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第一話 100年前の人類



 人間は、生まれながらにして不平等だ。



 どれほど美辞麗句を並べ立てようとも、この揺るぎない真実だけは変わらない。


 持てる者は最初から全てを手に入れ、持たざる者は死んでいく。

 かつて生きていた時代もそうだったし、それから百年の時が流れたとされるこの世界でも、その構造は微塵も変わっていなかった。


 変わったことといえば、格差を象徴する境界線が、より物理的で、より強固なものになったということくらいだろう。



 頭上遥か、幾重もの鉄骨と結晶化ガラスの向こう側に広がる世界を、この街では『上層』と呼ぶ。


 そこは選ばれたエリートたちが、最先端の魔導技術とサイバーウェアに身を包み、何不自由なく暮らす白亜の楽園だ。

 彼らは夜を徹して行われる華やかな『ダンジョン配信』に熱狂し、画面の向こう側の英雄たちに惜しみない富と称賛(しょうさん)を投げかける。



 一方で、私が今、足元を濡らす濁水を見つめているこの場所は下層だ。


 上層から吐き出された排熱と廃液、そして薄汚れたジャンク品が堆積(たいせき)するゴミ溜め。

 ここでは誰もが明日の生存を担保されておらず、ただ現実を忘れるための安価な娯楽に齧りついている。



「ねえ、キョウ。さっきから黙り込んでどうしたんですか? また過去の格好いい自分でも思い出そうとしてるんですか? 無駄ですからやめておきなさい。あなたの脳細胞は、すでに私の演算処理能力の百分の一以下まで退化しているんですから」



 耳元で、ひどく生意気で、それでいて鈴を転がすような少女の声が響いた。


 視線を落とすと、俺の作業着の胸ポケットに収まった型落ちの携帯端末から、淡い光を放つ手のひらサイズのホログラムが浮かび上がっていた。


 ニナ。

 そう名付けられた自称・最高型自律AIは、不機嫌そうに小さな両腕を組んで私を見上げている。



「ただの事実確認だ。ここに来てから三年が経つが、いまだにこの街の空気には馴染めない」


「それは単に、あなたが時代遅れの頑固者だからですよ。百年のコールドスリープなんて大層な棺桶から叩き起こされた割には、毎日やってることが死体拾いだなんて、お母さん悲しいです」


「親を名乗るには、随分な口調だな。それに、これが一番確実に日銭を稼げるんだよ」



 手に持った錆びついたロングトングを軽く振り、足元に転がっていた魔導装甲の残骸を器用に拾い上げ、背負った大型の回収袋へと放り込んだ。



 現在の職業は、クリーナー。


 平たく言えば、未登録の危険区域、つまり違法ダンジョンに無断で侵入し、上層の探索者たちが派手に狩り残していった魔物の素材や、無様に命を落とした彼らの装備品を回収する、下層の最底辺が営むジャンク屋だ。



「まあ、文句を言いながらも付き合ってやる私は天使ですがね。さあキョウ、次のエリアへ行きましょう。ニナちゃんセンサーによれば、この先で上層のお坊ちゃんたちが豪快に散らかしていった気配がしますよ」



 ニナがホログラムの指で暗闇の奥を指し示す。


 私は何も言わず、ただ手垢で汚れたナイフの柄を軽く確かめると、音もなく泥水を踏み越えて歩き出した。



 ――その時だった。



 静寂が支配していた地下通路の奥から、激しい破砕音と、それに続く複数の悲鳴が鼓膜を震わせた。


 同時に、上空を浮遊するいくつかの高性能撮影ドローンが、まばゆい照明を撒き散らしながら頭上を通り過ぎていく。



「おや、噂をすれば。どうやら上層の配信者様たちが、身の程知らずな、お遊びの最中のようです」



 ニナの言葉と同時に、私の端末に強制的な共有画面がポップアップした。


 画面の向こう側では、きらびやかな魔導アーマーに身を包んだ数人の男女が、血相を変えて逃げ惑う姿がリアルタイムで生配信されていた。

 視聴者たちの無責任なコメントが、画面の端で目まぐるしく流れていく。



『うわ、ガチの変異種じゃん』

『Aランクボスがなんでこんなスラムの浅層にいるんだよ!』

『おい、聖騎士チーム、早く盾を構えろよ!』



 配信の中心に映っていたのは、一本の巨大な角を持つ、漆黒の魔獣だった。


 体長は優に四メートルを超える。

 岩石のような皮膚からは、濃密な魔力が立ち上り、周囲の空間を陽炎のように歪ませている。



「……あれは『鋼角獣』の変異体ですね」


 ニナの声から、いつものふざけたトーンが消えた。


「現代の魔導複合装甲を一撃で消し飛ばす質量兵器です。あの子たちでは、逆立ちしても勝てませんよ」



 画面の中では、チームのリーダーらしき男が、仲間を突き飛ばして我先にと退路へ走り去るところだった。

 取り残されたのは、足を負傷し、地面に這いつくばる一人の少女。


 上層の有名配信者なのだろう。

 仕立ての良い白い魔導衣は泥に汚れ、その顔は恐怖で完全に引き攣っていた。



「助けますか、キョウ?」


「理由がないし、関わりたくもない」



 上層の人間がどれだけ死のうが、俺には関係のないことだ。

 自業自得という言葉は、こういう時のためにある。



 だが、きびすを返そうとした瞬間、魔獣の巨大な足が、先ほど目を付けていた未回収の特級素材の山を容赦なく踏み潰した。


 バキバキと、乾いた音が暗闇に響く。



「……」


「あーあ、踏んじゃいましたね。キョウの明日の食費、およそ三日分がパーです。ドンマイ♪」



 小さく、本当に小さく溜息を吐いた。


 底辺の生活において、三日分の食費が持つ意味は重い。



 背中の回収袋を、静かに地面へ下ろす。



「ニナ。ドローンの視覚を遮断しろ。十秒だ」


「了解。私の処理速度を舐めないでください。――はい、三秒でジャミング完了」



 頭上のドローンが一斉に火花を散らし、そのレンズが不規則に回転を始める。

 生配信の画面が、一瞬で完全な砂嵐へと変わった。



 その瞬間、身体からすべての雑念が消えた。



 息を吸う。

 心拍数を意図的に限界まで下げ、筋肉の緊張を極限までほぐす。


 百年前、戦場という名の地獄で叩き込まれた、生き残るための唯一の技術であり、人間が本来持つ本能的な動き。

 

 現代の探索者のように、大声を上げて魔力を練り上げる必要などない。そんなものは、今から殺しに行きますと宣伝しているようなものだ。



 ただ、一歩。確実に更に、一歩。



 泥水を捉えた私の右足は、波紋一つ立てずに地面を蹴った。



「――え?」



 地面に伏していた少女の視界には、おそらく何も映っていなかったはずだ。


 彼女の目の前で、音もなく空間を切り裂く。



 魔獣が少女に向かって巨大な前足を振り下ろす、そのわずか数ミリの隙間。

 その巨体の懐へと、滑り込むように間合いに入る。


 手にあるのは、ジャンク屋で研ぎ直しただけの、何の魔力も付与されていない一本のサビ付きかけのナイフ。



 それで十分だった。



 どれほど強固な皮膚を持とうとも、生物である以上、骨格の継ぎ目、神経の合流点、そして魔力を循環させる、節は必ず存在する。


 私の刃は、魔獣の右前足の膝関節、その靭帯(じんたい)のわずか一筋の隙間を違わず捉えた。



 キィン、と硬質な音が響く。



 刃先を突き立てたまま、自身の体重と前進する慣性エネルギーのすべてを、ナイフの一点へと集中させる。

 テコの原理を利用し、骨の隙間で刃を横に一文字に滑らせた。



 ズサァッ!



 肉を断つ音ではない。

 硬質な組織が、内側から完璧に切断される音。


 魔獣は悲鳴を上げることすらできなかった。

 その直後のコンマ数秒の間に、すでにその巨体を駆け上がり、首筋の太い動脈と、魔力の中枢である延髄(えんずい)を正確に踏み抜いていたからだ。



 刃が、魔獣の(うなじ)から深く突き刺さる。



 力は必要はない。

 魔獣が自ら暴れようとするその運動エネルギーをそのまま利用し、刃を固定して身を翻す。



 ドサリ、という重苦しい音が、地下通路に響き渡った。



 わずか四秒。



 現代の最新兵器を嘲笑うかのように君臨していたAランクの変異種は、一度の反撃の機会すら与えられないまま、ただの物言わぬ肉塊へと変わり果てていた。


 一滴の返り血も浴びていない。

 呼吸は、走り出す前と変わらず静かなままだった。



「ふむ、相変わらず無駄のない、グロテスクなほど綺麗な解体ショーですね。お見事です、マスター」



 ポケットの中で、ニナが退屈そうに拍手を送ってくる。


 私は魔獣の頭部からナイフを引き抜くと、作業着の裾で無造作に血を拭い、本来の目的であった魔獣の角を躊躇(ちゅうちょ)なくへし折って手の中に収めた。

 これなら、潰された素材の補填にはお釣りが来る。



「ひ、あ……、あ、なた……は……?」



 背後から、震える声が聞こえた。


 忘れていた。まだそこに、上層の生き残りがいた。



 ジャミングが解け、頭上のドローンがゆっくりとこちらの焦点を合わせ始める。

 レンズの絞り羽根が、カチカチと音を立てて動く。再び、全世界への配信が再開される兆候だ。



 振り返り、ただ一瞬だけ、その少女を見下ろした。


 彼女の目には、私がどのように映っているのだろうか。

 薄汚れた服を着た、不気味なただの子供だろうか。



「ただのゴミ拾いだ。邪魔だからどいてくれ」



 抑揚のない声を残し、俺は再び背負い袋を担ぐと、暗闇の奥へと歩き出した。



 背後で、復旧したドローンのライトが背中を照らし出す。


 同時に、端末の中で、一時停止していたコメント欄が、かつてないほどの異常な速度で跳ね上がり、画面を埋め尽くしていくのが見えた。



『おい、今のは何だ!?』

『生身!? 魔法もなしでAランクを一撃!?』

『あの子供!?…なんなんだよ、あの冷たい目は……!』



 騒がしいな、と心の中で呟く。


 世界が俺という異物に気づき始めたことなど、今のどうでもいいことだった。

 明日の配給のパンをどうするか、それだけが私の世界のすべてなのだから。


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