6.魔獣王と究極の選択
ガーランと一緒に睡蓮を眺めているところへ、武官がひとり血相を変えてやってきた。
「ガーラン殿ーっ! 帝がお呼びです!」
それを聞いてガーランはため息と共に誰にともなくつぶやく。
「やれやれ。またか」
そして武官に告げた。
「すぐに行く。先に行っててくれ」
「はっ!」
武官は返事をして踵を返した。
それを見送って、ガーランはメイファンに苦笑を向ける。
「申し訳ありません。こちらからお誘いしておきながら、戻らなくてはなりません」
「いえ。十分気晴らしになりました」
「そう言っていただけると助かります。また別の機会にゆっくりお話をしましょう」
「……機会があればぜひ」
申し訳ないとは思うけど、ガーランはやっぱりどこか怖くて苦手だ。奥様に似ているという自分が、少しは慰めになれればと思わなくもないけど、できればあまりそばにはいたくない。ついつい、曖昧な返事をしてしまう。
それでもガーランは嬉しそうににっこり笑って、メイファンを庵まで送り届けたあと、宮殿の方へ立ち去った。少し胸が痛むと同時に、それを上回る安堵の気持ちにホッと息をつく。そして気になるのはやはりワンリーのことだった。
今日こそは取り調べが行われるのだろうか。
ガーランの言葉が伝わっているなら、今日中に釈放されるのではないだろうか。そう思うと、そわそわしてきた。
昼食を終えたメイファンは、窓辺のいすに座ってぼんやりと池を眺めた。時々ひざに乗せた本をめくりながらも、ワンリーの取り調べが気になって心はすっかり上の空。
そろそろなんらかの結論が出ているのではないだろうか。そう考え始めた時、出入り口の扉が叩かれた。シェンリュが応対に出ると、またガーランがやってきたようだ。彼女に席を外すように言って、シェンリュと入れ替わるようにガーランは庵の中に入ってくる。扉を閉めてこちらを向いたガーランは、なにやら深刻な表情をしていた。
メイファンは咄嗟に席を立つ。イヤな胸騒ぎがして、服の胸元を握りしめた。
口を開きかけて少しためらったあと、ガーランが絞り出すように言う。
「大変なことになってしまいました」
うつむいて目を逸らすガーランに、メイファンは恐る恐る尋ねた。
「なにがあったんですか?」
ガーランは少し間を置いて、声を震わせながら告げる。
「太子様が一向によくならないので、帝のお怒りが一層激しくなってしまって……」
そこで一旦言葉を切り、ガーランは窺うようにメイファンに視線を向けた。メイファンは黙って先を促す。ガーランは再び目を伏せて一気に続きを吐き出した。
「術者と思われる怪しい者を捕らえたのなら、すぐに処刑せよと」
「そんな!」
目の前が真っ暗になったような気がして足元がふらつく。よろよろと倒れそうになって、メイファンは窓辺にすがった。
ついさっきまで、すぐにでも釈放されると浮かれていたのが滑稽に思える。太子様を脅かす者として嫌疑がかけられたのは、そんな簡単に容疑が晴れるようなものではなかったのだ。
たとえ事実だとしても、こちらの言い分を丸ごと信じてもらえると思っていたのも甘すぎる。
ワンリーに牢へ戻るように言ったことを、メイファンは激しく後悔した。
「申し訳ありません。私の力が及ばず……」
うなだれてつぶやくガーランをメイファンは呆然と見つめる。頭が働かない。なんとかしなければという焦りだけが心を支配する。
苦手だけれど今頼れるのは、帝に直接話をできるガーランしかいない。無理だとわかっていても、メイファンは力なくガーランに尋ねた。
「なんとか、ならないのでしょうか……」
「帝の命に背くことは……」
帝の側近とはいえ、帝の意見を覆すことはガーランにも無理なのだろう。当然といえば当然な返事にメイファンは絶望的な気分になる。
ふたりで黙ったままうつむき、しばしの時が流れる。突然ガーランが思い詰めたような表情でつぶやいた。
「……なんとかしましょう」
「え?」
なんとかなるのだろうか。かすかな光明に期待しつつも、怪訝な表情で見つめるメイファンに、ガーランはなにか吹っ切れたような笑顔を向けた。
「私はあなたが悲しむ姿を見たくはありません。けれど、帝の命に表立って背くこともできません。だから秘密裏に私の権力と知略のすべてを使って、あなたのお連れの方を逃がして差し上げましょう」
ワンリーさえ逃がしてもらえるなら、とりあえず安心できる。客人扱いの自分は今のところ処刑の心配はないのだから。でも……。
「どうしてガーラン様は昨日会ったばかりの私たちに、そこまでしてくださるのですか? もしも逃がしたことが発覚すれば、あなたの立場も危うくなるのではありませんか?」
「確かに危険はあります。あなたに軽蔑されるのかもしれませんが、はっきり言ってお連れの方にはなんの思い入れもありません。こんな時にわざわざ立て札の警告を無視して聖獣殿に立ち入ったのが自業自得とすら思えます」
確かに自業自得と言われれば、その通りではあるが、ガーランの淡々とした冷たい物言いに、メイファンはムッとして彼を睨む。しかしそれを全く気にした風でもなく、ガーランは続けた。
「ですが、お連れの方が処刑されれば、あなたは悲しむのでしょう? だから手助けしたいのです」
結局なぜ手助けしたいのかはよくわからない。危険を承知で手助けしてもらえるのはありがたいとは思うが、真意がわからずメイファンはそれを探るように告げる。
「でも私は、そのご恩になにもお返しできるものがありません」
「ありますよ」
「え?」
即答されてメイファンは思わず目を見張る。ガーランの深淵を思わせる冷たい瞳が、艶をたたえてメイファンを見つめた。
「私の妻になって下さい」
思いも寄らない申し出に、メイファンは息を飲む。ガーランは愛おしげに目を細めて、メイファンに一歩近づいた。
「お連れの方が無事に逃げおおせたら、あなたはここからいなくなってしまう。それは私が辛いのです」
「私が奥様に似ているからですか?」
「きっかけは、そうですね。でもあなたは、妻となにもかも違っています。妻は私に笑顔を見せたことはありませんでした。今はあなた自身を愛おしく思っています」
思わず励ましてしまったことが、彼の想いに火をつけてしまったのだろうか。
彼の元に嫁いだことが、亡き妻の不幸だったとガーランは言った。奥様にとっては望まない結婚だったということなのかもしれない。この状況でメイファンが妻として彼の元に嫁いだとしても、同じことの繰り返しではないだろうか。なにより、メイファンはガーランのことが怖くてしかたない。
「お気持ちは嬉しく思います。でも、こんな結婚は……」
なにか他の手だてはないものかと、メイファンが断りかけた言葉をガーランは遮った。
「弱みにつけ込む卑怯者だと罵られることは承知の上です。それでも、あなたを手に入れることができるなら、私は甘んじて卑怯者になりましょう」
どうしてそこまで自分に執着するのかメイファンにはわからない。けれどこの様子では、他の手だては考えられないような気がする。
ワンリーは助けたい。そのために自分にできることならなんでもしたい。でも、ワンリーじゃない男の妻になるなど……!
(どうしよう。ワンリー様。助けて、ワンリー様)
なにをどうしていいのか、さっぱりわからなくなって混乱したメイファンは、この場にいないワンリーに胸の内で助けを求める。
手を差し伸べながら、ガーランがまた一歩近づいた。
「メイファン殿……」
名前を呼ばれてビクリと体を震わせたメイファンは、ハタと気づいた。途端に頭が冷静さを取り戻す。
ワンリーがおとなしく処刑されるわけがない。メイファンやガーランが助けなくても、ゆうべのように自分で勝手に逃げ出せるはずだ。
ゆうべはシェンリュがお咎めを受けることを気にして一緒に逃げるのをためらったけど、シェンリュを縛って庵に残していけば問題ないことにも気付いた。
シェンリュには申し訳ないけど、縛られていればメイファンが連れ去られたことを無抵抗で見逃したわけでも気付かなかったわけでもないと判断される。今度ワンリーが来たらそうしよう。
そうと決まったら、悩む必要もない。メイファンはガーランに頭を下げた。
「ごめんなさい。あなたの妻にはなれません。私はワンリー様の妻になると決めているのです」
ガーランは差し出した手を下げ、冷たく言い放つ。
「お連れの方が処刑されてもいいんですか?」
メイファンは笑みをたたえて頷いた。
「大丈夫です。そんなことにはなりません。私はワンリー様を信じています」
「よく言った、メイファン」
突然頭上から声が降ってきた。見上げたメイファンの目の前に庵の天井を突き破って雷が突き刺さる。メイファンが咄嗟に目を閉じて、ふたたび目を開いたときには、目の前にワンリーの背中があった。




