夢路と夢二
危険物取扱者乙種四類は合格率三割ほどの資格試験だ。これを取ると取らないとではバイトでの給料が違うらしい。冬場の農閑期のバイトにちょうどいい。ガソリンスタンドか灯油の搬送で稼ぐか、と勉強を始めたはいいが、全然ちょうど良くはない。合格率三割は伊達じゃなかった。そもそも座学なんて性に合わない。思い返してみれば学校で黒板を見ながら、じっと勉強するのがたまらなく嫌だった。
一応、それなりに勉強はしたが、自分の身の丈を再度思い知るにはいい機会だったと思った。
ただ悔しいのが游に勉強で負けたことだ。
試験前に游に参考書を持たせ、問題の出題をお願いした。正解率は四割くらいか。ヤマカン張って試験に臨んでも落ちるのは確実だった。
游が「試験まであと数日ですよ。しっかりしてください」と、励ましのような言葉を、呆れた口振りでいった。
「じゃあ、おまえ、やってみろ」と、ついカッとなっていうと、游は俺の出した問題に難なく答えた。
游は俺の勉強しているのを横目に参考書を読んでいたようだったが、まさかここまでできるとは思ってもみなかった。さすがは△高レベルの頭は違うのだろう。
「游、おまえが乙四取れよ」
「バカいわないでくださいよ。氏名欄みてください。白露夢路になっていますから」
そんなやりとりを励みに勉強はしてみたものの、頭に詰め込んだ知識は時間単位でこぼれ落ちてゆくようだ。なぜなら参考書を読むたびに新しい発見と再発見の繰り返しなのだ。何度読んだかわからない本を再読できるとは俺にはなかなかない体験だ。蛇渕が同じ映画やアニメを何度も観返す気持ちが少しわかった気がした。ただ違う点は俺は合格したら、この参考書を一切の迷いなくゴミに出せるという点だろう。
俺は参考書に向かっていたが、いつしか窓ガラス越しにみえる庇から落ちる雨垂れを眺めていた。外は冷たい雨が降ったり止んだりしており、雲の隙間から差す光が雨垂れをきらめかせていた。部屋のなかは暖房が適度に効いて温かく俺を包みこんでいた。
俺は台所にいくとインスタントコーヒーの瓶を掴みマグカップに入れた。底がみえなるくらい少し山盛りにするのがコツだ。熱湯をマグカップの七割ほどまで入れる。冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと適量を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。黒と白の異なる色が混じり合い、やや茶色が強いカフェオレとなった。このいい加減なつくり方が一番いい。手軽で味が濃かったり薄かったり、毎日飲んでいても飽きがこない。高校生の頃、蛇渕にも教えてやった。案外気に入っていたが、あいつはまだこのコーヒーを飲んでいるだろうか。
「なぁ、游、ミット持ってやろうか。蹴りの練習でも……」
「現実逃避はそれくらいにして、勉強してください」
俺の息抜きの誘いは、いつもこうして断られ、俺は参考書に向かう。なかば妙な習慣みたいになっていた。
その習慣も終わりを告げた。
最近、游は朝早くからハウスでおばあさん(白露ハルさん)が作った小松菜や春菊を収穫していた。
「こういうの、カフェとか小料理屋でよく使うんです。市場を通さず直接販売してみたら売れるかもしれませんよ」と、手伝い始めたのだ。
俺にはない目のつけどころだった。
最初は自転車でどこかに売り込みにいっていたらしいが、数日後には圭介さんと一緒に葉物野菜を詰め込んだバンで一日数回往復するようになっていた。そして市場出荷用のダンボールは不良在庫として納屋の隅に追いやられた。
正直、俺が乙四なんて取る必要性なんてないんじゃないのか。圭介さんは冬場は空いている田んぼの苗用のハウスを耕し始めたし、彼らを手伝った方がいいような気もした。だが結局は俺は試験を受けるため、片道一時間弱かかる消防試験センターへと行った。
それは意地っ張りとか必要性とか自己研鑽ではない。なんのことはない。ただの惰性だろう。その惰性もいくらか力にはなったのかもしれない。テストのできはまずまずといったところだろう。手応えとしては、よくてギリギリ合格だ。
会場は大半が学生で、たまに中年や俺のような二十代が入り交じるなか行われたテストだったが、このなかで受かるのが三割というのも信じられない。みんな真剣な面差しで受からないのが不思議なくらいだ。そしてそのなかにあって一番勉強してなかったのは俺じゃないのか、とも思った。
終われば学生たちは緊張がほぐれたのか談笑しながら、中年は真剣な面持ちのまま、思い思いに帰っていった。
俺はなんだか取り残された気分で窓の外をみた。
朝は秋晴れの清々しい空気だったが、いまは厚い雲が立ち込めていた。それは水をいっぱいに入れたビニール袋を思わせた。一針入れればその穴から滝のように水が噴き出るような、そんな雲だ。
俺は慣れない座学や試験、そしてそれらに意味を見出せず、なんだか疲れていた。早く帰って横になりたかったが、これからまた一時間弱の道のりともなると途中で寝てしまわないか心配だった。しばらく通路のベンチに座って缶コーヒーを飲みながらスマホを取り出した。一応WiFiは繋がっているようで、俺は動画サイトを斜め観した。
『喧嘩一武闘会・全国統一編』とN県と他県の組み合わせが発表されていた。
そのなかでN県代表として加賀がいた。いつの間にかN県代表になっている。志麻や多田やその他の道場やらジムの選手に勝ったのか、あのよく喋るキャラが大会の運営に気に入られたのかわからないが、どことなく顔つきに野性味を滲ませていた。そんな加賀の金髪は前髪の一房を赤色に染めている。
「気に入ってんのかよ」
游にやられたときに鼻血が髪についていたときを思い出し、俺は独り言ちながら選手たちのマイクパフォーマンスを観ていた。
そのパフォーマンスはとにかく目立って因縁をつけて対戦相手を決めるという形式だ。脚本はないらしい。誰が誰に因縁つけるとかみてるとその選手の人間性が出ていて面白い。勝率を考え打算が出たり、あるいは売名として人気選手に因縁つけたりしていた。そのなかにあって、加賀はなにかに憑かれたように好戦的に一番強そうな相手に因縁つけていた。
『じゃあ、加賀“強杉”剣心、“アンダー・レジェンド”浅井ナオヤで決定』
司会が即答していた。浅井は確かマイナー総合団体でベルトを獲ったことのある選手だ。将来を有望されていたが、メジャーな大会の初出場時、ステロイド検査で黒が出て干された。しかもなんら悪びれることもなくネットでは炎上したらしい。こいつは喧嘩師が格闘技術を学んでそのままリングに上がるような野蛮さを纏っていた。周囲の血気盛んな連中も、その雰囲気に浅井は避けているようだ。それに加賀は因縁をつけて対戦が成立した。
正直、無謀だろう。加賀は俺以上に格闘技選手のことは知っているはずだ。浅井は選手たちのなかで一番強そうだから因縁をつけたのだろう。その目は游に負けたときの目だった。憎しみもあり、悔しさもある。けれどそれらを他人に向けず自分の弱さに向けた目だった。
俺は動画や缶コーヒーのカフェインと糖分で擬似的にスッキリしたが、疲れは身体に残っていた。
スマホをポケットに放り込み、目を瞑ってその疲労と向き合う。
どうして疲れるのか、自問した。きっと、すべてが無駄に思えるからだ。乙四にしたって受かってもいいし、落ちてもいいのだ。冬場の収入源となる仕事もみつかったのだから。それに圭介さんの農業を継ぐにしてもまだ息子さんと本気で話したわけでもない。正月にでも話し合うつもりだが、どうなるのかわからない、というのが正直なところだ。なにせ田んぼはどこも駅の近くで△市も鉄鋼業の発展から、包丁やハサミなど世界にも通用するものを造っており、全国にも認知された市になりつつある。これからさらなる発展が見込まれる地域だ。今後離農が本格的になるのは目にみえていた。そうなれば田んぼを手放して売り出すひとも、いまより多くなるのは間違いない。
「俺はなにがしたいんだ?」
古びた消防試験センターの廊下に俺の独り言が響いた。それは誰もいない空間に吸い込まれるように消えてゆく。その音と入れ替わるように叩きつけるような雨音が響き始めた。
「はぁ」とため息ひとつをつくと、缶コーヒーの残りを一気に飲んだ。
案の定、滝が打ちつけるような雨のなかの運転になった。ワイパーはその雨をかきわけるように視界を確保しようと足掻くが、視界は悪くゆっくりと車を走らせるしかなかった。まだ消防試験センターの近くの市街地ならまだ車通りも多く、道も曲がったり、上がったり、下ったりで集中できたが、ひとたび郊外へと行くとあとは田園風景が広がるばかりだった。
農機に刈られた稲の切り株が雨水に浸っているのを横目にただただ真っ直ぐな道を行くと眠気が出てきた。コンビニは遠く、視界の悪いなか路肩に駐車して追突されるのも厄介だ。
もう△市には入ったが、家まではまだまだだ。俺はわずかでも仮眠を取るべく、道を外れて新幹線の高架橋の下に駐車した。
ハンドルに突っ伏し目を瞑ると、そのまま眠りに落ちてしまった。
ガラス窓をノックする音で目が覚めた。
辺りは薄暗い。夕暮れを過ぎたあたりか。自分がどこにいるのか理解できないでいた。
ガラス窓越しに紺色の雨具を着たふたりの男がいて、そのうちのひとりがライトでこちらを照らしてなにか話してきた。しかし俺にはその言葉が理解できない。寝起きだからだろう、と「寝起きですまない。ちょっとぼんやりするんだ」といったが、相手は首を傾げ、また理解不能な言葉をいった。それはどこか戸惑っているようでもあり、また不信感が増したようでもあった。
ふたりが話し始めた。それはたぶん俺について話しているのだろうが、理解できない。そして会話を重ねるたびに、ふたりの口振りはどこか怒気をはらみ始めていた。
どこかの外国人だろうか。顔は日本人だが言葉が理解できない。それにここは駐車禁止だったのだろうか。
俺はエンジンをかけパワーウィンドウを下ろそうとしたが、指がいつもの位置にあるはずのスイッチを押せず、彷徨った。みてみるとスイッチはなく、ただハンドルがあったので慌てて回してウィンドウを開けると「すみませんでした」と声をかけ車を走らせようとしたが、男が軽トラの前に立ち、行く先をふさいだ。その顔は怒りに満ちており、車にひかれてでも停めそうな気迫を感じた。
そのとき助手席にいた紙袋を被った女性が、助手席のボックスを叩きながらなにか叫んだ。
助手席に誰か乗っているはずなんてない。俺はひとりで試験会場へ行きひとりで帰ってきたはずだ。だが、そこには確かに紙袋を被った女性がいた。
俺は思わず車外に出そうになるくらい驚いた。
紙袋を被った女性は怒りながら、車外へと出ると、ふたりの男に文句をいっているようだった。
不安になったが、俺が行くより彼女に任せたほうがいいような気がした。なぜか知らないが、彼女が話す度にふたりの男は気圧されているようだったからだ。
俺はもう少し頭をはっきりさせるべく、ドリンクホルダーにあった缶コーヒーを飲もうとプルタブに指をかけた。意外だったのは、そのプルタブは本体から完全に離れ、手元に残ったのだ。
さきほどのウィンドウハンドルもそうだ。俺は自分の軽トラに乗っていたはずだ。それはパワーウィンドウだったのに、なぜこの軽トラはハンドル式なのか。なぜ缶コーヒーのプルタブが取れるようになっているのか。なにかがおかしかった。
甘い缶コーヒーを飲みながら、どうも頭に霧がかかったようにおかしさの正体が掴めないでいた。
「だから、私たちは家に行く途中で少し休んでいただけ……」
「だが、あいつは」
「……旧三号棟の住人っていえばわかるよね」
頭がはっきりしてきたのか、切れ切れに会話が理解できてきた。しかし決定的になにかが噛み合わないような異質感があった。
やがて男たちは雨具のフードをとると俺と紙袋の女性に会釈して、田んぼ道を遠くの集落に向かって歩いていった。
「まったく、仕方ないなぁ」
彼女は助手席に座り、一仕事終えたようなリラックスした声でいった。その紙袋越しにくぐもった声に懐かしさを感じた。
「君は?」
俺の声は掠れた涙声だった。続けていうはずだった言葉は嗚咽に変わり、溢れ出す感情に目から涙が溢れ出す。慌てて袖で目を拭いた。だが涙の理由も、名も知らない奇妙な女性も、なにもかもが霧がかかったように思い出せない。ただ俺はどうすることもできないまま紙袋に空いた穴をみていた。その暗闇のなかには確かにその女性の瞳があった。
「私は、そうだな。仮に竹久夢二って呼んでよ。白露夢路くん」
「俺と同じ名前じゃないか」
「そう。君の気に入らない名前。でも私は好きだから、そう呼んでよ」
俺は泣いた。どうしてこんなに泣けるのかわからないくらい。そしてその涙の理由もわからないまま、溢れ出すものに任せて泣いていた。
「よしよし、そんなに泣かなくてもいいじゃない? 大きなクセして、君は可愛いなぁ」
細い指が俺の頭を撫でた。
この瞬間、俺の胸にぽっかりと空いていたものが、すべてが、確実に満たされていた。




