第2話 最初の迷宮
王都の門が閉まった。
がこん、と腹に響く音がした。
それだけで、俺と王都の間に線が引かれた気がした。
白い城壁。
槍を持った兵士。
遠くに見える尖塔。
さっきまで俺は、あの中にいた。
いや、正確には、勝手に呼び出されて、勝手に調べられて、勝手に危険物扱いされて、勝手に追い出された。
「……自由に生きろ、ね」
俺は笑った。
笑ったつもりだった。
でも、喉から出たのは、ひどく乾いた息だけだった。
手元には、冷めきったカップラーメン。
右手には割り箸。
服は、部屋で着ていたスウェット。
足は裸足だった。
財布はない。
スマホもない。
水もない。
地図もない。
異世界初期装備、終わりすぎである。
「せめて靴くらい履かせろよ、異世界召喚……」
誰に文句を言っているのか、自分でも分からなかった。
門番の兵士は、こちらを見ようともしない。
近づけば槍を向けられるだけだろう。
戻れない。
それだけは、はっきりしていた。
俺は仕方なく、王都から伸びる道を歩き始めた。
石と土の感触が、裸足の裏に刺さる。
「痛っ……くそ、痛ぇ……」
一歩進むたびに、小石が足裏に食い込む。
土は冷たく、草は湿っている。
日が傾いていた。
昼間ならまだ、どこかの村を探す気力もあったかもしれない。
けれど、空はもう赤く染まり始めている。
風が冷たい。
見渡す限り、草原と低い丘。
遠くには森。
そして、王都とは逆方向に、岩場のような場所が見える。
「……あそこ、行くしかないか」
森はまずい。
異世界の森だ。
絶対に何かいる。
普通の獣だけならまだしも、魔物とか出たら終わる。
いや、この世界に魔物がいるかどうかも知らないけど。
ダンジョンが不穏扱いされる世界なら、まあ、いるだろう。
俺は冷めたカップラーメンをすすりながら歩いた。
まずい。
麺は伸びている。
汁はぬるい。
俺の人生で一番うまくないカップラーメンだった。
でも、これが最後の食料かもしれない。
そう思うと、一滴も残せなかった。
空の容器は捨てずに持った。
水を入れられるかもしれない。
何かをすくえるかもしれない。
割り箸も捨てない。
武器にはならないが、ないよりはマシだ。
「割り箸で魔物と戦う主人公とか、さすがに嫌すぎるな……」
独り言が増える。
たぶん、黙ると本当に怖くなるからだ。
岩場に着くころには、空の赤みはかなり薄れていた。
そこは小さな崖のようになっていて、岩の裂け目がいくつかあった。
その中に、ぽっかりと口を開けた洞窟を見つける。
入口は、人が二人並んで入れるくらい。
中を覗くと、奥行きも横幅も十メートルほどはありそうだった。
天井は高いところで五、六メートル。
岩肌は荒く、奥には夜より濃い影が溜まっている。
小さな穴、というよりは、獣が棲みつくには十分すぎる岩穴だった。
湿った土と、古い獣の匂いがする。
でも、風はしのげそうだった。
「……今日の宿、決定」
最悪の宿だ。
星はゼロ。
風呂なし。
飯なし。
扉なし。
獣が出る可能性あり。
それでも、外で凍えるよりはいい。
俺は洞窟の入口に座り込み、肩で息をした。
寒い。
腹は減った。
喉も渇いた。
足の裏はじんじん痛む。
そして何より、心が追いついていない。
さっきまで俺は、六畳一間の部屋にいた。
作業机。
塗料の瓶。
削りかけの粘土。
床に落ちた樹脂の欠片。
安い電気ケトル。
カップラーメン。
そこから、いきなりこれだ。
王都の大広間。
スキル鑑定。
追放。
裸足で洞窟。
意味が分からない。
「……ダンジョンメーカー」
俺は自分のスキル名を口にした。
あの大広間で、空気が凍った名前。
人類にとって不穏すぎるスキル。
魔物の巣を作る能力。
災厄の根。
そんな扱いをされた。
でも、俺からすれば知ったことじゃない。
危険でも何でもいい。
使えるなら使うしかない。
「ここを……ダンジョンにできるのか?」
洞窟の壁に手を当てる。
冷たい岩の感触。
湿った土。
小さな空間。
作るというより、指定する。
ここを俺の場所にする。
ここをダンジョンにする。
ここを、俺が生き延びるための拠点にする。
そう強く思った瞬間、視界の端に黒い文字が浮かんだ。
【迷宮候補地を確認】
【小規模自然洞窟】
【入口設定:可能】
【領域定義:可能】
【迷宮化しますか?】
「出た……!」
心臓が跳ねた。
俺は震える声で言った。
「する。迷宮化する」
【迷宮領域を設定します】
【登録者:九十九優】
【仮迷宮名:未設定】
【初期領域:小規模洞窟】
【迷宮化を完了しました】
洞窟の空気が変わった。
見た目はほとんど変わらない。
岩も土も、そのままだ。
でも、何かが俺に馴染んだ。
他人の家の玄関先に座っていたのが、急に自分の部屋の床に座ったような感覚。
暗い。
寒い。
獣臭い。
それでも、ここは俺の場所だ。
「……できた」
その時だった。
どさり、と膝の上に何かが落ちた。
「うおっ!?」
慌てて見ると、分厚い黒い本だった。
表紙には、見たことのない金色の文字が刻まれている。
読めない。
読めないはずなのに、その意味だけが頭の中に滑り込んでくる。
魔窟手引。
「……説明書?」
俺は本を開いた。
『第一項。
迷宮とは、現実地形に対して重層定義される領域である。
迷宮造形師は、既存世界を破壊するのではなく、既存世界の位相に干渉し、別層領域を設定するものとする』
俺は本を閉じた。
「……なるほど。わからん」
親切な攻略本ではなかった。
規約書だ。
それも、最初から読む気を削りにくるタイプの規約書。
しかし、今の俺にとっては命綱でもある。
俺はもう一度本を開いた。
その瞬間、洞窟の外から音がした。
ずるり。
土を踏む音。
俺は顔を上げた。
暗くなった外に、黒い影がある。
低い鼻息。
ぶひゅう、という湿った音。
【侵入者を確認】
【種別:棘猪】
【迷宮内への侵入を開始しました】
「……は?」
影が動いた。
洞窟の入口に、獣の顔が突っ込まれる。
猪だった。
ただし、俺の知っている猪ではない。
小熊みたいにでかい。
背中には針のような硬い毛が立ち並び、口元からは短剣みたいな牙が突き出ている。
目は赤く、鼻先には血と泥がこびりついていた。
たぶん、この洞窟の元の住人だ。
俺が勝手に家にしてしまったらしい。
「いやいやいやいや」
棘猪が唸る。
洞窟の中で、その音が低く反響した。
俺は後ずさった。
十メートル四方ほどの洞窟。
広いといえば広い。
だが、入口には棘猪。
奥は岩壁。
裸足の俺が走り回るには、足場も悪すぎる。
逃げ場があるようで、ない。
終わった。
いや、終わるな。
何かないか。
俺は魔窟手引を乱暴にめくった。
「武器、武器は!? 罠でもいい! 何か!」
ページの文字が目に入らない。
手が震えて、紙の端がぐしゃりと折れる。
棘猪が一歩、洞窟の中へ入った。
岩の床を蹄が叩く。
ずしり。
「早くしろ俺!」
ページをめくる。
『防衛用構造物の生成について』
「これだ!」
俺はそこに食いついた。
『迷宮領域内において、造形師は防衛用構造物を生成できる。
例。
落とし穴。
矢罠。
吊り天井。
踏み抜き床。
鉄挟み《トラバサミ》。
鳴子。
杭罠。
毒霧管。
転石路。
火炎獣像』
「火炎獣像!?」
強そうな単語を見つけた。
説明には、虎の形をした石像の図があった。
口から炎を吐き、侵入者を焼くらしい。
「これだ! 火を吹く虎の石像!」
【火炎獣像を生成しますか?】
「する!」
【生成不可】
【必要魔力が不足しています】
「だよなぁ!?」
棘猪が走った。
洞窟の中とは思えない速度だった。
俺は横へ転がる。
牙が、さっきまで俺の頭があった壁に突き刺さった。
岩が砕けた。
「死ぬ死ぬ死ぬ!」
火を吹く虎なんて贅沢品だった。
もっと安いやつ。
今の俺でも出せるやつ。
俺は手引のページを必死に追った。
「トラバサミ……!」
【鉄挟み《トラバサミ》を生成しますか?】
【必要魔力:小】
「生成!」
床に、黒い鉄の輪が現れた。
一つ。
二つ。
三つ。
俺は片っ端から地面にばらまくように生成した。
【魔力残量:低下】
【警告:連続生成により精度が低下します】
「精度とか言ってる場合か!」
棘猪が壁から牙を抜いた。
赤い目が俺を見る。
次の瞬間、また突進してきた。
ずどん。
前脚がトラバサミを踏んだ。
鉄の歯が閉じる。
棘猪が悲鳴を上げた。
止まった。
いや、止まってない。
勢いのまま引きずってくる。
「嘘だろ!?」
もう一つ踏む。
さらにもう一つ。
鉄挟みが脚に噛みつき、血が飛ぶ。
それでも棘猪は止まらない。
俺は奥へ逃げた。
足裏に石が刺さる。
痛みで転びそうになる。
だが、止まれば死ぬ。
洞窟の奥は行き止まりだ。
棘猪が迫る。
俺は壁に背中をぶつけた。
魔窟手引が床に落ちる。
開いたページに、矢罠の図が見えた。
壁から矢が出る罠。
「矢罠! 壁! 出ろ!」
【粗雑な矢罠を生成しますか?】
【必要魔力:小】
「生成! 生成! 生成!」
左右の壁に、木製の小さな穴がいくつも開いた。
棘猪が突っ込んでくる。
「撃て!」
ばしゅ、と音がした。
矢が飛ぶ。
一本目は背中の棘毛に弾かれた。
二本目は肩に浅く刺さる。
三本目は頬をかすめる。
四本目が、赤い目の近くに突き刺さった。
棘猪が大きく暴れた。
洞窟が揺れる。
俺は尻もちをついたまま、さらに叫ぶ。
「もっと撃て!」
【魔力残量:危険域】
「知るか! 撃て!」
矢が連続で飛ぶ。
粗末な矢。
曲がった矢。
威力の足りない矢。
それでも、足を鉄挟みに噛まれた棘猪には避け場がなかった。
矢が首に刺さる。
腹に刺さる。
脚に刺さる。
棘猪は最後に、俺へ向かって跳ねるように突っ込んできた。
俺は割り箸を握りしめた。
何の意味もない。
でも、握らずにはいられなかった。
棘猪の体が、俺の目の前で崩れた。
牙の先が、俺の胸のすぐ手前で止まる。
荒い息。
血の匂い。
濁った赤い目。
それが、ゆっくりと動かなくなった。
【侵入者の死亡を確認】
【迷宮領域内にて生命活動の停止を確認】
【魔力を回収します】
黒い文字が流れる。
俺は、しばらく動けなかった。
「……勝った、のか」
剣で斬ったわけじゃない。
拳で殴ったわけでもない。
俺は罠を作っただけだ。
それでも、目の前の魔物は死んでいた。
【素材を取得可能です】
【棘猪の肉】
【棘猪の牙】
【棘猪の棘毛】
【棘猪の皮】
【取得素材を魔窟倉庫へ収納しますか?】
「……収納?」
俺がそう思った瞬間、棘猪の死体の一部が黒い粒になって消えた。
【棘猪の牙を収納しました】
【棘猪の棘毛を収納しました】
【棘猪の皮を収納しました】
【棘猪の肉を収納しました】
「ストレージまであるのかよ……!」
便利だ。
めちゃくちゃ便利だ。
けれど、今の俺にはその便利さに感動する余裕よりも、血まみれの肉を素手で抱えずに済む安心の方が大きかった。
【棘猪の肉 一部を取り出しますか?】
「……出す。食う分だけ」
黒い粒が集まり、俺の前に肉の塊が落ちた。
血の匂いが濃くなる。
手引をめくる。
食用可否の項目を探す。
ログを見る。
【棘猪の肉:食用可】
【加熱を推奨】
「……火」
火なんて持っていない。
そう思った直後、視界に小さな表示が出た。
【簡易火床を生成しますか?】
【必要魔力:微小】
「……生成」
洞窟の床に、小さな石組みの火床ができた。
火種はなかった。
だが、火床の中心に弱い火が灯る。
便利すぎる。
いや、便利というには、あまりに命がけすぎる。
俺は棘猪の肉を、どうにか切り分けた。
刃物はない。
牙の欠片と割れた矢を使った。
ひどい作業だった。
焼いた肉は、獣臭かった。
塩もない。
タレもない。
焦げているところと、生っぽいところが混ざっている。
それでも、俺は食った。
食わないと死ぬ。
肉を噛んでいるうちに、急に涙が出そうになった。
俺は今日、異世界に召喚された。
追放された。
洞窟を奪った。
魔物を殺した。
その肉を食べている。
朝までの俺なら、全部フィギュアの設定資料か何かだと思っただろう。
でも、今は違う。
口の中に血と脂の味がある。
手には魔物の血がついている。
足裏は痛くて、洞窟の外は暗い。
これが現実だ。
「……帰りたい」
声に出したつもりはなかった。
ただ、心の底でそう思った。
六畳一間。
散らかった作業机。
電気ケトル。
安い布団。
塗料の匂い。
床に転がった工具。
あの部屋に帰りたい。
その瞬間、洞窟の奥の壁が、音もなく歪んだ。
「……え?」
岩肌に、四角い線が浮かび上がる。
土と石が押しのけられるように形を変えていく。
やがてそこに、一枚の扉が現れた。
安っぽい白い塗装。
少し錆びた金属のドアノブ。
郵便受けについた、小さなへこみ。
見間違えるはずがない。
それは、俺のアパートの扉だった。
「……帰れる、のか?」
俺は立ち上がろうとした。
その瞬間、頭の奥を、鉄の棒で殴られたような痛みが走った。
「ぐっ……」
視界が歪む。
洞窟の壁も、火床の明かりも、血のついた床も、全部が水の中みたいに揺れた。
【警告】
【魔力残量:限界値を下回っています】
【造形師の意識維持に支障が発生しています】
「待て……まだ、開けて……」
扉まで、あと数歩。
安っぽい白い塗装。
少し錆びたドアノブ。
郵便受けのへこみ。
間違いなく、俺の部屋の扉だった。
手を伸ばす。
指先が、ドアノブに届く寸前。
急激な眠気が、脳を上から塗り潰した。
考えることも、怖がることも、喜ぶこともできなくなる。
まぶたが落ちる。
体から力が抜ける。
「……ふざ、けんな」
最後にそうつぶやいた気がした。
俺の意識は、そこでぷつりと途切れた。
あとがき
読んでいただきありがとうございます!
第2話でした。
追放されて、裸足で洞窟へ。
ようやく見つけた寝床を迷宮化したら、まさかの元住人帰宅。
スグルの《ダンジョンメーカー》は、本人が強くなるタイプのスキルではありません。
戦う力はない。
けれど、場所を作り、罠を作り、そこに相手を引きずり込めば生き残れる。
今回はその第一歩でした。
そして最後に現れた、アパートの扉。
果たしてこれは帰還の扉なのか。
それとも、また別の何かなのか。
次回もよろしくお願いします!




