12
それから十日。私たちは今までと変わりない生活を楽しんだ。
しかし、玄峰さんは私のいない昼間はどこかに出かけることが多く、疲れが出たのか顔が火照り、舌が真っ赤になっている。
“陽盛”の状態である気がしたので、体の熱を抑える茄子と彼の好きな牛肉を合わせて生姜の効いたしぐれ煮を作ったり、熱を取り除く効果のある葛で葛茶を作って飲んでもらったりした。
もともと体力がある彼は、すぐによくなったのだが。
そして、最後の朝を迎えた。
私ひとり劉伶さまの部屋に呼ばれ、彼と向き合う。
いつもより顔つきが精悍に感じるのは、思い過ごしだろうか。
「麗華。今まで本当にありがとう。お前と出会えて俺は初めて幸福を知った」
「そんな……」
そんなふうに思っていたとは驚きだ。
「お前が誰かを元気にしたいと奔走する姿を見なければ、俺は逃げたまま生涯を閉じたかもしれない。だが、与えられた役割はまっとうすべきだと思い直した」
「それは、どう……」
その役割について聞きたくて途中まで口を開いたものの、その先は閉ざした。ずっと核心に触れないのには理由があると感じているからだ。
「お前は困った人がいると放っておけない性分らしい。それで助けられた俺が言うのもなんだが、自分も大切にしろ」
「劉伶さまもです。薬膳料理番がいなくなるんですから、一層体には気をつけてください」
「そうだな。また麗華と酒を酌み交わしたい」
彼は柔和な笑みを見せる。
「それに、この手も」
私の右手を不意に握った劉伶さまは、優しい手つきで撫でる。なすが儘にされていると、寂しさが胸にこみ上げてきて視界がにじむ。
するとそれに気づいた彼は、私を強く抱き寄せた。
添い寝を始めたとき、手以外には触れないと約束した彼にこうして抱きしめられたのは初めてだ。
それが別れのときだとは、なんて皮肉なのだろう。
「麗華、また必ず会おう。お前の作った料理はしばらくお預けだ。再会したときには、またあの麻婆豆腐を作ってくれ」
「はい。花椒の効いた、うーんと辛いのを作ります」
「あはは。食べられる程度にしてくれよ」
おどけた調子で答えるのに、私の背中に回った手には力がこもる。
私は彼の腕の中でうなずきながら、必死に上衣をつかんでいた。
この手を離したら、いよいよお別れだ。
それからどれくらいそうしていただろう。牽衣頓足というのはこういうことを言うのだと打ちひしがれていると、扉の向こうから博文さんの声がする。
「劉伶さま、そろそろ」
「わかった」
劉伶さまは返事をしたあと、もう一度私を強く抱きしめてから離れた。
「麗華。必ず元気でいてくれ」
「劉伶さまも」
「あぁ」
彼はこらえきれず流れた私の涙を大きな手でそっと拭ってから部屋を出ていった。
村まで送ると言われたものの、ここで見送ることにした。
大泣きした顔で村には戻れない。
しばらく気持ちを落ち着けたい。
半年お世話になった離宮の門が、ギギギーッと音を立てて閉まる。
「麗華、それでは」
劉伶さまは私の右手を再び握って持ち上げたあと、なんと唇を押し付ける。
呼吸をすることもしばし忘れて彼を呆然と見つめると、切なさの混ざった複雑な表情で微笑んでいる。
きっとまた会える。
もう泣き顔は見せたくないと、私も口角を上げた。
それから三人の姿が見えなくなるまで、必死に涙をこらえた。
けれども、とうとう見えなくなった瞬間、とめどなく涙があふれてきて止められない。
「行かないで……」
劉伶さまの前で呑み込んだ言葉を吐き出したあと、手で顔を覆って思う存分惜別の涙を流した。
それから生活は元通り。
しかし、村の人たちは重い税と働き手を失ったことで疲弊していた。
そんな中、私は積極的に体調のよくない人たちに積極的に薬膳料理を振る舞い続けた。
それができたのも、劉伶さまが私に多額のお金を置いていってくれたから。
『これで村の人たちを癒して』と託されたお金で食材や漢方を買うことができたのだ。
三人が去り五カ月経過した、はらはらと雪が舞う寒い朝。
「麗華、聞いたか?」
超さんの家に喉が痛いというお嫁さんのために菊花茶を届けると、超さんに引きとめられた。彼には三人は別の地に旅立ったと伝えてある。
「なにを?」
「香呂帝が崩御したそうだ。後宮は解散、軍も同様。若い連中が戻ってくる」
「崩御?」
そのとき、ふと『村が困窮しないようにする』と約束をして去った劉伶さまの顔が浮かんだ。
「あぁ。香呂帝の贅を尽くす国民を顧みない生活に嫌気がさしていた地方の有力者が率いる軍が、昇龍城を囲んだんだそうだ。それで、無理やり禁軍に登用されて給金も払われていなかった兵士も寝返って……。結局は自刎したんだと」
そんなことがあったのか。
胸騒ぎがする。
劉伶さまたちはもしかしたらその戦いに加担しに行ったのかも。彼らは無事なのだろうか。
「それで、そのあとは?」
「なんでも香呂帝の腹違いの弟が皇帝の座に収まったらしい。反乱軍側の指揮を執った人物だそうだ。皇位簒奪を企てるなんて、よほどの切れ者か実力者なんだろうな」
劉伶さまたちも、その人に誘われて昇龍城に向かったのかもしれない。
どうか無事でいて……。
反乱軍が勝利を収めたのなら、戦で命を落としていない限り戻ってくる可能性がある。
私は三人の無事をひたすら祈り続けた。
その冬は風邪が大流行し、私は村の各家を走り回った。
新しい皇帝――光龍帝は良識ある人らしく、税も以前の水準までに戻してくれたので、生活が楽になった家も多い。
とはいえ、高価な高麗人参などは購入する余裕がないため、劉伶さまにいただいたお金で用意して、酒と苦さをごまかすためのはちみつにつけたあと各家に配って歩いた。
疲労回復には効果覿面だからだ。
高麗人参が手に入らないときは、玄峰さんにも飲んでもらった葛茶に棗を加えて。これは頭痛にもいい。
大きな街では「葛根湯」という漢方薬が風邪によく効くと重宝がられているらしいが、それの代わりだ。
三人がいなくなったあと寂しさに胸を痛めてはいたけれど、こうして村の人たちの役に立てるのは私の誇りでもあった。
ようやく暖かな春の日差しを感じられるようになった頃。
馬に乗った武官が突然現れ、しかもなぜか私を探していると聞き慌てた。
「あなたが朱麗華さんですね」
「はい、そうです」
玄峰さんのようにたくましい腕。腰には剣が下げられていて、緊張が走る。
「あなたの薬膳料理の噂を聞きつけ、後宮で尚食として働いてほしいとお迎えに参りました」
予想に反して跪き低姿勢で首を垂れる武官に吃驚したものの、それより後宮での仕事を打診されて衝撃を受ける。
「尚食?」
「いくつかある仕事のうちのひとつで、主に食事に携わる女官がいるところです。皇帝陛下の料理を担当していただきます」
食事に携われるのはうれしいけれど、あの後宮だよ? 一度入れば、光龍帝の崩御でもなければ二度と出られない、籠の鳥。
しかも陰謀渦巻く怖いところだと聞いているので、簡単に承諾などできるはずもない。
「いえ、私は俄知識しかございません。とても役に立てるとは思えません」
瞬時に頭を働かせて断りの文言を考えたものの、もしかして後宮に行けば劉伶さまたちの消息がつかめる?と思い直す。
でも……恐ろしい場所として刷り込まれている後宮に行くなんて、やはり気が重い。
「あなたが後宮に来てくださるのなら、この村に医者を配置せよとの命を受けています」
「医者を?」
村の皆が待ち望んでいた医者が来てくれるの?
薬膳料理だけではどうにもならず、亡くなる人もいる。医者がいてくれたら……と何度思ったことか。
「この村に麗華さんは必要な人だと聞いています。ですから、代わりがいなければ後宮には来ないだろうと」
待って。どうしてそんなことを知っているの?
もしかして……。
「私を後宮に招いているのはどなたですか?」
「申し訳ございません。私も武官長から麗華さんを連れてくるようにと仰せつかっただけで、細かなことまではわかりません」
「そう、ですか……」
劉伶さまではないかと勘ぐったけれど、空振りだった。
どうしよう。もしかして私を呼んだのが劉伶さまだったら、再会できるかもしれない。
科挙、武挙試験をともに首位で通過した彼ならば、光龍帝に重用されている可能性もある。
でも、もし違ったら?
私の心は激しく揺れ動いた。
会いたい。彼が夜うなされていないかとても心配だし、なにより……あの添い寝がなくなって寂寥感を覚えているのは私のほうだから。
「私……」
「どうかお越しください。麗華さんを伴わなければ、私は帰るに帰れません」
武官はもう一度頭を下げる。
村に医者がいてくれたら、きっと助かる命がある。
それに……会いたい。劉伶さまに会いたい――。
そしてそれから三日、考えに考えて、やはり村に医者は必要だと結局承諾の返事をした。




