第7話 元婚約者からの脅迫状
その日の朝、工房の空気は凍りついていた。
原因は、店の前に停まった一台の馬車だ。
黒塗りの車体に、金色の装飾。
見覚えがある。
あれは王家の紋章だ。
辺境の泥道を走ってきたせいか車輪は汚れているが、そこから降りてきた男は、場違いなほど身奇麗な官僚だった。
「ここが『魔針鍛冶屋』か? なんとも薄汚い小屋だな」
男はハンカチで鼻を押さえながら、工房に入ってきた。
私は作業の手を止め、カウンター越しに男を見る。
心臓が嫌な音を立てていた。
「……いらっしゃいませ。ご注文でしょうか?」
努めて低い声で、愛想なく応じる。
煤とマスクで顔は隠れているはずだ。
だが、背筋を冷たい汗が伝う。
「ふん。注文などではない。慶事だ、平民」
男は懐から一通の封筒を取り出し、カウンターに叩きつけた。
最高級の羊皮紙。
封蝋には、第二王子の印章。
「王都より、アレクセイ殿下の命を預かってきた。この店の主を、王宮専属の鍛冶師として召し抱える。光栄に思え」
「……は?」
「準備の時間を与えてやる。明日の朝、この馬車に乗れ。道具など持っていかなくていい、王都に全てある」
男は一方的に告げた。
拒否権など最初からない、という態度だ。
私は震える手で封筒を開けた。
中身を読む。
流れるような美しい筆記体だが、書かれている内容は醜悪だった。
『辺境の鍛冶師よ。其の方の技術を、王家のために振るう機会を与えてやる。直ちに王都へ参じ、我が軍のために剣を打て。報酬は名誉で支払う』
名誉で支払う。
つまり、タダ働きだ。
相変わらずだ。
彼は、人の技術や労力を「湧いて出てくるもの」としか思っていない。
「……お断りします」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「あん?」
官僚が眉をひそめる。
「聞き間違いか? これは『命令』だぞ。たかが平民風情が、王族の意向に逆らえると思っているのか?」
「私は、ここの暮らしが……」
「黙れ!」
官僚がカウンターを拳で叩いた。
「貴様の都合など聞いていない! 王都では剣が足りず、殿下がお困りなのだ! 貴様のような下賤な職人は、黙って国のために尽くせばいいんだ!」
怒鳴り声が工房に響く。
怖い。
官僚が怖いのではない。
この「理屈の通じない権力」が、私を再びあの窒息しそうな鳥籠へ引き戻そうとしていることが、どうしようもなく怖いのだ。
(また、搾取されるの?)
(また、誰かの言いなりになって、使い潰されるの?)
呼吸が浅くなる。
コルセットは着けていないのに、胸が苦しい。
指先が冷たくなる。
「……おい」
その時だった。
地獄の底から響くような、低い声がした。
「ひっ!?」
官僚が悲鳴を上げて飛び退く。
工房の奥、影の中から現れたのは、巨大な黒い人影。
ギルバート様だ。
彼はいつものように遊びに来ていて、奥で昼寝をしていたはずだ。
だが今の彼は、眠気など微塵も感じさせない。
その金色の瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められ、全身から放たれる殺気が空気を歪ませていた。
「だ、誰だ貴様は! 私は王家の使者だぞ!」
「知らん」
ギルバート様は短く吐き捨て、私の手から手紙をひったくった。
一瞥。
そして。
クシャッ。
彼の手の中で、最高級羊皮紙がゴミ屑のように握りつぶされた。
「あ、あぁぁぁ! 何をする! 殿下の親書だぞ!」
「内容がくだらなすぎたのでな。紙屑かと思った」
ギルバート様は官僚を見下ろした。
身長差三十センチ。
質量差は三倍以上。
官僚の顔色が青を通り越して白くなる。
「い、いいい田舎者が! 不敬罪だぞ! 名を名乗れ!」
「ギルバート・フォン・ガルド。この地を治める辺境伯の代理にして、黒竜騎士団団長だ」
「へ……?」
官僚の目が点になった。
ガルド辺境伯家。
武門の頂点であり、国境防衛を一手に担う大貴族。
その権威は、時に王家すら凌駕する。
「そ、そんな方が、なぜこんな薄汚い店に……」
「言葉を慎め。ここは我が騎士団の兵站を支える最重要施設だ」
ギルバート様が一歩踏み出す。
官僚が二歩下がる。
「この鍛冶師は、既に我らと専属契約を結んでいる。王家といえど、辺境軍の重要物資を勝手に徴用することは許されん。……軍法会議にかけるか?」
「ひっ……!」
「帰れ。そして殿下に伝えろ。『欲しければ、正当な対価と礼節を持って出直してこい』とな」
「お、覚えてろよぉぉ!」
官僚は捨て台詞を吐き、転がるように店から逃げ出した。
すぐに馬車の走る音が遠ざかっていく。
静寂が戻る。
私は、その場にへたり込んだ。
足の力が抜けていた。
「……セシリア」
ギルバート様が、私の前にしゃがみ込む。
その顔からは、先ほどの鬼のような殺気は消え、痛ましいものを見るような優しさが浮かんでいた。
「すまない。怖い思いをさせた」
「……いえ。助かりました」
私は膝の上で拳を握りしめた。
「でも、相手は王子です。諦めないかもしれません。……私の正体がバレたら、今度こそ無理やり連れて行かれるかも」
今は「腕のいい職人」として見られているだけだ。
だが、もし私が「元婚約者のセシリア」だとバレたら?
『死罪を免じてやったのに、隠れて生きていたとは』と難癖をつけられ、地下牢で一生剣を打たされるかもしれない。
震えが止まらない。
自由になったつもりだった。
強くなったつもりだった。
でも、私はまだ、あの男の影に怯えている。
「セシリア」
大きな手が、私の握りしめた拳を包み込んだ。
温かい。
分厚くて、硬くて、温かい手。
「俺に、案がある」
「案……?」
顔を上げる。
彼は真剣な眼差しで、私を真っ直ぐに見つめていた。
「王家が手出しできない身分になればいい」
「そんなこと、無理です。私は平民で……」
「俺と婚約しろ」
「…………はい?」
思考が停止した。
今、この人は何を言った?
「こ、婚約……?」
「ああ。ガルド辺境伯家の『弟』の婚約者となれば、準貴族扱いだ。しかも、俺は騎士団長だ。軍属の家族を、王家の個人的な都合で徴用することは法的に不可能になる」
「そ、それはそうかもしれませんけど……!」
理屈はわかる。
わかるけれど、あまりにも飛び道具すぎる。
「あくまで形式上の話だ。君を守るための『盾』が必要だろう?」
彼は少し視線を逸らし、咳払いをした。
「それに、俺も……その、親から見合いを勧められて困っているんだ。君が婚約者のフリをしてくれれば、俺も助かる。……利害の一致だ」
利害の一致。
その言葉に、私は少しだけ冷静さを取り戻した。
なるほど。
彼にとってもメリットがあるわけだ。
それなら、申し訳なさを感じる必要はない。
……ないはずなのに。
なぜだろう。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
そして、それ以上にドクドクと早鐘を打っていた。
(フリ、か……)
そうよね。
こんな炭まみれの女が、本物の婚約者になれるわけがない。
でも。
「……本当に、いいんですか? 私みたいな、わけありの女で」
「君がいい」
食い気味だった。
「君じゃなきゃダメだ。俺の背中を任せられるのは、俺の剣を作れるのは、世界で君だけだ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の胸に深く突き刺さった。
「……わかりました」
私は彼の手を握り返した。
「その契約、お受けします。……ただし、絶対に守ってくださいね?」
「誓う。我が剣と名誉にかけて、君を傷つける全ての理不尽から守り抜く」
彼は私の手を引き寄せ、甲に口づけを落とした。
騎士の誓い。
その唇の熱さに、私は顔が沸騰するのを止められなかった。
「……あの、フリなんですよね?」
「ああ、そうだ。……今のところはな」
最後の一言は、小さすぎてよく聞こえなかった。
でも、彼の耳が真っ赤になっているのを見て、私は気づいてしまったかもしれない。
この「最強の盾」は、物理攻撃だけでなく、私の心臓への攻撃力も高すぎるということに。




