プロローグ
はじめまして。遠吠負ヶ犬です。「まけいぬ」ではなく「まがいぬ」と読みます。
一年ほど前に書いた長編作品になります。よろしくお願いします。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
雨音が響く冷たい廊下。
サイレンが不安を煽り、足音はいくつも交錯する。
「お前たちはそっちから周れ!」
「何があっても絶対に逃がすな!」
反響してくる怒号が、少女の小さな鼓膜を震わせた。
自分の吐息や震えが、追ってくる足音に気づかれるのではないか。
うずくまった少女は、その恐れの渦に一人取り残されていた。
「ふゥむ、なんだか騒がしいね」
場違いなほどのんきな声。少女の鼻腔がタバコの独特な匂いを捉える。
タバコをくわえた男が、扉を開けて現れた。
不自然なほど、どこまでも白い男。羽織っている白衣、下に着ているシワだらけのシャツ、そこから覗く手足、果ては毛髪さえも。
全てを呑み込んでしまうような、病的なまでの白。
「しょ、所長!」
「っ!!」
所長と呼ばれた男の存在が、少女の鼓動をさらに速める。
漏れそうになる震えの混じった息を、少女はそのか細い手で押さえこんだ。
「申し訳ありません! 異能の実験中に被験体に逃げられてしまい……」
「話は聞いているよ。異能の一時的な覚醒によって実験室を滅茶苦茶にされたらしいじゃないか。まったく……素晴らしいとしか言いようがないな! 私も実験室を見てきたがあの破壊力! そしてそれでもまだ自我を保っている精神力! あるいは異能の特殊性か? どちらにせよいいデータが取れそうだ……」
「所長、今は……」
「おっと、そんな場合ではなかったな」
男は白衣のポケットから何かを取り出す。
それは薄い直方体、スマートフォンのような物体だった。
「それはなんでしょうか?」
「ん? 気になるのかい? これはつい先ほど完成させた試作品――っとすまない。手短にだったね」
男は手の上の液晶に指を走らせていく。
「要するに、これは受信機だよ」
「受信機、ですか?」
「被験体の異能。そこから出る……まぁ、特殊な周波数のようなものをキャッチする専用の受信機さ。あまり遠くに行かれると困るのだが」
男が取り出したものに夢中になっている間、少女は何度も逃げようとした。
しかし、腰が抜けて立ち上がることすらできない。
聞きたくもない声と電子音。
サイレンと雨の音が遠ざかる。
「ふゥむ……これはこれは」
代わりに呼吸の音、心臓の動く音が少女を支配していく。
少女の予感は加速していき、ついには終点へとたどり着いた。
「随分近くに隠れているじゃないか。ヤナギ」
その言葉が、名前が、少女の耳に届いたのと同時に、彼女は弾かれるように駆けだした。
今、自分の存在を捉えたのは死、あるいは死よりも恐ろしい何か。
彼女はそれを、本能で察知したのだ。
「いたぞ! あそこだ!」
持てる力の全てで、彼女は走る。
冷たい床を足で押し、床もまた彼女の足を押し返す。
少女は自分でも気づかないうちに叫んでいた。
「ああっ!?」
足はもつれ、冷たい床に身体をぶつける。
(だれか……だれかたすけて……)
どれだけ願っても、少女の口からは言葉にならない叫び声しか生まれない。
頭を抱え、身体を丸め、すぐそこに迫る恐怖をただ待つだけ。
怖いはずなのに、立ち上がることの方が何倍も怖い。その恐怖が少女を地面へと縛りつけた。
「やぁ、ヤナギ。こんにちは」
顔を上げたら、あの白がいる。
(こわい……なにも聞きたくない……なにも見たくない……)
「あぁ、かわいそうに! こんなに震えて……もう大丈夫。さぁ、ボクと共に帰ろう」
男がひざまずき、少女に手を差し伸べる。
少女は喉が裂けるほど叫ぶ。
そのとき、少女の叫びに共鳴するように、暗い廊下が振動し始めた。
「ふゥむ……これは……」
「所長! そいつから離れ――」
言葉も恐怖も遮るように、少女を囲う廊下の壁が、落雷のような音を立てて崩れ落ちた。
吹き飛ばされた瓦礫が、追ってきた者たちを襲う。
「すばらしい……なんと素晴らしい!! 未覚醒でもこれほどの力を持っているとは! 流石はひか――」
壁が崩れる音。逃げ惑う声。笑い声。その全てが遠のいていく。
「……あ」
やがて、少女の耳には雨と風の音だけが残った。
顔を上げた先には、自分を囲う壁も、追ってくる人間たちもいない。
生暖かい風が頬をなでた。
一歩、外に踏み出す。
雨でぬかるんだ地面が、小さな足を包み込む。
「にげなきゃ……にげなきゃ……」
枯れた声で何度も言い聞かせ、少女は泣きだした空の下へと躍り出た。
読了、ありがとうございました。
またよろしくお願いします。




