ヒノエ
観光地ヴィーヴのはずれ、ヴォラーベ洞窟。
影花の巣窟となっているこの洞窟は、館から少し離れた荒地にひっそりと存在していた。
そこに近づくにつれ、人の姿は消え、空気はひんやりと冷えはじめていった。
「…っ…相変わらず、埃っぽい所やなぁ」
大きな扇子を口元にあてながら、雛菊が伊勢の手を取って菊の花から優雅に降りる。
「ほな、早いとこ済ませ———」
雛菊がそう瞳を光らせたとき。
『ギュルルルルルルルル』
「!?…影花!?なんでこんなとこにまで!!」
突如地面から、闇とともに無数の影花が現れた。
「ひな…」
「ほんまに、鬱陶しいなぁ。アンタら」
そう言った雛菊の声色には、今までの艶めいた優しさが消え、微かに殺気が入り混じる。
その殺気に呼ばれるようにして地面の中から、何かが上がってくるような音と地響きが生じ始めた。
そして。
「花は花らしく、優艷に咲きよし」
雛菊の足元から地面がビキビキと音を立てて割れ、そこから太い植物の茎が伸びたかと思うと、目の前の影花を一気に蹴散らした。
「伊勢、アンタはラムはんを連れて先に洞窟に行け」
雛菊が洞窟の方角を指さして言うと、エルが太ももに巻き止めていた鞭、傲慢な女王を手に取った。
「私も一緒に行きますわ。ラムを解放出来るのは契約者の私だけですから」
「エルが行くなら、僕も行こうかな」
フェルドが両手に対影花用の二丁拳銃、蒼色の乙女を握る隣で、ルチアはセレネを見下ろす。
「じゃあ俺とセレネはその援護をしよう」
「ん。りょーかい」
「あたしは伊勢と洞窟に向かう」
「わかった。…伊勢」
雛菊の声に、ラムを袖口に押し込みながら伊勢が振り返る。
「なに。ひな」
「ひとりで突っ込むことは許さへん。周りを見て、協力しよし」
「うん。ひながそう言うなら」
今にも飛び出して行きそうに力んでいた足を引っ込め、伊勢は口元に笑みを浮かべて頷いた。
自分たちの行動が、影花と共に閉じ込められた一人の生死を分ける。
一刻の猶予もない。
雛菊は扇子の奥で息を呑んだ。
(今までヒノエの立てる戦略プランに頼りきっとった)
隊員を鼓舞する隊長も、完璧な作戦を立てる参謀もいない状況。
(完遂出来るんやろか。内らだけで、この任務)
頼りは、ラム。…の操る氷。
「そんなら…任務、開始や!」
真っ先に影花の群れに突進していく伊勢。雛菊が後方から彼の進む道を鮮やかな緑色の植物をもって切り開いていく。
エクラはひたすら示された方角へと突っ走っていく伊勢の後を追いながら、館に置いてきた彼に思いを馳せる。
「絶対隊長連れて帰って、あの弱虫を部屋から引っ張り出してやるんだから」
□■□
ヒノエは普段から長風呂だった。
念入りに全身を洗い、さらに入浴剤を入れた湯に十分に浸かって体を徹底的に清める。
風呂が久々だった今日はその倍、気をつかった。
おかげで体はさっぱりしたが、気分はまだ晴れない。
ヒノエは小さくため息をつきながら、部屋に戻ろうと脱衣場の引き戸に手をかけた。
「やっぱりか」
「!?」
引き戸をあけてのれんをくぐったすぐ後、知らない声がヒノエを迎えた。
「お前がヒノエか?」
「あ……」
目の前にいたのは白銀の髪を後ろで束ねた美しい青年。
(う、うそ…。こんなに早く見つかるなんて…!)
「そんな怯えた顔すんなよ。オレはチアーノ支部のフウマだ。よろしくな」
(い、やだ。きっと、ぼくを部屋から連れ出すために…)
どうして見つかったかなんて今はどうでもいい。
とにかく今捕まりたくはない。部屋に戻らなければ。
「おーい。聞いてるかー?」
(ご、ごめんなさいっ!)
ヒノエはフウマを無視して横切り、そのまま全速力で廊下を駆け出した。
「あっ。おい待て!」
(まだ…もう…ぼくは…っ…)
ヒノエは苦しげに唇を噛み締めたとき、前方に不意に人影が見えた。
「フウマくん?そんなに大声出してどうした…」
(……!)
リビングから出てきたのは部屋を訪ねてきたあの声の主。
「その子は…?」
そして、ミスラに向かってくるのは、黒縁の大きめな眼鏡をかけた黒髪に赤のメッシュの入った少年で…。
「ミスラ!そいつがヒノエだ!」
「え!?」
「捕まえろっ!」
だんだんと近づいてくる少年をヒノエだと指差し叫ぶフウマに
「つ、捕まえるってどうやって……!」
ミスラはそう言い戸惑いながらも腕を広げる。
(うぅ…)
フウマとミスラに挟みうちにされ道を塞がれたヒノエは。
(し、失礼します…!)
仕方がなしに高く飛び上がり、ミスラの肩に片手を手をついてそのまま軽々とバク転。
「え…」
「なっ!?」
一瞬の出来事に呆気にとられるミスラとフウマに背を向けてスタンと着地したヒノエは、さらに間を置かずに走り出した。
「あ…ま、待って…」
ハッと気がついてミスラが振り返った時には、既にヒノエの部屋のドアは固く閉じられた後だった。
「フウマくん…あの子…」
「ああ。あいつがたぶんヒノ…」
「ヒノエって女の子の名前だと思ってた!」
「…は?」
てっきりヒノエを逃がして落ち込んでるのかと思ったが、今のミスラの興奮気味な表情からして違うようだ。
「男の子だったよ!それもフウマくんよりも小さい!」
「あ、ああそうだな…いやまて。オレより小さいってそれどういう意味だよ」
「だってフウマくん、ルチアさんやフェルドさんに身長負けてるから…。あと伊勢さんにも」
「うるせぇっ!」
どこか憐れむようなミスラの視線に、フウマが目を吊り上げる。
「だいたいオレが小さいんじゃなくて、あいつらがでかいだけだ!」
フウマはそう言い張るが、ミスラが少し頑張って背伸びをすれば、ふたりの身長に大差はなくなってしまうのだ。
□■□
(はぁ…はぁ…っ…)
ドア越しにふたりの声が遠くなるのを確認して、ヒノエはへなへなとその場に座り込んだ。
ずっと休ませていた体。
久々にあんな風に激しく動かしたせいで、呼吸が激しく乱れる。
それに、何だか変だ。
あのふたりをかわして逃げ切って良かったはずなのに。
「…う…っ…」
涙が、止まらない。
(違う…ぼくは、こんなことがしたくて…ここにいるんじゃ…)
そこでふと、気が付いた。
「ぅ……ひっ…く…」
ここにいる目的だけじゃない。今生きている意味さえ、何もかもを見失ったこと。
自分には今、頼るものが何も無いこと。
従うべき人を失くした虚無感。
それを自分自身のミスが引き起こしたという罪悪感。
身体につきまとうものはあまりにも重過ぎて、心臓が抉られる。
涙で歪む視界に、かろうじて壁のコルクボードに貼られた数枚の写真だけが見えた。
どれもヴィーヴ支部の人間が写る、大切な思い出。その全てにガタイのいい赤髪の男が写っていた。
「どうしよう…ぼく、わからなくなっちゃった…」
ヒノエは縋るようにそれらに手を伸ばした。
「助けてよ…シド…」
だがその手は写真に触れることなく力尽きて床に落ちる。額を床に擦り付けてうずくまるヒノエの悲痛な叫びは、しかしどこにも、誰の耳にも入らない。
「ぼくは…どうしたら……」




