プロローグ
「はっ、はっ、はっ……」
呼吸は浅くなり、喉は焼けるように熱い。
胃の奥は重たく、まるで身体の内側に重りでも付けているように全身が重たい。
指先一つ動かすのすら億劫なほどの高熱が三日三晩続き、生死の境をさまよった公爵令嬢セシリアは……
「嘘……」
――ある日突然、前世の記憶を取り戻した。
(ここって……『瞳の中のドルチェ』の世界なの!?)
恋愛シミュレーションRPG、『瞳の中のドルチェ』はいわゆる乙女ゲーだ。
平民でありながら魔法学院にやってきた主人公サーシャと、貴族のヒーロー達との関係を描く王道を行く学院ものである。
アニメ化から舞台化、ドラマ化までなされたほどの人気タイトルであり、かつての彼女も寝食を忘れてまでやりこんでいた名作ゲームだ。
(そして、私は……)
セシリアはゆっくりと起き上がる。
上体を起こすだけで咳が出てしまい、なんとか喉の痛みをこらえながら鏡を見つめる。
その先に映っていたのは青い瞳とブロンズの長い髪、そして恐ろしいほどに真っ白な肌。
間違いない……あの悪役令嬢の、セシリア・フォン・アイゼンフィールドだ。
セシリアの役目は、ヒロインの当て馬となる悪役令嬢。
ヒーローの一人である王太子アルフォンスの婚約者である彼女は、自身の身体が弱いせいで婚約者に強く依存するようになってしまい、最終的には婚約破棄からの断罪コンボを決められて全てを失うことになる少女である。
(そんなの……まっぴら御免よ)
重たい身体を動かしながら、セシリアは冷静に思考を巡らせる。
今は王国歴132年、ゲーム開始地点まではおよそ3年ほど。
彼女は息を切らせながら机に座り込むと、ゆっくりとノートにペンを走らせる。
残された3年の期間でセシリアがやらなければならないことは三つある。
・健康な肉体を手に入れること
・自身の断罪の運命を回避すること
・家が没落しても大丈夫なように、自分にできる仕事を見つけること
まず一番上の健康な肉体。これはこれから生きていく上で必要不可欠だ。
彼女は前世ではパーソナルジムに通い、海外からサプリメントを輸入するほどの健康オタクだった。
適切な栄養管理と運動、そして睡眠。それらをばっちりと守ってボディメイクをしていけば身体も治るはず。
そして断罪の運命を回避するために婚約者である王太子アルフォンスとはつかず離れずの距離を保つことで断罪を回避し、それが失敗した時の最悪に備えて仕事を見つけておく。
この三つをやりきることができれば、たとえ原作通りの婚約破棄を迎えたとしても、セシリアはこの『ひとドル』の世界で生きていくことができるだろう。
(となるとまず最初にやるのは……適切な食事管理と運動ね!)
セシリアは早速動き出すべく拳を高らかに突き上げる。
たったそれだけで、ごほっと小さく咳が出た。
まずは一動作で身体が悲鳴を上げるこの虚弱体質の改善からだ。
セシリアはまず、公爵家かかりつけの医師による治療を拒否することにした。
この世界の文化は中世前後で止まっているため、瀉血――血液を流して体外に出すという医療行為を平気で行っている。
常に貧血気味である彼女が更に血を失っていれば、元気でいられるはずもない。
わがままな公爵令嬢の皮を被ってゴリ押しし、ひとまず自分が好きなようにやるという許可を得ることができた。
そうしたら次にするのは栄養改善だ。
セシリアの現在のご飯は体調を気にして白いパンと薄いスープ、お腹が減ったら果物をかじるという食生活を続けていた。
(こんな食事で元気になれるわけないじゃない!)
食事は元気の源であり、身体の資本。
そして健康な身体は栄養バランスの取れた食事から産まれる。
この世界に栄養素の概念はないため、セシリアはコックに言いつけてまずはとにかく野菜を取っていくことにした。
ブロッコリーとパプリカでしっかりとビタミンCを補給し、そこに小松菜やほうれん草でビタミンKを摂取していく。
中でもパプリカはビタミンCだけではなくビタミンE、そしてビタミンAの元となるβカロテンなども取れる優秀野菜なので多めだ。
それらの野菜を塩やビネガーと合えて、しっかりと一日で必要となるビタミンの取れるベジボウルを作ってもらい、もりもりと食べていく。
「もっしゃもっしゃ……これだけでお腹いっぱいになっちゃいそうだわ」
「す、すごい……偏食のセシリア様がこんなにお野菜を食べるなんて!」
セシリアの専属メイドであるナターシャは、彼女の変化を好ましく思ってくれているようで、こうして前向きにいろいろと手伝ってくれている。
少々おっちょこちょいなところはあるものの、明るくて前向きな彼女はセシリアと実に馬がよく合っていた。
(やっぱり、あの食事はセシリアの意向でもあったわけね……)
野菜を食べるだけで褒められるなんて、一体どんな食生活をしていたのだろうか。
ご飯も数度に分けて食べないと息が切れてしまうこの身体を、一刻も改善しなくては……と再びセシリアはもしゃもしゃし始める。
野菜を食べてある程度胃が慣れてきたら、次は貧血気味の体質改善のために鉄分不足を補っていくことにした。
だがこの世界にサプリメントなんてものがあるはずもない。
なのでレバーをパテにしてもらい、パンに塗って食べていくことにした。
「もぐもぐ……バターを入れてないから、かなりぼそぼそしてるわね……」
「セシリア様、食べづらいのであればジャムやはちみつのご用意もありますが……」
「だめよそんなの、甘い物を取るにしても加工食品じゃなくてフルーツを食べるわ」
さっさとカロリーを摂って太るという手もあるが、それならレバーや肉を食べてタンパク質と鉄分を摂取してオーバーカロリーを目指したい。
セシリアの身体はとにかく貧弱すぎる。
ただ贅肉だけを増やしても根本的な問題解決にはならないので、しっかりと筋肉量を増やして元気な肉体を作っていくつもりなのだ。
「うん、やっぱり魚は鮭が一番ね」
必要となる動物性タンパク質は主食から摂取するが、その脂の質も重要だ。
肉は基本は皮を剥いだ鶏むね肉、そして魚は鮭と白身魚に固定。
脂身や鶏皮の脂は取りたくないので、しっかりと執拗なほどにコックに言い含めさせてもらった。
ご飯を食べるだけで息が上がってしまうこの状況では、まずはタンパク質で身体を作るのが肝要だ。
食事を終えたら食後のフルーツ。
これは消化酵素の入っているパインが多めだ。
「まあ、こんなものね」
「こんなちょっとで足りるんですか……?」
前世の経験により、セシリアは手で持っただけでグラム数がわかる。
フルーツはバクバク食べると太ってしまうので、まずは一日五十グラムと決めている。
セシリアはナターシャの言葉にこくりと頷きながら、輪切りになったパインを食べていくのであった……。
一日しっかり八時間睡眠を取るようにし、改善した食事を続けていると、身体の調子は以前より明らかによくなってきていた。
おかげでちょっとずつだが、運動も始めることができるようになっている。
「ふぅ……今日はこんなものかしらね」
セシリアは椅子に座りながら、ゆっくりと息を吐き出した。
今は一日に何度か、部屋を出て散歩をするようにしていた。
庭の中を軽く歩くだけでへとへとになってしまう体たらくだが……以前より着実に体力はついてきている。
毎日ちょっとずつ歩ける量が増えており、自分の成長を実感できているのが楽しかった。
(このままいけば、そう遠くないうちに……)
「セシリア様~っ!」
着実に健康への道を歩み始め確かな満足を覚えていたセシリアの下へ、慌てた様子のナターシャがやってくる。
「どうしたのナターシャ。ほら、カチューシャがズレてるわ」
「す、すみません……ってそれどころじゃないんです! 明日、アルフォンス様がお越しになると王宮から通達が来たんです!」
「……そう」
「……あ、あれ? いつものように喜ばれたりはしないんですね?」
先ほどまで達成感を感じていたセシリアの顔から、急激に表情が消え失せていた。
自分の生活改善に躍起になっていたセシリアは、すっかり忘れていたのだ。
ただ健康になるだけでは、未来の破滅を回避することはできないのだということを。
彼女の前に、病弱体質に続く第二の関門……自分に婚約破棄を突きつけてくる婚約者のアルフォンス・フォン・ソシエールが、立ちはだかろうとしていた――。
読んでくださりありがとうございます。
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