九十一話
「な……ん、で?」
「あなたはわたしと同じだと、思っていました」
輿水さんは正座したまま、ニッコリと微笑んでいた。
これだけの騒ぎを起こしているというのに、その在り方は欠片も変わっていなかった。
ただ話しかけるほうが動揺する彼女の、その異質さが懐かしかった。
「俺、と……同じ……って?」
にこり、と彼女はただ微笑んだ。
微笑み、ただ真っ直ぐに俺の方へと歩いてきた。
まるで散歩でもするように、軽い調子で。
「へ……な……?」
「今日は良い天気ですね」
彼女の言葉が、耳にひりついた。
それは何度目かの、言葉だったのだろうか。
小さくミシッ、ミシッ、と畳に軋みを立てて、彼女が近づいてくる。誰も、誰もなにもいえなかった。赤羽はアホの子みたいな口をポカンと開けていた。深雪ちゃんは大きく目を見開いていた。嘉島は厳しく眉をしかめていた。みんな、ただ動向を見守るだけだった。
すると菅原さんが、ちょうど俺と彼女の中間地点で一歩、あゆみ出た。
立ち塞がるのかと、俺は思った。
だけど――
『――――』
菅原さんは無表情に、輿水さんは笑顔で、たぶん2秒くらい向き合った後、輿水さんは歩みを再会し、菅原さんはそれ以上動くことはなかった。大人の女性の、ソレは目に視えないやり取りだったのだろうか。
「とても月が高くて、目が眩みそうなほど透き通った宇宙です」
彼女が視えている世界は、ここではないのだろうか?
意識の根底あたりでそんなことを思い耽りながら、ついに彼女はぼくと三メートルの距離まで近づいてしまった。
口が、喚く。
「ち……近寄るなっ!」
恐怖が、背筋を這い上がっていた。ぶん、ぶん、と闇雲に刀を振り回す。もちろん当てるつもりなんて毛頭ない。ただ威嚇して、彼女を寄せ付けないようにしたいだけだった。
なのに。
なんで、キミはそんなの見えていないように近づくんだ?
「どうして?」
「なっ、なにが、で……っ!?」
ブンブンブンブン、とさらに四方八方振り回す。ここまでくると、もう駄々っ子する幼児のようだった。自覚はある、だが、でも、それでも――
「どうしてそんなに……怯えているのですか?」
以前も聞いたその言葉に、ゾクゾクと悪寒が沸いてきた。
この感覚は、デジャヴのようなものに近かった。
なにか気づいてはいけない事実を、彼女は突きつけようとしているような――
「ハッ……な、なに言ってんだ? そんなこと……それよりも怯えるべきはそっちの方――」
「あなたが戦うべきは、その方たちではありませんよ?」
フッ、と呆気にとられた。
気が抜けた刀が、彼女の頭に迫り――
「うわっ」
慌てて柄に、力をこめた。
切っ先が、彼女の前髪に――触れた。
ほんの一センチ真上で、それこそ本当の本当にギリギリで、刀身は止まっていた。
一瞬こちらの心臓のほうが、止まりそうだった。
全身の、血の気が引いた。
「ハッ、く……あ、かッ」
「あなたはそんなに、弱くありません」
嫌な予感が、全身を浸していた。
「お……おい、上月?」
赤羽が、擦れた声をあげていた。だが"ぼく"は、それどころじゃなかった。何の因果かいつの間にか握り締めていた日本刀が彼女に触れるか触れないかの距離まで迫っていて――
刀身が、彼女に触れた。だいたい、額の辺りだ。
ぼくが刀を、振ったわけじゃない。
彼女が刀に向かって、歩いてきたのだ。
言葉が、無かった。
「な……あ……」
「怖がらないでください」
ガリッ、となにかが削れるような音がした。それは、生理的嫌悪感を抱かせるものだった。
もう一歩間合いを詰めてきた彼女の刀身が当たっていた額から、ドロリと一筋の血が流れた。
「ひっ……!」
「だいじょうぶ」
さらに一歩――というかもう目の前まで、彼女は迫った。再びゴリッ、という厭な音。血の雫は太さを増し、川か滝のような様相になる。それは彼女の顔の右半分を覆い、しかしそれでも彼女は右目を閉じることは無かった。
「…………はっ、あ」
ぼくは震えて、両腕をダラリと垂らした。視界の端で、おじさんとおばさんが襖の向こうに逃げ出すのが見えた。不思議と、追いかけようという気持ちは湧いてこなかった。
さっきまでの、身を焦がすような復讐心はいつの間にか鎮火されていた。
「だいじょうぶ」
彼女は白痴のように繰り返し、そしてぼくを、抱きしめた。
温かかった。初めて誰かに、抱きしめてもら――
違う。
以前――それは記憶の靄が掛かるほどの昔、両親に、それは与えてもらった愛情だった。
哀しくないのに、またも瞳から涙が一筋流れた。
喉の、奥――心から、声が漏れた。
「……オレは……ぼく、は……俺は?」
「だいじょうぶです」
なにが?
「ご両親は、仇を取って欲しいだなんて、思っていらっしゃらないと思いますよ?」
なにが――
「……あなたにオレの両親の、なにがわかるんだ?」
クスっ、と笑う気配を感じた。
「わかりませんよ? ただ、こう言わないと上月さんが殺人犯になって、そのあと自殺するっていう最悪の結末を迎えてしまうじゃないですか?」
なんて、メタでぶっちゃけで突拍子も無い言葉は、あまりに彼女らしかった。
ぼくは強張っていた肩の力が、抜けるのを感じた。
「……その、通りですね。いつもいつも、気を遣っていただいて、本当に――」
「でも、上月さんのご両親に、言付けを預かっています。どうか自分の心に素直に、どうか私たちのことに囚われず、自由に幸せに生きて欲しい、と」
ぼくの予想の斜め上をいく彼女は、やはりさすがだと言わざるを得なかった。
「そうですか……じゃあ輿水さんがオレをここに呼んでくれたのって?」
彼女はスッ、と身体を離し、そして無言で頷いた。
ぼくは胸が一杯で、もうなんにもいえなかった。彼女を気遣って、恩返しのつもりで家に押しかけておいて、この様だった。色々悟っていたようで、まったくどうにも出来ていなかった。
けど、でも、最後に――
最後?
「……輿水、さん?」
「もう、大丈夫ですよね?」
胸騒ぎがした。
ぼくは咄嗟に、彼女に向けて手を伸ばしていた。
それを擦り抜けるように、彼女は後ろに摺り足で、下がっていった。静々とした様子だったが、彼女の足取りは軽かった。なぜか嫌な予感に、侵されていた。すべての行動が、一本の結末に繋がっている気がした。
ぼくは届かない手を伸ばしたまま、最後に声をかけた。
「どこへ……行く気ですか?」
彼女は微笑むだけで、答えがぼくの耳に届くことは、なかった。
しかしおの口元は、確かにある単語を紡いでいた。十文字。そして彼女は丁寧に一礼し、ぼくたちの前から姿を消した。と入れ替わりに後ろから、嘉島が現れた。聞くと、嘉島は油断無くおじとおばの二人を捉え、拘束し、そのあと警察に連絡まで入れていたらしい。さすがだった。
そして菅原さんが前に出ようとして――それを制するように赤羽がぼくに、声をかけてきた。
それは、些細な疑問だった。
「わい、さっきから……誰と、喋りよっとや?」
もうその言葉に、驚くことは無かった。




