第1話 カップラーメンと異世界転生
安いカップラーメンほど、三分が長い。
時計の秒針を見ていると、腹の底が情けない音を立てた。
「……まだかよ」
俺は作業机の隅に置いたカップラーメンを睨みながら、指先についたパテの粉をティッシュで拭った。
名前は九十九優。
二十九歳。彼女なし。貯金なし。将来性も、まあ、だいぶ怪しい。
職業は造形師。
フィギュアの原型を作ったり、イベント用の小道具を作ったり、たまに配信用のマスクや、よく分からない企業案件の立体物を作ったりしている。
胸を張って食えている、とまでは言えない。
けれど、ギリギリ食ってはいけている。
俺にとっては、それだけで十分だった。
好きなものを作って、それで家賃を払って、安いカップラーメンを食って、たまにネットで「この人の造形すごい」と言われる。
それでいいじゃないか。
大手からの仕事は、昔よりだいぶ減った。
理由は分かっている。
こだわりが強い。
修正指示に納得できないと、手が止まる。
納期に間に合わせるより、納得できる形にしたくなる。
結果、待たせる。
相手からすれば、面倒な職人だ。
いや、職人というほど立派なものでもない。
ただの、こだわりの強い貧乏造形師だ。
それでも、一部のネット民は俺を好きでいてくれた。
投稿した作品にコメントがつく。
写真を上げると、少しだけ拡散される。
たまに「この人の作る怪物、質感が生きてる」と言われる。
それが、俺の生き甲斐だった。
「好きなことして食っていけてるんだから、まあ勝ちだろ」
誰に言うでもなく呟いた。
部屋は狭い。
六畳一間。
作業机が場所を取り、棚には塗料と工具と失敗作が詰まっている。
床には削りかけの粘土片が落ちていて、コンビニ袋が丸まっている。
他人から見れば、終わっている部屋かもしれない。
でも俺にとっては、世界で一番落ち着く場所だった。
スマホのタイマーが鳴る。
「はい、勝ち」
俺はカップラーメンの蓋をめくった。
湯気が上がる。
粉末スープの安っぽい香り。
ふやけた麺。
申し訳程度のネギ。
よく分からない肉っぽいもの。
最高ではない。
でも、今日の俺には十分だった。
「いただきます」
割り箸で麺を持ち上げる。
ずず、と一口すする。
熱い。
しょっぱい。
うまい。
その瞬間だった。
部屋が消えた。
「……は?」
俺は、カップラーメンを持ったまま固まった。
目の前にあるはずの作業机がない。
塗料もない。
棚もない。
安物の椅子もない。
床に落ちた粘土片もない。
代わりにあったのは、石造りの床だった。
磨き上げられた白い石。
高い天井。
壁に並ぶ太い柱。
天窓から落ちる光。
赤い絨毯。
そして、見たこともないほど広い大広間。
厳か、という言葉が、そのまま建物になったみたいな場所だった。
俺は、そのど真ん中に立っていた。
右手に割り箸。
左手にカップラーメン。
口の中には、まだ麺が入っている。
「……んぐ」
飲み込んだ。
場違いにもほどがあった。
周囲には、人がいた。
ローブを着た老人。
鎧を着た兵士。
冠のようなものを被った男。
豪奢な服の女。
そして、俺と同じように呆然としている人間たち。
数十人はいる。
高校生くらいの少年少女。
スーツ姿の男。
パジャマ姿の女。
部屋着の若者。
買い物袋を持った主婦らしき人。
全員、俺と同じように突然ここへ連れて来られたのだと、すぐに分かった。
分かりたくなかったが。
「成功、ですな」
ローブの老人が、震える声で言った。
成功?
何が?
俺はカップラーメンを見下ろした。
湯気が、まだ上がっていた。
厳かな大広間の中で、カップラーメンの匂いだけが現代日本みたいに浮いていた。
意味が分からない。
「静粛に」
低い声が響いた。
壇上に立つ男が一歩前に出る。
金糸の刺繍が入った白い服。
背筋の伸びた立ち姿。
隣には宝石を散らしたような衣装の女がいる。
王族。
そんな単語が、馬鹿みたいに自然に浮かんだ。
「異界より来たりし者たちよ。まずは混乱を鎮めよ。貴殿らは、我がアルヴァレイン王国により召喚された」
ざわめきが広がった。
「召喚?」
「何言ってんの?」
「ドッキリ?」
「スマホ、圏外なんだけど」
「帰してよ!」
そりゃそうだ。
俺だって帰りたい。
というか、カップラーメンが伸びる。
いや、そういう問題じゃない。
壇上の男は、ざわめきが収まるのを待たなかった。
「貴殿らには、この世界で生きるための適性と能力がある。能力を持つ者には、相応の地位と保護が与えられる。特に優れた者は、王国により特権階級として迎えられるだろう」
特権階級。
その言葉に、何人かが反応した。
恐怖だけだった顔に、少しだけ欲が混じる。
俺は、逆に冷めていった。
この手の話は知っている。
異世界召喚。
スキル鑑定。
勇者。
チート。
追放。
ネット小説や漫画で、何度も見た。
だからこそ、嫌な予感しかしなかった。
「これより、順に鑑定を行う」
大広間の中央に、透明な水晶のようなものが運ばれてきた。
それに手をかざすと、ローブの老人たちが何かを読み上げるらしい。
最初に呼ばれたのは、制服姿の少年だった。
少年は震えながら水晶に手をかざす。
水晶が青白く光った。
「スキル――《聖剣適性》!」
ローブの老人が叫んだ。
場がどよめく。
壇上の男の目が、明らかに変わった。
「勇者候補だ。アルヴァレイン王国が直接預かる」
少年はぽかんとしていた。
そのまま、豪華な服の女たちに囲まれて、別の場所へ連れていかれる。
次に呼ばれた少女は、《治癒魔法》。
その次の男は、《剣術強化》。
その次の女は、《鑑定》。
次の若者は、《火魔法》。
次の中年男性は、《商才》。
当たりを引いた者は、旅団やギルド、騎士団、商会の者たちが引き取っていった。
まるで競りだ。
人間が、能力の名前で値踏みされていく。
一方で、そうではない者もいた。
「スキルなし。町人適性」
「生活魔法、微弱。町人扱い」
「農作業適性。町人登録」
「裁縫補助。町人登録」
そう言われた者たちには、小さな袋が渡された。
硬貨の音がする。
「当面の路銀だ。城下で仕事を探せ」
「説明は終わりだ。次」
泣いても、怒っても、叫んでも、扱いは変わらなかった。
町人。
そう判断された者たちは、兵士に促され、大広間の外へ連れていかれる。
半分くらいは、そうして消えた。
残り半分は、ギルド、旅団、商会、騎士団、神殿。
何かしらの組織に引き取られていく。
数人は勇者候補として、アルヴァレイン王国が直接預かるらしい。
俺は、最後の方まで残された。
カップラーメンはすっかり伸びていた。
箸で持ち上げると、麺が重い。
最悪だ。
「次」
ローブの老人が俺を見る。
俺はカップラーメンを床に置くべきか迷った。
だが、こんな場所に置いたら怒られそうだったので、そのまま水晶の前に立った。
周囲の視線が痛い。
カップラーメンを持った二十九歳の貧乏造形師が、異世界の鑑定水晶に手をかざす。
客観的に見て、だいぶ終わっている。
「手を」
「……はい」
俺は右手を水晶にかざした。
水晶が光る。
一瞬、黒い線のようなものが走った。
ローブの老人が眉をひそめる。
「これは……」
老人たちが顔を見合わせた。
嫌な沈黙だった。
周囲のざわめきも止まる。
俺は喉を鳴らした。
「えっと、俺は……町人とかですかね?」
それならそれでいい。
路銀をもらって、とりあえず街へ行く。
何か作る仕事なら、異世界でも探せるかもしれない。
木工でも粘土でも、手は動く。
そう思っていた。
だが、老人は答えなかった。
壇上の男が、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。
「読み上げよ」
老人は、ひどく言いづらそうに口を開いた。
「スキル名――《ダンジョンメーカー》」
大広間が、凍った。
さっきまでの勇者候補への歓声とは違う。
驚き。
困惑。
嫌悪。
警戒。
その全部が、空気を冷たくした。
「ダンジョン……?」
「魔物の巣を作るってこと?」
「やばくない?」
「人間側の能力なのか?」
俺は、ぽつんと立っていた。
カップラーメンの容器が、指の中で少しへこんだ。
「ダンジョンメーカーって……何ですか?」
俺が聞くと、ローブの老人は目を逸らした。
代わりに、壇上の男が答えた。
「不穏な名だ」
「いや、名前だけで判断されても困るんですけど」
「ダンジョンとは、魔物が巣食い、人を殺す場所だ。人類を脅かす災厄の根だ。そのようなものを作る能力を、我が国の内部に置くことはできん」
「待ってください。俺、まだ何もしてないですよ」
「分かっている」
男は淡々と言った。
「ゆえに、殺しはしない」
殺し。
その単語が、いきなり現実味を帯びた。
胃の奥が冷える。
「だが保護もできん。旅団にも、ギルドにも、神殿にも預けられん。貴殿は自由だ。好きに生きるがいい」
「……は?」
自由。
好きに生きる。
さっきまでなら、少し良い言葉に聞こえたかもしれない。
でも、この場では違った。
それはつまり、誰も責任を持たないという意味だった。
「あの、路銀は?」
俺は、町人扱いされた人たちが受け取っていた小袋を思い出した。
男は表情を変えなかった。
「支給はない」
「なんで」
「城下に入れられぬ者へ、城下で使う金を渡す理由がない」
「いやいやいや、ちょっと待ってください。俺、さっきまで普通に部屋でカップラーメン食ってたんですよ? 勝手に呼んで、勝手に鑑定して、勝手に危険扱いして、金もなしで放り出すってことですか?」
声が荒くなる。
兵士が一歩前に出た。
槍の穂先が、わずかにこちらを向く。
俺は息を止めた。
ここは日本じゃない。
怒鳴ったところで、警察も来ない。
権利も法律も、俺の味方をしてくれない。
壇上の男は言った。
「不憫だとは思う」
「……」
「だが、人類の内側に置くには危険すぎる」
その目には、同情があった。
ほんの少し。
でも、同情があるからこそ分かった。
こいつらは、本気で俺を外へ出すつもりだ。
悪意で追い出すのではない。
恐怖で追い出すのでもない。
仕方ない、と判断している。
その方が、よほど逃げ場がなかった。
「街の外まで送らせる。以後、アルヴァレイン王都への立ち入りを禁ずる」
「待ってくれ。俺、何も知らないんだぞ。魔物とかいるんだろ? 食い物もない。金もない。武器もない。そんなの、死ねって言ってるのと同じだろ」
男は、少しだけ目を伏せた。
「そうならぬことを祈る」
祈るな。
助けろ。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
兵士が左右から近づいてくる。
俺は抵抗できなかった。
左手には、まだカップラーメンがある。
伸びきった麺。
冷めたスープ。
食べかけの昼飯。
それが、俺がこの世界に持ち込めた唯一のものだった。
「歩け」
兵士に促される。
俺は大広間を振り返った。
勇者候補たちは、豪華な扉の向こうへ消えていた。
能力を認められた者たちは、それぞれの組織に引き取られていた。
町人扱いの者ですら、路銀を持って城下へ向かった。
俺だけが違った。
俺は、ハズレですらなかった。
危険物だった。
大広間の扉が開く。
眩しい光が差し込む。
その向こうには、見知らぬ異世界の空が広がっていた。
俺は冷めたカップラーメンを握ったまま、兵士に連れられて歩き出す。
好きに生きろ。
そう言われた。
でもそれは、自由なんかじゃない。
名前だけで不穏だと決めつけられ、金もなく、街にも入れず、外に放り出される。
これはただの追放だ。
いや。
もっと正確に言うなら。
実質、死刑宣告だった。
カップラーメンを食べていたはずの貧乏造形師・九十九優は、突然アルヴァレイン王国に召喚される。
異世界から呼ばれた者たちは次々とスキルを鑑定され、勇者候補や特権階級として迎えられていく。
だが、スグルに与えられたスキルは《ダンジョンメーカー》。
人類にとって不穏すぎるその能力を理由に、スグルは路銀も保護も与えられず、王都の外へ追放されてしまう。
食料も金も武器もない。
あるのは、分厚くて不親切なルールブック《魔窟手引》だけ。
最初に作れたのは、数メートル四方の粗末な穴。
それでもスグルは、ログを読み、手引を読み、失敗しながら少しずつ理解していく。
ダンジョンは穴ではない。
世界に重ねて作る、もう一つの領域だ。
廃坑を拠点に、罠を作り、水を引き、植物を育て、魔物を登録し、死なない迷宮を広げていく。
ただ生き延びるために作り始めた小さな穴は、やがて人間にも魔物にも居場所のない者たちが集まる魔王領へ変わっていく。
これは、ハズレ扱いされた造形師が、分厚いルールブック片手に廃坑から魔王になるまでの物語。




