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七十二話

「なんですか?」

「いや……」

 彼女の言葉を、ぼくは遮った。理由としては、本当に単純なことだったのかもしれない。

 天才と呼ばれた彼女。親にさえ、距離を置かれた存在。大学教師にさえそう扱われたというのなら、学校での居場所も――というよりきっとどこにも、彼女の居場所や、気の置ける相手は、いなかったのかもしれない。

 だから、ただその感性についていける人間が、欲しかっただけなのかもしれない。

「オレ……どうしたら、いいんですか?」

 恥も外聞も無く、ぼくはただ白痴のように尋ねていた。それに彼女は、

「心を開いてください」

 どれだけぼくがみっともない姿を見せようが、その笑みは変わることは無かった。彼女の心に映っているのは気分やその他もろもろではなく、ぼくの心だと確証持って思えた。

 だからなのか、ぼくは初めて心を決めて、自分の心と向き合うことに決めた。

「……すー、はー」

 大きく息を吸って、そして吐いた。ドクドクという心臓を、とにかく抑えようと努めた。トラウマがそこに隠されているのは、間違いなかった。いわゆる蛇がいるのをわかっている繁みに、手を突っ込む感覚にソレは似ていた。

 心を、開く。

 ――なぜ、そんなことをしなければならないのか?

 どくんどくん、と心臓が少しづつ暴れ出す。それを出来るだけ冷静な気持ちで、抑えようとした。本当にこのままでいいと、きっと思っているわけではないのだろう。彼女の言葉に、論理に穴は無い。だからそうなのだとは、思う。

 思うけれど。

 だけど――

 右手に温かい感触が、生まれた。

「え……?」

 いつの間にか閉じていた瞳を開けると、彼女はぼくの右手を、握っていた。

 両手で、包み込むように。

 ぼくを、安心させるように。

「…………」

 それに、ぼくは背中を押されるような気持ちだった。勇気を、貰ったようだった。

 誰かがぼくのために、応援してくれてると思うと、胸の中がじんわり、と温まる心地だった。

 逃げたくない、と思った。

 たかが過去のトラウマなんかに、惑わされたくは無いと思った。

「…………」

 再度目を閉じて、思い出す。ドクドクと血流が増えていく。それにぼくは、抗う。

 最初に浮かぶは、やはりダイニングだった。オバとオジが、テーブルを挟んでなにかを話していた。そこまでで、今まではぼくは目を背けてきた。

 その会話の内容に、きっとぼくがこんな風に――壊れた原因が、あるのだろう。

 心臓が、鷹の爪で鷲掴みにされた気持ちになる。

 ぼくは恐怖に喉が引き攣ったようになり――右手に唐突に、感触が、生まれた。

 彼女がぼくの、右腕を握ってくれた。

「!」

 それにぼくは手を握り返し、そしてぼくは過去のソレと――向き合った。


 ぼくはその時、お父さんお母さんのことを聞いて、わけがわからなくなって、放心して、それで気絶するようにベッドに倒れ込んで7時間くらい経った後だった。倒れたのがお昼の2時を過ぎた頃だったから、目覚めたらすっかり真っ暗だった。枕元にある目覚まし時計を見て、それを知った。お家の中は静まり返っていて、少し怖いと思った。まるで夢のなかみたいだった。だとすればお父さんとお母さんがどうとかというのもきっと悪い夢で、それで――という気持ちで、ぼくは電気も点けずに階段を下りていった。不思議に転ぶこと無く、一階まで辿り着けた。

 向こうの一部屋だけ、明かりが灯っていた。ぼくは吸い寄せられるように、そちらへ向かった。まるで蛾かなにかのようだとぼくは思った。とにかくあの時の情報が夢だったと、早く誰からでもいいから教えて欲しかった。

「…………」

 話し声が、聞こえた。でもボソボソ声のようで、ハッキリと聞き取れなかった。それにぼくは疑問符を浮かべながらも、近づいていった。いつも大声で、楽しそうに話すふたりなのに、なぜこんな小さな声で話してるのか?

 ぼくは、近づいていった。ダイニングに。9時半なのに、ご飯でも食べているのだろうか? だとしたら、少し分けて欲しかった。ぼくも寝てたから、晩御飯食べてなくてお腹ぺこぺこだったから。

 ぺたぺたぺた、と変な音をさせながら歩いて、そしてダイニングのドアまで辿り着いた。

 ギィ、と開く。

「おば」

「――バレたらどうするのよ?」

 硬直した。


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