八十九話
そしてなにも、語らなかった。叔父との距離が、三歩にまで詰まる。心臓がバクバクと、暴れ始める。体が痙攣を始め、これ以上相手の間合いに入るのを拒み始める。
ぼくは知られぬように唇を噛み締め、さらにもう一歩踏み出した。
叔父の足が、一歩向こうに遠のいた。
ぼくは微かに驚き、そして顔を上げた。
「…………っ!」
叔父は、顔を真っ赤にしていた。眉間に凄まじい皺を寄せていた。
最初一瞬、ぼくは赤鬼を連想した。
だけど、でも――ぼくはその瞳、本当の感情を知った気がした。
ふと、彼女の深い底知れない瞳を思い出した。
「……おじさん」
「おっ、おじさ、ん、だと……? お、俺はお前の親代わりになってやるんだから、これからはお父さんのつもりでお父さんと呼べと何度も――」
「あなたは、お父さんではないです」
ぼくは自分の心が、酷く落ち着いていることに気づいた。先ほどまでの激しく動揺しているそれから、まったく真逆な心持ちに変わっていた。
ハッキリいえば、白けていた。
あぁ、こんな人間だったんだと。
この程度の、人間だったのかと。
「な、なに、を……?」
「あなたはぼくのお父さんの代わりなどでも、ないです」
相手が動揺すればするほど、ぼくの心はどんどん空虚さに苛まれていった。ぼくはこんなつまらない人間の呪縛に囚われていたのかと思うと、悲しさすら募っていった。
自分の人生の、その無意味さに。
「い……今、まで育ててやっ、た恩を忘れやが――!」
「殺人犯」
目を真っ直ぐに見据えて、ぼくは言い放った。
途端、カッとしたように相手の瞳が滾り、その右手が閃いた。平手ではなかった。握り締められたゴツいソレが、ぼくの顔面めがけて飛んできた。怖くはなかった。そして避ける気もなかった。ぼくは瞼を閉じて、それを受け入れた。
受け入れようと、した。
しかし数秒待っても、それがぼくの軌道的にはおそらく鼻っ柱から前歯辺りを捉えることは、なかった。
不思議な気持ちになって、ぼくは瞼を開けた。
「なんしよっとや、わい?」
目の前から聞こえた、耳慣れた九州弁。
その青ジャケットの背中が、今日はたたらと広く、頼もしく見えた。
「……赤羽」
「わい、今殴られてもよかと思っとらんかったや?」
図星だった。ぼくは黙すことで、それは肯定することにした。
振り返られて、そしてめいっぱい握られた拳で――殴り飛ばされた。
顎が、歪んだ気がした。
「ッ――!」
そのまま高そうな和製の机に、激突した。べちゃ、と顔面から畳に突っ伏す。床とキスなんて、漫画みたいな展開自分ですることになるとは思わなかった。
「な……!?」
急展開に愕然としていたのは、むしろおじさんだけのようだった。菅原さんは腕組してむっつり顔で、深雪ちゃんはいつものように無表情にうつむき加減で、嘉島はなに考えるかわからない無害そうな笑顔だった。
たぶん、こういわれると思った。
「これで、おあいこやな?」
「そう……だな」
ぼくは顎を擦り、立ち上が――ろうとしてくらん、と脳が揺れて再度倒れこみそうになり、嘉島にガシッ、と二の腕を捕まれた。
ぼくは苦笑いを浮かべた。
「……わりぃな、嘉島」
無言で首を振るイケメンだった。ぼくは体勢を整えて、一通りみんなに振り返り、そして再びおじさんに振り返った。
もはやわかりやすく、おじさんはビクビクしていた。そしておばさんはいつの間にか部屋の隅にまで退避していた。
くだらない人間だった。
「おじさん……あの、」
「な、なんだ!?」
この態度の豹変は、精神的イニシアチブがこちらに移ったことと、誤魔化しが利かなくなったことと、数的優位が確認されたことによるのだろう。
くだらなかった。
くだらな過ぎて、泣きたくなりそうだった。
ぼくは、嘆息した。
そして色々なこと、諦めた。
「……自首して、もらえませんか?」
一瞬、相手はぼくがなにを言っているのかわからない様子だった。
「――あ? いや、なにをお前言って……」
「オレはあなたを、訴えたくはないです。ここまで育ててもらったのは事実ですし、それに、その……」
「で?」
ぼくの言葉を引き継いだのは、やはり赤羽だった。一瞬菅原さんが動きそうになったのが見えたので、先制したのはさすがだった。漢だぞ、赤羽!
赤羽はぼくを守るように一歩、前に出た。
代わりにおじさんは、一歩下がった。
赤羽は腕を組み、自信満々だった。




