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陳皮ゆりね酒の仕込みが済んでからはうとうとしてしまった。やはり椅子では熟睡できない。
「麗華」
けれども微かに名前を呼ばれている気がして目を覚ました。
「ん? 青鈴?」
扉を開けると青鈴が立っている。
「ね、月餅をもらったの。一緒に食べよ」
「えっ、どうしたの?」
「香妃にいただいたの」
妃は貴妃のひとつ下の位だったはず。
彼女を房に招き入れ、薏苡仁を入れた烏龍茶を淹れた。
このお茶はむくみの解消に役立つので、水毒だった劉伶さまにもよく飲んでもらったっけ。
「香妃と親しいの?」
「香妃に仕えている女官の料理があまりおいしくないらしくてね、時々私が作って差し入れているの。その代わり、宦官が手に入れてきたこういうお菓子をいただいたりするのよ」
そういうこともあるのか。
後宮から出られない私たちは、好きな菓子を手に入れることも難しい。といっても、貧しい村では菓子なんて一年に一度食べられたらいいほうだったけれど。
「うわ、おいしい。これは蓮の実餡かしら」
「そうみたいね。蓮の実にも薬膳効果があるの?」
青鈴が興味津々で尋ねる。
「蓮の実は胃腸を整えるわ。お腹を下しているときにいいかも。それに不眠にもいいはず」
劉伶さまにも食べさせてあげたい。
「本当に詳しいのね。麗華が薬膳に詳しいこと、後宮で話題になってるよ。肌が美しくなる食べ物ないかしらって香妃が言ってた」
劉伶さまの気を引くために、肌の手入れや服装に気を使う妃賓が多いとは聞いている。
「そうね。血や水を補うといいと思う。女性は月経があるから“血虚”という状態の人が多いの。赤いものと黒いものが効果的よ。枸杞の実を料理に使うとか、あとおすすめは黒豆。血を増やしてくれるし、むくみも取れるの」
「黒豆ね。厨房にたくさんあるはずよ」
「黒豆に枸杞の実を加えて黒砂糖で甘ーく煮て、餅にかけて食べたらおいしそう」
月餅を食べていることもあって、食事ではなく菓子が頭に浮かぶ。
「ね、今度作ってみようよ。私も肌をきれいにしたいもの。おまけにおいしかったら最高ね」
私は乗り気の青鈴を誘った。
食べ物の話をしていると幸福で満たされる。
それなのに、毒見をしてからしか手を付けられない劉伶さまたちが気の毒に感じた。
その晩も子雲さんと入れ替わった劉伶さまがやってきた。
「麗華、今日の料理もおいしかった。これで不眠がよくなるなんて最高だよ」
「ありがとうございます」
尚食の女官の前で『余』なんて凛とした声で言う彼だが、私の前ではまったく違う。
「眠くない?」
「はい。昼間に寝ましたから」
本当は少し眠かった。でも、劉伶さまとのひとときが楽しくて、眠気なんて吹っ飛んだ。
「今日は少し話をしたら戻るから」
「でも……」
「毎日だと麗華が倒れる。おいしい食事を作ってもらわないといけないしね」
彼のことが心配だけど、たしかに毎日は難しい。私は素直にうなずいた。
「麗華に大切なことを伝えておかないとと思って」
「なんでしょう」
後宮のしきたり、とか?
そんなことを皇帝直々に知らせに来ないか。
「これはお願いなんだけどね。いつか麗華を皇后として迎え入れたい」
「は?」
「だから、皇后」
聞き返すと彼は繰り返すが、微かな衝撃を感じたあとはなにを考えていいのかわからなくなった。
「麗華、聞いてる?」
彼の眉間を見つめ息をすることも忘れていたからか、肩をポンポンと叩かれる。
「聞いていますが、夢でも見ているんですよね」
「あははは。やっぱり眠い? それじゃあ、また今度にしようか」
違う、これは夢じゃない。
こんなに気になる話を先延ばしにされたらたまらない。
「い、いえっ。皇后と言いますと、劉伶さまの伴侶で後宮の頂点に立つお方ですよね。私は朱麗華ですよ。どなたかとお間違えでは?」
「間違えるものか。皇帝の座についたとき、皇后を娶るようにと随分いろいろなところから圧がかかった。でも、突っぱねた。それは麗華を迎えるため」
今度は雷に打たれたような強い衝撃に襲われて、しばし目を閉じた。
なにを言っているのだろう。彗明国の頂点に君臨する人の妻となれなんて。
妃賓でも仰天なのに、一番上の皇后なんてありえない。
「麗華、息してる?」
「劉伶さまがとんでもないことを言い出すから、できません」
思いきり眉根を寄せてつぶやく。
「麗華は嫌?」
「嫌とかどうとかではなくて、私はただの村人だと言ったではないですか。後宮には高貴な方がたくさんいらっしゃるでしょう?」
まだ貴妃の姿を遠目にしか見ていないが、それはそれはきらびやかな衣を纏い、飛仙髻に結われた髪には金の歩揺が輝きを放っており、しばらく見惚れたほどだ。
立ち居振る舞いも私とはまったく違い、雅な情調で満ちあふれていた。
後宮に来て、私に与えられた襦裙の美しさに驚きはしたが、貴妃たちはそれ以上だった。
村にいては決して知ることのない上流階級の華やかさを知った。
「いるね。両貴妃は有力者の娘なんだ。皇位簒奪のときに活躍したね」
「それでは、貴妃が皇后に収まりたいと思われているのでは?」
その有力者も皇帝の子を産ませるつもりで後宮に入れたのだろう。そうすれば、将来の皇帝の家族になれる。一族は安泰だ。
「そうだろうね。でも、俺の意思だってある」
劉伶さまは遠い目をして「ふぅ」と小さな溜息をついた。
そうか。陰謀渦巻くこの世界では、皇帝の自由は限られているのだ。
後宮入りした私たちだけでなく、彼も。
「麗華がそばにいると、心安らぐんだ。後宮入りさせることも、本当は独善が過ぎるのではと悩んだ。でも、このまま麗華に会えずに一生暮らすなんて耐えられなかった」
疲弊したような表情でつぶやく彼に胸が痛む。
傍から見れば、国の頂点に君臨しなんでも意のままに動かせ、羨望の眼差しを向けられる人物であっても、私たちにはわからない苦労があるのだろう。
そのひとつが皇后の選択であり、さらには気ままに食べ物を口に運べないことなのだ。
「私も、劉伶さまたちの無事が確認したい一心で後宮に来ました。ひと目無事が確認できればそれでいいと思っていましたが、こうしてお話しできてどれだけうれしかったか」
皇帝の持ち物となり、姿は見ることができても話すことは叶わないと思っていた。それなのに、こうして胸の内を明かすことができる。
「それなら、皇后の話を考えてほしい」
「でも私では……」
なんの地位もない、偶然出会っただけの私がそんな地位に収まるなんてありえない。
「これから俺は彗明国のためだけに生きる。でもひとつだけ……麗華のことだけどうしても我儘が言いたい。どうやら俺は、麗華を愛してしまったらしい」
「私、を?」
鼓動が速くなり呼吸が浅くなる。
まさか、そんな言葉をかけられるとは思ってもいなかった。
「あぁ。これは博文や玄峰にも伝えてある。まあ、知ってたと言われたけどね」
あのふたりは今でも彼を支えているのだろう。そして一番近い信頼できる刎頸の友。
ふたりが変わらず彼のそばに寄り添っていてよかった。
ただ、そうは言われても簡単にうなずけるはずがない。
劉伶さまの発言がうれしくてたまらないのに。




