第1話 婚約破棄されましたが、記録は取ってあります
「──アリシア・ヴェルモンド。貴様との婚約は、今この場で破棄する!」
王立ヴェレンティア学園、卒業パーティの夜。
金色のシャンデリアの下で、私の婚約者──この国の王太子ジェラルド・ヴェレンティア殿下は、真っ赤な顔で私に指を突きつけていた。
会場がざわめく。
三百人はいるだろうか。着飾った令嬢たち、勲章を光らせた貴族たち、そして……殿下の腕に縋りつくようにして、青ざめた顔で俯く一人の少女。
男爵家のミレーヌ・ロッシュ嬢。
最近、殿下と親しくしていると噂の相手だ。
「その罪状を述べる! アリシア、貴様は嫉妬に狂い、ミレーヌ嬢に対して数々のいじめ行為を働いた! 証人は複数いる! 証拠も揃っている! 言い逃れは──」
「殿下」
私は、静かに口を開いた。
「一つだけ、確認させてくださいませ」
殿下が言葉を止める。会場の視線が、一斉に私に集まった。
「なんだ、命乞いか?」
「いいえ」
私は微笑む。淑女らしく、控えめに。
「──その証拠、一次ソースはどちらでしょうか?」
殿下の眉が、ぴくりと動いた。
「……なんだと?」
「証言者の名前、日時、場所。そして、証言の裏付けとなる物的証拠。すべて、この場で提示していただけますか?」
私は、真珠のついた白手袋をゆっくりと外した。
そして、腰に下げた小さなポーチから──革表紙の、分厚い手帳を取り出した。
「私、アリシア・ヴェルモンドは、記録を取る習慣がございます」
ぱらり、と手帳をめくる。
「5歳から日記を、10歳から社交記録を、12歳からすべての会話の速記を。目録、帳簿、書簡の写し──公爵家の娘として、当然の嗜みでございますわ」
殿下の頬から、ふっと血の気が引いた。
「まず、証言のうち最も重大とされる、5月14日午後3時、東棟廊下でのミレーヌ嬢への突き飛ばし事件について」
私は、手帳の該当ページを開く。
「同時刻、私は王宮図書館別館におりました。司書のマーガレット様、閲覧許可の署名を頂戴しております。──入館記録もございます。王宮の記録官に照会なさいますか?」
しん、と会場が静まる。
殿下は、後ろに控える取り巻きの令息を振り返った。取り巻きは、蒼白な顔で首を横に振っている。
「……で、では次だ! 貴様がミレーヌ嬢に送った、嫌がらせの手紙! 筆跡は貴様のものだと──」
「では、筆跡鑑定を提案いたします」
私は、懐からもう一通の書状を取り出した。
「王立公文書院に登録された、私の公式筆跡見本でございます。ミレーヌ嬢がお持ちの嫌がらせの手紙と照合すれば、五分で決着がつきますわ」
「──っ」
殿下が息を呑む。
私は、なお淡々と続けた。
「ちなみに、私、公的機関の書式もひととおり存じております。父の仕事を、幼い頃から手伝っておりましたので」
ミレーヌ嬢が、ぐらりとよろめいた。
殿下がその肩を支えようとして──支え損ねた。
彼女の手から、ぱさりと落ちた証拠の手紙。それを、私は拾い上げる。
「……あら」
私は、少しだけ首を傾げた。
「殿下。この便箋、ヴェルモンド家の紋章入りのものではございません。市井で売られている、ごく一般的な便箋ですわ。──なぜ、これが私の手紙だと?」
殿下の顔が、真っ白になった。
会場の空気が、変わり始める。
最初にざわめいたのは、私の背後に控えていた老貴族たちだった。次に、若い令嬢たち。そして──取り巻きの令息たちが、一人、また一人と後ずさり始めた。
私は、手帳をもう一枚めくる。
「最後に。一点だけ、殿下にお伺いしてもよろしいでしょうか」
「な、なんだ……」
「殿下は先月、ミレーヌ嬢にサファイアの首飾りを贈られましたね」
ミレーヌ嬢の首元で、青い宝石がきらりと光る。
「あの首飾り、王家の宝物庫の管理台帳に記載のあるものと、意匠が完全に一致いたします」
殿下の唇が、震えた。
「……そ、それは……」
「王家の宝物は、議会の承認なくして持ち出しできませんわ。──議事録には、承認の記録がございませんが」
会場に、悲鳴のような息が漏れた。
「殿下」
私は、微笑む。
「公金の使途について、ご説明いただけますか?」
ぐらり、と。
王太子ジェラルド・ヴェレンティアは、膝から崩れ落ちた。
シャンデリアの光の下、彼のマントが床に広がる。ミレーヌ嬢は口元を押さえ、床にへたり込んで泣き出した。取り巻きの令息たちは、我先にと会場から逃げ出していく。
私は、手帳をぱたんと閉じた。
「──では、婚約破棄の件、慎んでお受けいたしますわ」
深く、優雅に、礼をする。
「本日の会話、すべて記録させていただきました。追って、正式な書面にてお返事を差し上げます」
そして、私は踵を返した。
背後で、誰かが呟くのが聞こえた。
「なんて……なんて美しい……」
「あれが、ヴェルモンド公爵家の……」
私は、気にせず歩き出す。
だって、私はただ──質問に答えただけなのだから。
翌朝。
ヴェルモンド公爵邸、私の私室。
朝食のカップを傾けながら、私は昨夜の出来事を反芻していた。少し、やりすぎただろうか。いえ、事実を述べただけだから、問題はないはず。
こんこん、と扉が叩かれる。
「お嬢様」
執事のセバスチャンが、恭しく一礼して入ってきた。
その手には──山のような、封蝋つきの手紙の束。
「あら、なにかしら」
「昨夜のパーティ以降、王都中の貴族令嬢の皆様より、お嬢様宛のお手紙が届いております」
「……何通ほど?」
「──現時点で、527通」
私は、カップを持つ手を止めた。
「527……?」
「はい。加えて、面会希望のご令嬢が屋敷の門前に列をなしておられまして……本邸の警備隊が、対応に追われております」
「……ちょっと待って」
私は、一番上の手紙を手に取った。
封蝋は──ローランド侯爵家。この国で三本の指に入る名門だ。
震える指で、封を切る。
便箋を開く。
そこには、たった一行、こう書かれていた。
『アリシア様。どうか、私たちの女神になってくださいませ』
……えっ?
私は、手紙を持ったまま、しばし固まった。
次の手紙を開く。同じ文面。
その次も。
その次も。
「セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「私、昨日……何かした?」
執事は、少しだけ口角を上げた。
「──さようでございますね、お嬢様」
「この国の、歴史を変えられたのかと」
窓の外で、朝の光が眩しく差し込む。
門の外から、若い令嬢たちの熱狂した歓声が聞こえてくる。
私、アリシア・ヴェルモンドは──
まだ、何が起きているのか、まったく理解していなかった。




