第17話:レジスタンス
吐き気がする。
胃の底からせり上がる酸っぱい不快感を、俺は泥だらけの袖で強引に拭った。
ネオ・トーキョーの最下層。地図から抹消された『第六廃棄ブロック』。
そこから命からがら逃げ出した俺たちは、膝まで浸かる冷たい汚水の中を、ただ無言で歩き続けていた。
「……ひどい。あんなの、人間を扱うやり方じゃないわ」
神崎ミナが、震える両腕を抱きしめるようにして呟いた。
彼女の銀色の髪は、施設の粉塵で白く汚れ、その瞳には先ほど見た地獄の残像が焼き付いて離れないのだろう。
システムに適合できなかった市民を「バグ」と定義し、カプセルに幽閉して強制的に終わりのない悪夢を見せ続ける実験場。
恐怖を、絶望を、その「生きた熱」を根こそぎ抽出し、都市のエネルギーに変える搾取の心臓部。
あの完璧に調律された「幸福な平和」の正体は。
人間の心を、ただの「使い捨ての電池」として燃やし尽くすことで成り立つ巨大な火葬場だったのだ。
「……絶対に、ぶっ壊してやる」
俺――朝霧レンは、皮のめくれた拳を強く握りしめた。
右手の奥で、黒いノイズの火花が意志に反して爆ぜそうになる。
それを、肺を焼くような深呼吸で無理やり喉の奥へ押し戻した。
今はまだ、怒りに飲まれる時じゃない。
あのカプセルの中で苦悶の表情を浮かべていた人々を救い出すには、この歪な構造そのものを、根底から叩き潰すしかないのだ。
「落ち着け、レン。熱を散らせば、またあいつらのセンサーに引っかかるぞ」
隣を歩く白峰リクトが、低い、地鳴りのような声で窘めた。
身体共鳴で鋼鉄化した筋肉を解いた彼の背中にも、センチネル部隊との激闘による疲労が色濃く張り付いている。
「分かってる。……でも、このままじゃダメだ。俺たちの力だけじゃ、あの巨大な組織には届かない」
霧島カイという、圧倒的な「個」の暴力。
そして都市全域を網羅する、調整局という「数」の暴力。
修行を経て、俺の『一点集中』は確かに鋭くなった。
だが、それでもまだ、勝機という名の針の穴を通すには戦力が足りなすぎる。
『――その点は心配ねえよ、バグ野郎ども』
突如、インカムのノイズを突き破って、ハッカー・ハルの生意気な声が飛び込んできた。
『旧地下鉄の第三ルート、ポイントFまで辿り着いたな。……そこにある分厚い電磁隔壁のロック、今、俺がこじ開けてやる』
ハルの言葉と同時に、俺たちの目の前を塞いでいた錆びついた鉄の巨大扉が。
地響きを立て、重厚な排気音と共に、ゆっくりと、その重い口を開き始めた。
『そこが、お前らに会わせたかった連中の『巣』だ。……このイカれた都市で、俺たち以外にもシステムに中指を立て続けてきた、本物の馬鹿どもの本拠地さ』
*
開かれた隔壁の向こう側。
そこに広がっていた光景に、俺は足が止まるのを禁じ得なかった。
「……なんだ、ここ」
そこは、かつて大深度地下開発のために穿たれ、歴史の闇に打ち捨てられた巨大なジオフロント跡地だった。
だが、ただの廃墟ではない。
廃棄された貨物コンテナや、ひしゃげた鉄骨を無数に組み合わせ、強引に増殖を繰り返したような違和感だらけの建築群。
その鉄の隙間を縫うようにして、数百……いや、数千のオレンジ色の裸電球が、闇の底に温かな、しかし泥臭い光を灯している。
地上にある、あの無機質で、漂白された清潔なネオ・トーキョーとは正反対の場所。
カビ臭く、油臭く、汗の匂いが充満した――圧倒的な「生の熱量」が、肌を刺す空間。
「止まれ。そこから先は、招かれざる客の入る場所じゃない」
ガチャン、と硬質な金属音が周囲に反響した。
暗がりから音もなく現れた数人の男たち。
彼らは俺たちに向け、旧時代のアサルトライフルや、無骨に改造された共鳴デバイスの銃口を向けてきた。
全員の瞳には、地上で「生かされている」市民には決して宿ることのない、飢えた獣のような強い警戒心が宿っている。
「撃つな。俺の客だ」
見張りの男たちを割って、一人の女性が悠然と姿を現した。
「……桐生さん!」
俺とミナの声が重なった。
そこに立っていたのは、第十一話で霧島カイの猛攻から俺たちを逃がすために殿を務め、消息を絶っていたリーダー――桐生だった。
その顔には新たな火傷の痕が刻まれていた。
そして、左腕が。
あの時、俺たちを逃がすためにカイと正面から衝突した代償として失われたのだろう。
無骨な油圧シリンダーが剥き出しになった機械の義手へと挿し変わっていた。
だが、その強く、すべてを包み込むような頼もしい眼光は、記憶の中のままだ。
「よう、レン。ミナ、リクト。……生きてたか、しぶといガキどもめ」
「桐生さん……! その腕、カイとの戦いで……」
「ハッ、死に物狂いで泥水を啜り、自分の腕を一本代償に差し出しただけさ。……アジトは跡形もなく消されたが、俺たち『エコー』の生き残りは、この場所に流れ着いた」
桐生は、義手ではない右拳で俺の肩をガシッと掴んだ。
伝わってくるのは、久しぶりの、不器用なほどに熱い拍動だった。
「お前ら、でかい仕事をしてきたな。顔つきが変わったぞ」
「桐生さんこそ……。生きててよかった」
俺の言葉に、桐生は照れくさそうに鼻を鳴らした。
そして視線を上げ、俺たちをジオフロントの高台へと案内した。
視界の端まで広がる人々の影。
その数、千……いや、それ以上か。
武装した若者たちだけではない。
システムから不要品として弾き出された老人、そして、親をカプセルに奪われた子供たち。
「……これ、全員が、能力者なのか?」
俺が呆然と呟くと、桐生はゆっくりと首を振った。
「いや。俺たちのように『力』を持っているのは一握りだ。だが、ここにいる全員が、あのフェイク・レゾナンスという名の洗脳に中指を立て、本物の心を取り戻そうとしている『反逆者』たちだ」
桐生は、眼下で炊き出しの火を囲む人々を、慈しむような、それでいて冷徹な戦士の目で見つめた。
「ここは、反政府地下組織の最大拠点――『自由戦線』だ。……俺たちエコーも、今はこの巨大なうねりの一部として合流している」
レジスタンス。
その響きの重みが、俺の胸の奥にズシリと沈み込む。
「レン。お前たちが実験施設から命懸けで引っこ抜いた『地獄のデータ』、ハル経由で受け取ったぜ」
「ああ。あの場所に幽閉された人たちを、必ず助け出す。そのためにも、システムそのものを潰すしかない」
「分かってる。……だから、ここに連れてきたんだ」
案内されたのは、何十台ものコンテナを複雑に組み上げて作られた、巨大な司令部だった。
「よく生きて、ここまで辿り着いてくれた。……君たちが、調整局の最高機密を暴いた若き英雄か」
司令部の最奥で俺たちを迎えたのは、顔に深い斬創を持つ、白髪交じりの壮年だった。
擦り切れた旧時代の軍服を無造作に羽織り、その眼光は冬の湖のように鋭く、それでいて底知れぬ慈愛を湛えている。
「俺は獅堂。この寄せ集めの地下組織、『自由戦線』の代表を預かっている」
「朝霧レンです。……英雄なんてガラじゃない。俺はただ、あの不気味なシステムをぶち壊したいだけだ」
飾り気のない俺の言葉に、獅堂はふっと口元を緩め、一つ頷いた。
「いい目だ。……システムに飼い慣らされていない、剥き出しの『怒り』と『意志』の波形。桐生から報告は受けていたが、噂以上だな」
獅堂は手元の透過端末を操作し、司令部の壁面に巨大なホログラムを投影した。
そこには、俺たちが実験施設で目撃した、あの悍ましい光景が映し出されていた。
カプセルに繋がれた「バグ」たちの痙攣。
強制的に抽出される、赤黒い絶望の火花。
逃げようのない、地獄の証拠。
「ハッカーのハル君から、先ほど完全なデコードデータを受け取った」
獅堂の声が、さらに低く、地鳴りのように重くなる。
「我々も長年、調整局の裏の顔を探っていたが……ここまで決定的な凶器を掴んだのは初めてだ。……奴らは、社会に適合できない市民を切り捨てるだけでなく、文字通り『生きた燃料』として喰い物にしていたんだ」
「……こんなこと、絶対に許されない」
ミナが、拳を白くなるほど強く握りしめ、掠れた声で呟いた。
「ああ、許されるべきではない。……だからこそ、我々はこの真実を、地上の数百万の市民に叩きつける」
獅堂が、ホログラムの画面をネオ・トーキョーの立体マップへと切り替えた。
「作戦はこうだ。明日の正午、都市のエネルギー・サイクルが最も高まる臨界点を狙い、この地下のメインサーバーから地上の全放送波をジャックする。……この『実験施設の映像』と『真実』を、都市中の全スクリーンに、強制的に同時再生させる」
「全放送波のジャック……!」
リクトが、驚きに目を見開いた。
「フェイク・レゾナンスのまどろみに浸りきっている市民たちも、自分たちの足元にこの地獄があることを知れば、必ず波形に『巨大な揺らぎ』が生じる。……システムがその想定外のノイズを処理しきれなくなった瞬間こそが、調整局の防壁を突破し、都市中枢へ攻め込む、最初で最後の好機だ」
桐生が、残された右拳で強くテーブルを叩いた。
「全面戦争だ、レン。……俺たちエコーの生き残りも、自由戦線の主力部隊と共に、地上の調整局本部へ奇襲をかける。……お前の力、貸してほしい」
「……もちろんだ。俺も、アイツらを止めるためにここに来た」
俺は迷わず頷いた。
ようやく、反撃の時が来た。
地下の下水を逃げ回るだけの日々は終わり、ついにこの狂った世界の心臓部に、牙を剥くことができる。
司令部の中に、決戦に向けた、焼けるような連帯感が満ちた。
……その時だった。
『――おい、ちょっと待て。喜んでる場合じゃねえぞ、お前ら』
インカムから、氷水を浴びせるようなハルの声が響いた。
その声色は、いつもの余裕ぶったものではなく。
ひどく焦燥し、そして、底知れぬ冷気を孕んでいた。
「ハル? どうした、通信ジャックの準備ならお前の十八番だろ?」
『そうじゃねえ……! 今、実験施設からの脱出ルートのトラフィックを、全件再検証してたんだが……おかしいんだよ。……おかしすぎるんだ』
ハルの言葉に、司令部の空気がパリンと凍りつく。
『レン。俺たちが施設に潜入した時……センチネル部隊の到着が、異常に早いと思わなかったか?』
「……言われてみれば。俺たちが踏み込んでから、数分も経たないうちに包囲されたな」
『ああ。俺はてっきり、物理的なアラームを踏み抜いたんだと思ってた。……だが、違った。監視カメラのログの裏に、巧妙に埋め込まれた『暗号通信』の痕跡があったんだ』
「暗号通信……? 誰から、どこへだ」
『発信源は……俺たちの、パーティーの「すぐ近く」だ』
ドクン、と。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
『俺たちが第六廃棄ブロックに到着した、その直後……誰かが、調整局の特務部隊宛てに、俺たちの正確な座標を「送信」してやがったんだよ』
「なっ…………!?」
桐生が息を呑み、リクトの全身から殺気に満ちた波形が漏れ出す。
「バカな……! あの時、施設に向かったのは俺とレン、ミナ……それに通信でナビしてたハル、お前だけだぞ!」
「待って、リクトさん。……じゃあ、私たちの中に……?」
ミナが、信じられないというように、震える足で一歩後ずさった。
調整局に、俺たちの命を売った者がいる。
実験施設での、あの絶体絶命の包囲網は、システムによる偶然の発見などではなく。
意図的に、俺たちを殺すために引き起こされたものだった。
『……ああ。最悪の可能性だが、状況証拠は真っ黒だ』
ハルの重い、震える声が、地下の司令部に冷酷な宣告を下す。
『俺たちの仲間に。……調整局に情報を流し続けている「スパイ(裏切り者)」がいる』
信じきっていた絆に、突如として入った致命的な亀裂。
俺は、無意識のうちに自分の右手を強く握りしめ、その場にいる仲間たちの顔を。
桐生。リクト。ミナ。獅堂。
その一人一人を、強烈な不信感と共に、見つめ返していた。
巨大なシステムに挑む全面戦争の前夜。
俺たちは、最も恐ろしい「見えない敵」の正体を、まだ知らない。




