レポート 008 「離人症」
一発勝負だ。失敗は死を意味する。たとえ魔法があっても正面から挑んだら十中八九負けるだろう。つまりこの一撃で決めないといけない。威力を上げるためにも俺は少しづつ熊に近寄った。
気付かれたら終わり、遠すぎて決めきれなくても終わり。終わり、終わり、終わり、死。
ダメだ集中しろ、今まで何度でも死にかけてきただろ。
だから覚悟を決めて、この一撃に、、命を賭けろ
「ウインドカッター!」
距離は十分だ。威力も申し分ない。ちゃんと狙った熊の首筋へと風の刃が大気を進み…
文字通り、空を切った。
首筋を狙ったのが間違いだった。縦向きの風は容易く獣に避けられてしまう。
そうして俺に残ったのは魔法で消耗した精神力と、逃げ続けて疲れきった体力と、怒りの表情に満ちた獣と相対しているという事実だけだった。
「…死んだな」
俺は死を覚悟できたわけではない。ただこの世に未練を感じるだけの記憶が俺にはなかったのだ。自分の死を単なるイベントの一つとして達観視してしまうほどに、俺は生への執着が欠けていた。
なんだよ、しょぼいもんじゃねぇか異世界なんて。ラノベのように無双できなれば、ハーレムなんてできる兆候もありはしない。
どうせ夢なんだろ。ここで死ねば元の世界で目覚める夢オチだろ。ならとっとと終わらせようぜ。
こんな腐った異世界生活なんて…クソクラエだ。
「俺一人で満足してくれよ、どうせあのチビは食うとこないからさ。」
俺はただ一人の少年が熊に襲われる様を冷めた目で眺めていた。どうでも良かったのだ。
自分というものが感じられない。何をしても自分がしていると実感できない。そうして断片的な「今」が転々と移り変わっていく。まるで感覚と感情が事象の海に溶けてしまったようだった。
記憶をなくした少年は自分の命になんの重みも価値も況してや意味さえも見出すことはできなかった。
だから自分をなくした少年は、せめて自分の死には餌という価値を与えたかった。
「ケン、タ?」
可愛らしい声が聞こえきた。朦朧としていた世界が輪郭を描き出す。そして視界の中心には水色のワンピースを着た栗色の髪の少女が立っていた。
どうしてこのタイミングで見つかるんだよ。
俺は自分の死にすら意味を見出せないのかよ!
せめて、彼女の為に死ねたのならどんなに楽なことか…
「なんで、お前がいるんだよ!俺はお前のために…」
アリスのために死ぬ?
嘘だ。俺はそんな綺麗なことを考えてなんかいない。
俺はただ自分を肯定したかった。自分の命が無意味だなんて認めたくなかった。
俺は死ぬ理由を彼女に押し付けたのだ。
「ほんと最低だな、俺は」
あぁもう、これじゃあ死ねないじゃねぇか。立てよ、弱虫な俺、逃げ腰の俺、さっさと立てよ。
そして守れ。自分の命に意味が欲しかったんだろ!今与えてやる!『あいつを守れ!』
俺の後にあいつが食われるなんて後味の悪い話、死んだ俺が許しても、今の俺が許さねえ。だから立て、立って、立ち向かえ!!!
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ギシギシと金属同士がこすれ合う不快な音が響く。
『またここか』
鎖の世界。スキルを得ることができる精神世界。ケンタはまたこの血生臭い銀世界に囚われていた。
『カンナの話が確かなら、ここで試練を受けて、スキルを得るんだったな。』
チリーン
鈴の音を鳴らしながら白い蝶がヒラヒラと舞っている。それはケンタの周りをくるくる回ったかと思うと、彼を誘導するようにユラユラと遠のいていく。
『ついて来いってか』
とりあえずケンタはその白い蝶の後を追い、鎖の森を進んだ。辿り着いたのは一本の汚らしく錆び付いた鎖の前だった。白い蝶はその鎖の周りをくるくると回っている。
『こいつか』
そしてケンタは躊躇なくその鎖を握った。
またあの感覚だ。異物が体を這うような違和感。そして、
『ぐっ……あっ…!』
刃物が突き刺さるような激痛。だが今回、ケンタは手を離さなかった。以前と比べて痛みは少なかったが、それが永遠のように続く。そして、鎖の上の方から何か白い糸のようなものがスルスルとその錆びた鎖を辿ってきた。その白い糸はケンタの触れている手の中にすっと消えていく。それと同時にケンタが感じていた痛みも綺麗に消えた。とてつもない疲労を感じたケンタはその場に倒れこんだ。
『これで、あいつを…』
しかしケンタのその目には苦痛や疲労よりも次の戦いへの覚悟がメラメラと沸き立っていた。
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目を開けるとケンタは元の世界に戻った。彼は今まさに熊に殴られる寸前だった。巨大な掌が視界を覆う。だがケンタはさっと身を屈め熊の脇の下をくぐった。並大抵の瞬発力ではできない芸当だ。
そして彼はすぐさま熊の脇腹に正拳突きを叩き込む。すると2メートルもの巨体が僅かに傾いた。
「喰らえぇ!」
その隙を逃さずケンタは背後の木を駆け上り思いっきり跳躍しその巨体に胴回し回転蹴りをかます。バランスを崩した熊は頭から巨大な岩に激突した。岩を流れるどす黒い獣の血がぽたぽたと地に落ちる。
「はぁはぁはぁはぁ…強化スキル、といったところか」
そう、さっきまでの異常なパフォーマンスは全てそのスキルが起因するものだったのだ。戦闘前ケンタはどんなスキルを得たかは知らなかったが、何ができるようになったかは本能が察知していた。
「ははっ、動けねぇや」
気楽に言っているが、大の字に横たわるケンタは強く歯を食いしばり全身が攣っているような感覚に必死に耐えていた。異常な運動に体の細胞がついていけなかったのだ。
「っつ、あああああああああああああああああ」
それは苦痛の叫びと勝利の雄叫びが混ざった獣ような声だった。
「ケンタ、痛いの?」
「あぁ、クソ痛ぇよ」
するとアリスはケンタの右手をぎゅっと握った。
「アリスのママはね、アリスが痛いときいつもこうしてくれるの」
そう言うと何処からともなく白い光の粒子がアリスの周りをくるくる回り、その手を介してケンタに伝わる。
その優しい光はケンタの空っぽな体を満たすように次々と送られてくる。するとケンタの痛みは僅かながら穏やかになった。
「ありがと、アリス」
「えへへ」
俺は守ったのだ。この笑顔を守ったのだ。ほら俺の命にもちゃんと意味があるじゃないか。
記憶がないのなら新しく作ればいい、こんな笑顔で溢れる楽しい思い出を。
「ケンタ、まだ痛い?」
「ううん、だいぶ楽になったよ」
「でも…泣いてる」
あれ、どうしてだろう。熱い体液が目尻を流れる。それを心配そうに眺めるアリスを安心させようと俺は笑った。それはあの時アリスが見せた泣き笑いと同じくらい純粋で高級な笑顔だった。
「へへッ」
「にっ!」
返すように笑うアリスはそっとケンタの手を離し、ゆっくりと立ち上がると、
彼女が猛烈な勢いで吹き飛ばされた。
なにが起きたのか理解するのに数秒かかった。彼女は茶色い巨大な掌で叩かれたのだ。ケンタが倒れながら見た光景は、頭から血を流し白目をむきながらも再び立ち上がった敵と、目を閉じ木の根元に倒れている少女だった。
「き、さ、まぁぁぁぁぁああ!」
その叫びはくまへの怒りであり、自分への怒りでもあった。俺は体を切り裂くような痛みに耐えながら起き上がった。限界の体に鞭を打って俺はスキルを発動させる。しかし、体は思うように動かず、ただ痛みが増すばかりだった。
「くっ…」
片膝をついてしまった俺は守るべき少女の方を見た。アリスの微かに見開かれた目と目があった。苦渋の表情を浮かべた彼女は笑っていた。必死に笑っていたのだ。そしてケンタに向けてその口は動く。世界が静寂に包まれた。
『け、ん、た、に、げ、て』
『助けて』ではない、『頑張れ』でもない、『逃げて』と言ったのだ。自分のことはいいから逃げてと、まだなにも知らない少女が言ったのだ。
「何…言ってんだよ、お前は」
その思いやりの言葉はケンタにとって死刑宣告にも等しかった。彼は彼女を守ると決めた、その少女に『逃げて』と言われたのだ。その言葉に悪意はなくとも、むしろ善意であるがゆえに、ケンタは自分を根本から拒絶されたようなどうしようもない感覚に陥った。
「俺はいらないのかよ!意味も価値もないのかよ!俺は死ぬことなんてどうでもいいんだよ!だから、せめて、せめて…」
『お前を…守らせてくれよ』
その醜い懇願は再び目を閉じていた彼女の耳には届かない。俺はこの無限に湧き上がる行き場のない怒りを嘆きを悲しみを発散させたかった。
そして目の前のモノを殴った。殴っても効かないのは百も承知だ。俺は熊を殴ったのではない。ただ目の前にある茶色い毛皮の壁を殴った。
「醜いな、惨めだよな。俺は死ぬんだ。ここがどこかもわからないまま、自分が誰かも知らないまま、何もできず、一人の女の子を守ることすらできず、俺は、俺は!」
そこからは意味のない言葉の羅列だった。俺は叫びながら殴る。ひたすら殴る。悔し紛れの無茶苦茶な殴打だ。周りのことなど気にもしなかった。時折俺も殴り飛ばされるようだったが、そんなことはどうでもよかった。俺の怒りが鬱憤が茶色い壁に吸い込まれてゆく。そして俺はとうとう、
バタン
倒れた。殴り飛ばされたまま起き上がることができない。骨が軋む、肉が張り裂ける。意識が朦朧とし始め瞼が重くなってゆく。ヨダレを垂らした熊が視界に入り、俺の上にのしかかる。俺は下敷きとなってしまった。
「こはっ!」
胴体が圧迫され、血の塊を吐き出した俺は虚ろな視界の中、一羽の白い鳩が見えた。
「グルッポゥ?」
迎えが来たか。アリスにもこいつが見えているのかな……
…まてよ、あの鳩は確か、、
「間に 合った かな?」
長い金髪に緑の瞳そして尖った耳、カンナがそこにいた。
「…あぁ、完璧なタイミングだよ」
「まったくそうは見えないけど」
「ゴホッ……わかってんなら聞くなよ」
カンナが現れた安心感で緊張が解けたのか、体の筋肉が弛緩していくのを感じながら重い瞼を閉じ、
俺は死んだように眠った。
ようやくネット小説っぽくなってきました




