五十話
理事長はそれだけ告げ、手早く持っていた一冊の冊子と指示棒を仕舞いこみ、背を向けた。そのまま真っ直ぐに出口に向かっていく。一気、場は騒然となる。1時間半もの間、誰一人として口も開かず物音ひとつ立てなかった緊張感から解放されたのだ、無理もなかった。
そして教壇から入り口までの4,5メートル――時間にして五秒ほどが、ぼくたちの勝負だった。
「――いくばい、上月」
「おう」
小声で囁く赤羽に、ぼくも呟き返した。問題は、座っている位置だった。ぼくたちは長机の、ちょうど真ん中にふたり座っていた。そして左右の3人づつは談笑し、席を立つ様子はない。その後ろを映画の時よろしくすいませんすいません言いながら通っていたのでは、到底5秒では到達できない。ぼくは考え――
「ッ!」
しゃがみ込み、長机の下からの突破を――
「しゃあ!」
目を、パチクリ。
――まさか?
ぼくは自分の考えに恐れ慄きながらも窮屈な机の下をなんとかかんとか身体をねじ込むようにして、突破した。
顔を上げた。たぶんもう4秒くらい経っていた。
しかしぼくの危惧は間に合わない、というものとは別の方向性だった。
その瞬間ぼくが目にしたのは――こういってはなんだかまるで飛びかかる猿のようにして、両手両足を伸ばして宙を舞う赤羽の姿だった。
どん、という派手な着地音。それに談笑する学生たちは注目し、そして目の前で聞いた理事長は振り返り――
「? ……な、なんですか貴方は!?」
やっぱりリアクションまで、それは彼女とよく似ていた。
まさか机の上に足を掛け、飛び出すとは思ってもみなかった。無茶苦茶目を引いてるし。どうするんだ? とぼくは赤羽の次の行動をハラハラした気持ちで見つめていた。とにかくうまくやって欲しいと。
赤羽は理事長の問いかけにニヤリと口元を歪め、なぜか鼻の下を指の腹で擦り、
「いやさ、おい、理事長せんせいにちょっと話があっとさね」
「? 話、ですか? なんのですか?」
「ちょっと、理事長せんせいの、娘さんのことやけど」
そこでぼくは、見た。
理事長の態度が、硬化するのを。
「……話すことなど、なにもありません。講義は以上です、レポートを提出して、既定の単位を得なさい」
「単位とかどうでもよかっさね」
再度背を向け扉に向かおうとする理事長を、赤羽は回り込んだ。それに理事長は不審な視線を向けるが、赤羽はどこ吹く風だった。こいつと組んで良かったと思う、ぼくだったらここまで出来る自信はまったくない、正直単位は欲しいし。
「――なにが、聞きたいのですか?」
緊張感に、周囲がザワつき出す。なんだなんだ? という声や、え、なにどういうこと? などの状況説明を求める声も聞こえ出した。やり過ぎか? 撤退すべきか? 様々な声が、脳内に警鐘を鳴らし出す。
赤羽は――やっぱり揺るがなかった。
「理事長せんせい、菖蒲っていう娘さん、おりますよね?」
「それが、どうしたのです?」
「おいたち、菖蒲さんとお知り合いになってさ。でも最近大学に姿見せんけん、ちょっと気になっとってさ。理事長先生、なんか知らんです?」
「知りません」
そこで理事長は諦めたというか呆れたというかそういう様子でため息を吐き、
「というか、知ったことじゃありません。あんな子……思い出したくもない」
その言葉に、赤羽は眉をひそめた。
「――は? いま、なんて言ったとです?」
「あんな子のことなんて知らないって言ったのよ……まったく、菖蒲のことなんてどこで知ったのやら……本当わからない子……恥さらし」
「?」
ブツブツ言い出した理事長の様子に、赤羽も疑問符を浮かべていた。それはぼくも同様だった。
――知ったことじゃない? わからない子? 恥さらし? それはいったい、どういう意味で?
「あ、あの理事長先生? ちょっといったいなんの話しよって……?」
「とにかくそこは通しなさいっ。私は忙しいんですから、"あんな子のことなんか"で掛り患っている暇は無いのよっ!」
「! ちょっ、なんいいよっとやオバさ――」
赤羽を突き飛ばして理事長はドアに向かい、それに喰って掛かろうとした――赤羽を、他でもない"嘉島"が、抱き、止めていた。
それに赤羽は嘉島を睨み、嘉島は黙って首を振り、それに赤羽は悔しそうに歯噛みして、
「チッ……どういうつもりか知らんけどな、自分の娘をあんな子なんか、なんて言うなんて、まともな人間の言うことじゃなか。どうなっとっとや、一体……」
そんな赤羽の言葉を聞きながら、ぼくは赤羽と嘉島に集中した視線を置き去りに、理事長のあとに続いていた。
「先生」
ぼくは廊下の真ん中で、理事長に声をかけた。それに理事長は止まり、しかし立ち止まらなかった。ぼくもそれ以上間合いを詰めることはしなかった。動いたら、理事長はまた去ってしまいそうだったから。
「……なんなの? さっきから、貴方たちは」
「すいません、ご迷惑お掛けしまして……でもその、気になるんです。菖蒲さん、最近様子がおかしくて……」
「あの子がおかしいのは、生まれた時からずっとよ」




