅堂の鋭い眼光が、ミナの全身を、細胞の一つ一つまで検分するように舐めまわす。
「神崎ミナ君。……君は、調整局を離反する際、体内の『チップ』を完全に除去したのか?」
「……え?」
ミナが、涙に濡れた顔を呆然と上げた。
「チップ……ですか? 調整局のIDチップなら、逃走前に自分で腕の皮膚を抉り出して捨てました。……位置情報を追跡されるから」
「物理的なチップの話ではない」
獅堂は、テーブルの上の透過端末を指先で弾き、人体模型のホログラムを投影した。
「……調整局の幹部クラス、あるいは機密に触れる極秘エリートには、脳の共鳴中枢そのものに『ナノマシンによる生体ビーコン』が埋め込まれているという情報がある」
その言葉が落ちた瞬間。
俺の背骨を、冷たい針が一本ずつ這い上がるような悪寒が走った。
「それは……本人の意志や自覚とは無関係に稼働する。特定のキーワードに反応したり、特定の座標に近づいた時にのみ、自動的に起動して高秘匿パルスを送信する……。いわば、『無意識の時限爆弾』だ」
「無自覚の、スリーパー……?」
ミナの顔から、一滴残らず血の気が引いた。
「じゃあ……私が、知らないうちに……。私の身体が勝手に……レン君たちを、危険に晒していたってこと……?」
彼女は自分の、白く震える両手を見つめ、ガタガタと歯を鳴らし始めた。
もし獅堂の言葉が真実なら。
ミナに裏切る意志がどれほどなかろうとも、彼女がそこに存在しているだけで。
俺たちの、そしてこの反逆者たちの街の居場所は、常に調整局へと垂れ流されることになる。
「……皮肉なものだな」
獅堂が、残酷な現実を宣告するように目を伏せた。
「君の心は真実だとしても……君の『肉体』が、システムに隷属したままの裏切り者だったというわけだ」
明日の正午。
都市の全放送波ジャックと、中央中枢への決死の奇襲作戦。
その勝敗を決する特攻部隊に、歩く発信機であるミナを同行させることは。
レジスタンスの全滅、そして勝利の可能性を自らドブに捨てることを意味していた。
「彼女を、拘束しろ。……作戦が終了するまで、最下層の独房へ幽閉する」
獅堂の冷酷な、だが組織の長として正しい命令が、司令部に響き渡った。
「彼女を、拘束しろ。……作戦が終了するまで、地下の独房へ幽閉する」
司令部を包む空気は、再び刃物のように研ぎ澄まされた。
数人の武装したレジスタンスが、重い足取りで神崎ミナへと近づいていく。
彼らの手には、能力者の精神波形を強制的に押さえ込むための、青白く光る電磁手錠が握られていた。
「……待ってくれ、獅堂さん!」
俺――朝霧レンは、ミナの前に立ちはだかり、両手を大きく広げた。
「ミナを独房に放り込むなんて……そんなの、調整局がやってることと同じじゃないか! 自分たちのシステムにとって都合が悪いからって、仲間を『バグ』扱いして切り捨てるのかよ!」
「現実を見ろ、レン君」
獅堂の眼光は、鋼のように冷たく、微塵も揺るがなかった。
「これは戦争だ。彼女に悪意がなかろうと、彼女の脳内に埋め込まれた『生体ビーコン』が稼働している限り、我々の奇襲作戦は開始する前に潰される。……数千人の命と、この街を解放する唯一のチャンスを、一人の少女への情のためにフイにするわけにはいかないんだ」
正論だった。
大義のための、あまりにも正しい、冷徹な計算。
この場にいる誰もが、獅堂の言葉が『正解』であることを理解していた。
「……レン君。もう、いいの」
俺の背中の服を、震える小さな指先が掴んだ。
振り返ると、ミナが涙でぐしゃぐしゃになった顔で。
それでも、無理に、あまりにも哀しく微笑もうとしていた。
「獅堂さんの言う通りだわ。……私がいたら、みんなが死んじゃう。お母さんの作った狂ったシステムを壊すどころか、みんなを地獄に巻き込んじゃう」
「ミナ……」
「私、ずっと調整局の『センサー』として生きてきて……ようやく逃げ出したつもりでいたけど。結局、最後まであいつらの手のひらの上だったんだね」
彼女は、自嘲気味に。
透明な絶望に染まった笑みを浮かべ、俺の服からそっと手を離した。
「ごめんね、レン君。……私を置いていって。私のことは気にしないで。……作戦を、絶対に成功させて」
自ら電磁手錠を受け入れようと。
ミナは、白く細い両手を前に差し出した。
彼女から放たれる波形は、もはや生きる意志を失った、深い泥のような悲しみに塗りつぶされていた。
「……ふざけるな」
俺の口から、無意識のうちに、地を這うような低い声が漏れた。
「え……?」
「ふざけるな!! 自分のせいじゃないのに、勝手に諦めてんじゃねえよ!!」
俺は、ミナの差し出した両手を力強く払い除け。
驚きに目を見開く彼女の両肩を、ガシッと、指が食い込むほどに掴んだ。
「全体のために、誰かが犠牲になればいい。……そんな理屈、お前は本当に納得してんのか!? 俺は絶対に納得しない! そんなの、あの地上の『フェイク・レゾナンス』の平和と何が違うんだよ!!」
俺の叫びに、司令部の空気が再びビリビリと共鳴を始めた。
「俺は、お前と一緒にあの偽物の空をぶち壊すって決めたんだ。お前の頭の中に、調整局のクソみたいな機械が埋め込まれてるってんなら……」
「――俺が、それを今ここでぶっ壊す」
「……ぶっ壊すって、レン君、何を」
「ハル!! 聞こえてるか!!」
俺は、ミナの肩を掴んだまま、インカムに向かって咆哮した。
『……ああ。聞こえてるぜ、この大馬鹿野郎』
「ミナの脳内にある『生体ビーコン』の波形……お前のハッキング能力(電子共鳴)で、その正確な周波数と座標を特定できるか?」
『なっ……!? お前、まさか』
通信の向こうで、ハルが息を呑む音が聞こえた。
獅堂や東雲、リクトたちも、俺が何を口にしようとしているのかを察し、表情を強張らせる。
「俺の『ノイズ』は、もうただの暴発じゃない。修行で、一点に集中して波形を撃ち抜く術を覚えた。……なら。ミナの『本当の心』を傷つけずに。あの汚い機械が発してる波形だけをノイズで精密に相殺して、焼き切ることもできるはずだ!」
『……無茶苦茶だぞ、レン!』
ハルが血相を変えて叫ぶ。
『能力者の共鳴中枢に、直接ノイズを流し込むんだぞ!? 一歩間違えれば、信号の干渉でミナの脳を内側から焼き切って、完全に廃人にするか死ぬかだぞ!』
「間違えない」
俺は、真っ直ぐに。
射貫くような視線で、ミナの銀色の瞳を覗き込んだ。
「俺は、ミナの波形を誰よりも近くで聴いてきた。お前の流す『本当の音』を、誰よりも知ってる。……こいつの旋律の中で、機械が吐き出してる嘘の不協和音だけを……。俺が、絶対に見つけ出してみせる」
「レン君……」
ミナの瞳から、再び温かい涙が溢れた。
だが、それは先ほどの絶望の涙ではなかった。
「……信じるわ。私の全部。魂の底まで、レン君に預ける」
彼女はゆっくりと、震える瞼を閉じ。
俺の胸に、その重みを預けるように額を押し当てた。
「……よし。ハル、周波数と位置情報を寄越せ」
『……クソッ、どいつもこいつもイカれてやがる。……今、ビーコンの推定波形をそっちのデバイスに送った。一度きりだぞ、トチるんじゃねえぞ!』
俺は深く、肺の底まで冷たい空気を吸い込み。
右手を、ミナの後頭部――その柔らかい髪の下にある共鳴中枢の真上へと、そっと添えた。
バチッ……。
微かな、針の先ほどの黒い火花が。
俺の掌から、ミナの華奢な体内へと流れ込んでいく。
目を閉じ、全神経を右手の指先に集約させる。
感じ取れるのは、ミナの温かく、どこまでも澄み切った『ソニック共鳴』の波形。
しかし。
その美しく脈動する旋律の奥底に。
――確かに、おぞましい『異物』がいた。
冷たく、無機質で。
人間の感情などとは一切無縁の、システムへの強制送信を繰り返す、ナノマシンの冷酷なパルス。
(……見つけた)
俺は、その極小の、点にも満たない『異物』に向けて。
漆黒のノイズを、肉眼では見えないほど細く、鋭く、極限まで圧縮していく。
コンマ一ミリでも手元が狂えば。
ミナの感情そのものを、彼女の精神の核を、永遠に破壊してしまう。
極限の集中力が、俺の精神エネルギーを、命を削るような勢いで吸い取っていく。
(もっと……もっと細く、鋭く研げ……! ミナの心を、一分一厘も傷つけないように……!!)
その刹那。
俺の右手に宿る黒いノイズが。
ふと、透明な『銀色』の輝きを帯びた気がした。
ただすべてを破壊するだけの不協和音から。
波形を精密に調律し、病巣を切り離すための『電子のメス』への変化。
レンというバグが、さらなる進化の深淵へと手をかけた瞬間。
「……そこだァァァッ!!」
ピキィィィィィィィィンッ!!
俺の掌から放たれた極小の銀色のノイズが。
ミナの脳内に巣食う『異物』の波形だけを、正確無比に貫き通した。
「っ……!!」
ミナの身体が、電流を流されたようにビクッと大きく跳ねる。
俺は慌てて、彼女の崩れ落ちる身体を力一杯抱き留めた。
「……ハル! どうだ!?」
数秒の。
世界から音が消えたような、永遠にも似た静寂。
『……消えた』
通信の向こう側で。
ハルが、憑き物が落ちたように大きく息を吐き出す音が聞こえた。
『ミナの生体ビーコンの信号……完全にロスト。ナノマシンの波形だけが、跡形もなく消去されてる。……成功だ、レン!!』
「……っ!!」
司令部内が、割れんばかりのどよめきに包まれた。
能力者の脳深部に埋め込まれた不可視の機械だけを、外部からの干渉波で破壊し、取り除く。
それは、調整局の最高技術をもってしても不可能とされた、文字通りの神業だった。
「……ん、ぁ……。レン、君……?」
腕の中で。
ミナが、ゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。
その銀色の瞳に一点の濁りもなく。
伝わってくる彼女の感情の波形は。
檻から解き放たれた小鳥のように、以前よりもずっと、ずっと澄み渡っていた。
「……ああ。もう大丈夫だ」
俺は、彼女をさらに強く抱きしめた。
「お前はもう、あいつらのセンサーなんかじゃない。お前はもう、自由だ」
俺の言葉に。
ミナは、我慢していた感情をすべて決壊させるように。
子供のように声を上げて泣きじゃくり、俺の胸に顔を深く埋めた。
「……見事だ」
獅堂が、深く、長く溜めていた呼吸を吐き出しながら俺たちに歩み寄り。
そして。
一人の戦士として、俺たちに向かって深く頭を下げた。
「疑ってすまなかった、神崎ミナ君。……そして朝霧レン。君のその『システムを切り離す力』。それは、我々にとっての最大の希望になるだろう」
獅堂の言葉を皮図に。
周囲のレジスタンスたちも、次々と武器を下ろした。
気まずそうに、だが、そこには確かな敬意と信頼を宿した視線を、俺たちに向けてくる。
「これで、後ろ髪を引かれる理由はなくなったな」
東雲が、豪快な笑みを響かせて俺の背中を、義手ではない右拳で叩いた。
「ああ。明日、正午」
俺は、ミナの手を強く握り返した。
彼女の手は、もう二度と離さない。
「この狂ったネオ・トーキョーを。俺たちの手で、終わらせる」
疑心暗鬼の地獄を乗り越え、俺たちの絆は、もはや何者にも断ち切れない鉄鎖となった。
そして。俺の右手に残る、あの『銀色の光』の余熱。
ただの不協和音ではない。
フェイク・レゾナンスの理そのものを書き換え、解放する――新たな覚醒。
決戦の正午まで、あと、二十時間。




