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七十四話


 寄せては返す、海の波のようだった。大きな波や、小さな波、それで安心していたら、もっと大きな波がぼくの心を襲ってきた。それに抗うことも出来ず、ぼくは翻弄され、弄ばれ、ぼくの心は宙に舞い、波の中を激しく転がり、上下左右の感覚をすら無くしていた。

 ただただ押し寄せる、真実という月がきっかけとなった大時化の中、吹き飛ばされ、叩きつけられ、転がされ、生きもろくに出来ず、ただただもがき、弄ばれるだけだった。

 すべての自由を奪われ、そしてある意味ぼくは完全に自由だった。

 なにに縛られることも無く、なにを気にすることも無く、ただすべてを自分の心のままに、解き放たれていた。

 だからふと、水面に上がった時。

 我に返ることが、出来た時。

 いまがいつで、ここがどこで、自分が何者なのか、まったく把握できなかった。

「…………?」

 呆然自失として、ぼくは目の前の一点を見つめた。なんだか布地が、視界いっぱいに広がっていた。

 身体が酷く、疲れていた。視界がなんだか、滲んでいた。思考がぜんぜん、働かなかった。

 ぼくはいま、どこにいるのだろうか? 

 事ここに至りようやく、ぼくの脳裏に疑問が浮かんだ。そういえば、ぼくは今までなにをしていたんだっけか? 記憶に、穴があいている。途中でテープをぶつり、と切られたかのようだった。途中が、わからない。

 モヤモヤとした気持ちが芽生えてきた。例えるなら、泥酔して起きたら道の真ん中だったような。自分が失態を犯したかもしれないのに、その正体が知れない。モヤモヤが、徐々に不安というハッキリとした形を取り始める。

 なにを、やっていたんだ?

 徐々にボヤけていた意識が、ハッキリし出す。心臓がバクバクと暴れ出した。待てよ、いま、ぼくは――というか、いま何時だ? 何月何日だ? それにここは、どこだ? なにが起こってたんだ?

 ぼくは――

 混乱の坩堝に陥りかけた、その時。

 不意に右手に、ぬくもりを感じた。

「…………」

 それにぼくは、微かに落ち着きを取り戻した。温もりが、右手に残っていた。それに縋りつくように、ぼくは丸くなった。その右手のぬくもりに、縋りついた。

 なんだろうかと、思い返していた。

 浮かぶのは、太陽のように温かいあの笑顔だった。

「……輿水、さん」

 ふと、呟いていた。

 思い返されるのは、ただ一つの単語だった。

 だいじょうぶ。

 それはどこかで聞いたような、懐かしく、柔らかい言葉だった。

 大波に翻弄され、幾度も転覆を繰り返し、方角を見失い途方に暮れて溺れる一歩手前で焦燥感で一杯になっているぼくを、微かに落ち着かせてくれた。だいじょうぶ。繰り返し、言い聞かせられていた気がする。そのたびぼくは落ち着き、ほんの少しづつ泣き止み――そうだぼくは、泣いていた。怖いことに、驚愕に、衝撃に、ただ泣くことしかできずぼくはまるで子供のように彼女に甘え――溺れていた。

「…………」

 思い返すことすら、怖かった。しかし正確に言うなら、思い返すことは出来なかった。溺れている人間が、その最中のことを冷静に客観視できるわけがない。だから覚えているのは、その時の余裕の無さだけだった。自分の、どうしようもない羞恥状態だけだった。

 彼女にどれほど迷惑が掛かっただろうかと考えると、布団を被って、そこから出ることは決して出来そうにも無かった。大学生にもなって、女の子に甘えるだなんて、本当に人間失格だと思った。ぼくが発見したことは、事実だと嫌が応にも思い知らされる心地だった。

 ごめんなさい、輿水さん。心の中で、謝るしかなかった。もう二度と、お会いすることはないだろうから。

 ――けど、

「なんで……?」

 ふとひとり、布団の中で亀になりながら呟いていた。それは本当に気がかりで、最後にこれくらい知りたいと思える疑問だった。

 なんで。

 なんで彼女は、ぼくにあんなに、優しくしてくれたのだろうか?

『だいじょうぶ』

 彼女はずっと、ぼくの右手を握ってくれていた。そのぬくもりに、ぼくの鼓動は徐々に落ち着いていった。理屈がわからないその現象にでも、ぼくはなぜか委ねるしかなかった。溺れる者は、藁でもつかむかのように。しかしその藁はこのうえなく上等で、ぼくなんかには勿体ないことこの上なかったが。

 まるで親にあやされる、子供そのものだ。

 ぼくは自分に対する信頼感を、完全に失っていた。ただ右手に残る温もりだけを頼りに、なんとか自分を支えているというのが実際だった。この部屋から、一歩たりとも外に出られそうになかった。もうぼくは、明日からどう生きていけば――


 ピン、ポーン。

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