五十三話
「…………」
考えれば考えるほど、自身がまともではないということに確信を持ってしまえる結果になっていく。でもこの八方塞な状態を脱するには、その作業を行わないではいられない。ジレンマだった。なんもかんも投げ出して、布団にくるまってふて寝したかっ――と気づけばタオルケットにはくるまっているし、膝をつけていた。そういえば昨晩は一睡も出来なかった。どうせ考えても考えても、気持ちは堕ちていくばかり。だったらもう、とぼくは開き直り、というか限界を迎え、ぼくは敷布団のうえに倒れ込み、今度は一秒かけずに眠りに落ちた。
ふと、月明かりが目に入った。
目を、覚ます。真っ暗ななかで、それは今まで見たことが無いと言っても過言でないほどに、美しい真円の月だった。輪郭や、その内側に潜むと言われているウサギの姿まで、見て取れそうなほどに。
美しい、それは真円の月だった。
それに誘われるように、ぼくは外に出た。月を見上げながら、暗い夜道を歩いた。他に一切の物音がしない中、コツコツという靴音が耳に響いた。影が、やたらと後ろに長く伸びていた。月が明るい。足元は、暗い。覚束ない。本当に自分が、現実にいるのかどうかすら怪しくなってくる。まるで夢のような、それは光景だった。
どこに向かっているのか。
それすら定かではないのに、足は真っ直ぐにどこかに向かっていた。まるで目に見えない大いなる意思にでも、操られているかのようだった。
足元は暗いのに、空はやたらと明るい。まるで奈落を歩いているようだった。
その、現実感の無さのせいか、心はやたらと鷹揚としていた。
まるでハイキングに行く時のよう。心が弾んで、ふわふわと浮足立っていた。
そしてぼくは、ある地点にたどり着いた。そこがどこなのか、すぐにわかった。なにしろそこに至るまでの道程が、あまりに見覚えがあるものだったから。どこに向かっているかなんて、すぐに行き当たるというものだった。
校門にいつもはいる警備員は、どこにもいなかった。
正面玄関にいつもはたむろっている人の影は、欠片も見つけられなかった。
そして中庭には、すっかり見受けられなくなっていた彼女の姿が、あった。
ぼくは気楽に、声を掛けた。
「やあ、久しぶり」
誰に聞かせるでもない。だって彼女はぼくの唇を見なければ、その発音を理解することは出来ないのだから。
そしてぼくは、ソレと遭遇した。
彼女は星空の下で、まったくいつものように中庭でツルハシを振るっていた。
ぼくは直感的に、理解していた。
ぼくはその時確かに、解放されていた。
「地球の裏側って、そういう、意味だったんだね」
ぼくは、勘違いしていた。最初のぼくは、ブラジルやイギリスを想像していた。それは間違いだった。それは意味的には緯度や日付変更線を基準とした、反対側。あえて言うのなら真裏といった位置関係だった。
そうじゃなかった。
なにかの裏側というのは、例えるなら裏番組。もしくは人の心の裏、知られざる真実。
つまりは人の目に、触れることのないソレを指す。
だから結局、地球の裏側とは――
「キミは、地球人の目に触れることのない空間を、求めていたということだね」
確信を持って呟くと、彼女はなぜか、振り返った。
その顔に、妖艶な笑みを貼り付けて。
「違いますよ?」
その右手には、手鏡。
身だしなみは常に気にするということか。
さすがは女の子、嬉しくなってしまう。
でも――
「違う?」
なにが?
「わたしが求めていたのは、見られることのない空間ではなく、事実として触れることの叶わない世界です」
目をパチクリ。
「それって、どういう――」
肩すかしというか呆気にとられるぼくを嘲笑うかのように、彼女は穴を掘る手は休めずに言葉を綴る。
「地球のうえに住まう人間にとって、地球こそが世界のすべてといっても過言ではありません。それはつまり量子学的に言ってシュレディンガーに代表される不確定原理や、観測者理論にも言及される問題である、観測者がいなければ、それは実存していないのと変わらないという発想に基づきます」
とつぜんの訳のわからん言葉の羅列に、ぼくは停止して、ただ次の言葉を待った。
彼女はこちらを振り返ることは、なかった。
「観測されない、出来ない空間に行きたければ、世界そのものの位相をズラす必要があります。その為には、まず人の観測位置からの脱却から、続いて予測位置からの脱却、そして存在位相からの脱却に、続きます」
訳はわからない。
訳はわからないが、ただ、なにか決定的で、ヤバい、ことを言われている感覚は、確かにあった。
「……目的、は?」
「何度も言った筈ですよ?」
言った、確かに。
ぼくは思わず、呟いていた。
「大切なひと……確か、彼氏――」
「会いたいです」
彼女の瞳は、ぼくを見てはいなかった。というより、何者も捉えてはいなかった。ひょっとするとその聴覚も、今のように世界の壁をひおっつ隔ててしまった為に失われてしまったのではないかと疑いたくなるほど、それは次元が違っていた。
「会いたいです」
彼女は掘り続ける。
「会いたいです」
淀みなく掘り続ける。
「会いたいです」




