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五十二話

「……申し訳、なかったな」

 こっちもいっぱいいっぱいで余裕が無かったとはいえ、せっかく心を開いてくれそうになったところで、説明もなしにアレは無かったと自分でも思う。結局アレ以来、彼女とは顔を合わせていないし。やはり怒らせて、しまったのだろうか。だけど彼女には目的があったわけで、自意識過剰かとも思う。複雑だった。幾重にも重いが積み重なり、自分でも――

 マトリョーシカ。


「そう、言われたっけな、菅原さんに……そういう、意味だったんですか、ね?」

 枕に顔をうずめ、ぼくはひとり呟いた。



 マトリョーシカ、ぼくの心が、もしくはATフィールドが、見えない壁が、多重構造になっているのだろう。だから他人がわからなくて、自分で自分が理解出来ないのかもしれない。それを他人の目を通すことによって知るなんて、なんとも皮肉な話だった。

 ぼくはどうすべきなんだろうか?

 心を開くべきという気もしたが、多重構造のこの心、なにをどう開けば正解なのか、自分自身にもわからない。それに開けるなら、とっくに開いている。気もした。よく、わからない。

 考えが、纏まらなかった。浮かんでは消える泡、もしくは剥いでは現われる入れ子人形、はたまた幾重にも張り巡らされたATフィールドか。思考の螺旋階段に迷い込んだかのようだった。出口が見えない。正解が見えない。自分の、心が見えない。なにをどう動けばいいのかもわからず、だったら動かなければそれはそれでなにかが手遅れになりそうで、そんな八方塞りな正体不明の予感に怯えながら、結局その日、ぼくは、眠れない夜を過ごすハメになった。

 一夜明けて、学校に行くのが怖くなった。世界はぼくが知らないだけで、ドロドロと蠢くもので埋め尽くされていて、一歩間違えれば奈落の底に墜ちるような感覚だった。そしてそれはぼく自身にも秘められているのかも知れず、暴かれるのも嫌で、怖くて、そしてぼくは、部屋から出なかった。

「…………」

 考える時間も必要だと、自分に言い聞かせてみた。カーテンも閉め切り、電気もテレビもつけず、布団の前でぼくは座っていた。頭がぼんやりして、うまく考えが纏まらなかった。昨晩眠れていないことに起因していることは間違いなかった。なにをどうすれば正解かわからず、身動きが取れずにいる。心細さを感じて、ぼくは無意識にタオルケットを身体に巻いていた。

 こうしていると、落ち着いた。そしてこうしいると、まるで自分が蓑虫かサナギにでもなった心地になった。

 サナギ。そう考えると、心が軽くなったな気がした。今の自分は、本当の自分じゃない。本当の自分になる、前段階なんだ。なんていう現実逃避なんだろうとどこか冷静な自分が言ったような気がしたが、それも別にいいじゃないかという気がした。

 赤羽とのやり取りを、思い出していた。

 ひとを、初めて殴った。ぼくは暗闇の中で、自分の拳を見つめた。跳ね返る衝撃は、凄かった。興奮して、ぼくはわけのわからないことを喚き立てた。一気呵成に。それこそただ、激情に任せて。

 両親が死んでからずっと、ひとり苦しんできたオレの気持ちがわかってたまるかよ。

 ――そうなのか?

 ぼくはひとり、自身に問いかけてみた。ぼくは本当に、苦しんできたのか? ひとり、誰ともわかりあえず? わからない。それが本当の、自身の、少なくとも今は偽らざる本心だった。

 わからない。両親が死んでから十年間、ぼくは言葉に出来るような感情を抱いたことはなかった。そうしてここまで来た。薄情な人間だなくらいにすら思っていたのだ。なのに自分でそんな言葉を口にするだなんて、予想外以外の何物でもなかった。

 ――ぼくは苦しんできたのか?

 そも、苦しみという感情とはなんだ? だいたいが大きな感情の起伏なくここまで来たのだから、それがよくわからなかった。となると今までのソレも、実は苦しみに支配された悲しい半生だったとでも言うのだろうか?

 だとすれば、なんと悲しい人生。

 なんと憐れな、生き物なのだろう?

「――――」

 自分の言葉で、自分の頭が真っ白になる日が来るとは思ってもみなかった。本人がそう自覚していない不幸ほど憐れなものはないと聞いたことはあるが、まさか自分がそれに当てはまろうと想像したことすらなかった。まさに自分の子供がまさか、というやつだろうか。

 考える。ならば、もし仮にぼくがそういう悲しい生き物だとして、これからどうすればその境遇から抜け出せるのか?

 まず現状を第三者の目から冷静に判断してもらう必要があるだろう。そしておそらく当事者は一種の錯乱状態に陥っているはずだから、それを正常な精神状態に――

 ってオレ、病人かよ?


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