第二話 それでもパンの味は変わらない
画面の向こう側の出来事に一喜一憂し、実体のない言葉を投げ合って時間を潰す。
この街の人間にとって、昨夜の出来事は最高の娯楽だったらしい。
翌朝、下層の薄暗い配給所に、いつもとは違う異様な熱気が満ちていた。
「おい、見たかよ昨日の配信。スラムのクリーナーが、Aランクの魔獣をナイフ一本でバラバラにしちまったんだ」
「ああ、動画が何度も転載されてる。上層の連中は仕込みの演出だって騒いでるが、あの身のこなしは本物だろ」
並ぶ男たちの誰もがスマホの画面を凝視し、興奮を隠しきれない様子で声を荒らげている。
私は彼らの視線を背中に浴びながら、受け取ったばかりの配給されたパンを一口、静かにかじった。
水分を失い、石のように固くなった麦の塊。
「キョウ、驚きました。ネットの海が完全に大荒れです!
あなたの戦闘動画がトレンドの上位を独占していますよ。今アカウントを開設して『あの時のゴミ拾いです』って名乗れば、一晩でこの配給所を買い取れるくらいの手銭が投げ込まれるでしょうに」
作業着の胸ポケットから、ニナのホログラムが顔を出して、顔を覗き込んできた。
その小さな瞳には、無数の文字情報が目まぐるしく反映されている。
「腹が膨れればそれでいい」
俺は冷めた声で短く答える。
「他人が何を騒ごうが、俺の今日の手取りが増えるわけじゃない。
それとも、あの画面の中の人間たちが、俺の代わりに今日のノルマをこなしてくれるのか?」
「相変わらず、夢もへったくれもない現実主義者ですね。本当につまらない人間ですね…
まあ、そういう徹底して冷え切ったところが、あなたの唯一の取り柄ですが」
ニナは呆れたように小さく肩をすくめると、再び端末の奥へと姿を消した。
私は残りのパンを咀嚼し、静かに飲み込む。
世界がどれほど騒がしくなろうとも、私のやるべきことは変わらない。
ただ、今日を生き延びるために、地下の暗闇へ潜るだけだ。
*
地上遥か、白亜の街並みが広がる『上層』の一角。
対ダンジョン管理局の作戦室では、巨大なホログラムスクリーンに、昨夜のキョウの映像がミリ秒単位でスロー再生されていた。
「……信じられん。魔力の励起が一切確認できない」
「サイバーウェアの駆動音もなし。人工筋肉による補助の形跡も皆無です。
これは、完全に鍛え上げられた生身の肉体と技術によるものです」
白衣を着た技術者たちが、データシートを前に青い顔をして頭を抱えている。
上層の権威は、圧倒的なテクノロジーと魔導技術の独占によって成り立っている。
それを、下層の薄汚れたクリーナーが、錆びついたナイフ一本で覆したのだ。
この事実が広まれば、上層による統治の根幹が揺らぎかねない。
「この男の身元を早急に割り出せ。
飼い慣らせるなら我が局の秘密兵器として囲い込み、もし従わないのであれば――」
上席に座る男が、冷酷な目で画面の中のキョウを指し示した。
「下層のゴミとして、静かに処分しろ」
同じ頃、その管理局の廊下で、昨夜キョウに命を救われたはずの探索者チームのリーダーが、焦燥しきった表情で爪を噛んでいた。
仲間を盾にして逃げる醜態が全世界に配信されたのだ。
彼の探索者としてのキャリアは完全に終わった。いや、それどころか上層での地位すら失いかけている。
「……クソが。あのスラムの羽虫め、余計な真似を」
男は憎々しげに吐き捨てると、プライベートの通信端末を取り出し、ある暗黒街の番号へと発信した。
「おい、下層の犬を動かせ。
昨夜のクリーナーを力ずくで連れてこい。
金を握らせて、あれは我がチームが企画した『やらせの演出』だったと認めさせる。
拒むようなら、二度と歩けない体にしてから連れてこい」
*
夕刻。スラムの片隅にある、放置されたジャンク屋の跡地。
そこが臨時の住処であり、作業場だった。
壊れた魔導アーマーのネジを一本ずつ外し、錆を落とす。
手先を動かしている時間は割と好きだ。
「マスター、のんびりジャンクをいじっている時間はなさそうです」
ふいに、ニナの声が私の耳元で響いた。
いつもと違う、張り詰めた、明確な警戒を促すトーン。
「この建物の周囲に、複数の影が近づいています。
足取りが荒く、呼吸も統制されていません。上層の軍人ではなく、下層を這い回るヤクザ者たちですね。
鉄パイプや、型落ちの拳銃を持っています。その数、合計で十二」
手に持っていたレンチを静かに作業台に置いた。
少しずつ、だが確実に、建物の周囲の泥水を踏みしめる複数の足音が近づいてくる。
上層の都合による理不尽な包囲網が、すでに私の目の前まで迫っていた。
「……静かに暮らしたいだけなんだがな」
小さく呟き、壊れかけたブーツの紐をゆっくりと締め直した。
彼らには彼らの事情があるのだろう。
だが、俺の平穏を脅かすというのなら、容赦をする理由はどこにもない。
「邪魔をするなら、それ相応の覚悟はしてもらう」
薄暗い作業場の扉が、外から乱暴に蹴り破られる。
逆光の中に浮かび上がる、武器を構えた男たちのシルエット。
私は腰のホルダーから、いつもの錆びついたナイフを静かに引き抜いた。




