第6話:幸せの味、ナノマシンの味
翌朝、悠真の家のキッチンに立っていたのは、当たり前のように朝食を作り終えた零奈だった。
「はい、悠真くん。今日のお弁当。自信作だよ」
彼女が差し出したのは、二段重ねの弁当箱。彩り豊かな副菜に、照り焼きチキンがメインの、目にも鮮やかなお弁当だ。
「……毎日、悪いよ。自分でも作れるのに」
「いいの。あなたの血の一滴、肉の一片まで、私の管理下で育んでいきたいんだもん。……ほら、あまりのんびりしてたら遅刻しちゃうよ。学校へ行こう?」
彼女は悠真のネクタイを整え、まるでお気に入りのペットを愛でるような瞳で微笑んだ。その瞳の奥で、わずかにエメラルド色の光が走った気がしたが、悠真はそれを気のせいだと思うことにした。
昼休み。屋上のベンチに座る。隣には当然のように零奈の姿もある。悠真は少し緊張しながら零奈お手製のお弁当を口に運んだ。
照り焼きチキンを一口噛んだ瞬間、脳内に衝撃が走った。
「――っ!?」
美味しい。その一言では到底足りない。
肉の繊維がほどける感覚、絶妙な塩加減、そして後から追いかけてくる深いコク。食べた瞬間、午前中の授業で溜まっていた疲れや、彼女の正体を知って以来こびりついていた不安が、嘘のように霧散していく。
「……どう? お口に合うかな」
真横で彼の横顔を食い入るように見つめる零奈が尋ねる。
「……信じられないくらい美味しい。なんていうか、食べるとすごく……落ち着くんだ。体が軽くなるみたいで」
「ふふ、そう。嬉しい。……あなたの体に栄養が行き渡ってる証拠だね」
零奈は満足げに目を細めると、自分の指先をそっと唇に当てた。
彼女の視界には、今、悠真のバイタルデータがリアルタイムで投影されている。
『対象:佐倉悠真。血中ストレスホルモン(コルチゾール)、急激に低下。ドーパミンおよびセロトニン、正常値の1.2倍まで上昇。――ナノマシン:ハピネス・バグ、脳内報酬系への定着を確認。』
彼女が作った料理には、対怪人組織『G.A.R.D.E.N.』の極秘技術――医療用微細ナノマシンが混入されていた。
それは、摂取した者のストレスを物理的に消去し、特定の対象――この場合は調理者である零奈――に対して深い多幸感と依存心を持たせる『精神の調味料』だ。
「悠真くん、最近は夜もよく眠れるようになったでしょう?」
「う、うん。確かに……。昔は色々考え事しちゃってたけど、最近は布団に入ると、君の匂いに包まれてるみたいで、すぐに寝ちゃうんだ」
「それは良かった。……あなたの脳が、私の存在を『生存に不可欠な快楽』だと認識し始めているんだね」
零奈は彼の耳元に唇を寄せ、囁く。
「ねえ、悠真くん。お母様の作る料理と私の手料理……どっちが美味しい?」
「そ、それは……」
動揺で瞳が揺れる。しかし、彼女のその声さえも、ナノマシンの効果で今の悠真には極上の音楽のように聞こえていた。
理性で考えれば母親の料理が美味しいと答えるべきなのは分かっていた。だが、多幸感で満たされた体はそうさせてくれない。
「ねえ。どうなの、悠真くん?」
「れ……」
凄まじい葛藤が襲う。零奈はそんな彼を微笑みながら見つめていた。
「……まだよく分からないんだったら、もう一口食べてみる?」
零奈はさり気なく箸を奪うとお弁当を悠真の口元に持っていく。
「はい。あーん」
悠真は餌を与えられる雛鳥のように夢中で口を開けた。口の周りが汚れるのも構わず無心で頬張る。気がつけば笑みが溢れていた。
「ふふ。悠真くん、可愛い」
彼の薄い唇が汚れているのを見て、零奈は細い指先で拭った。きめ細かい肌の感触が直に伝わり、悠真はぞくりとする。
「それで、どうだった? お母様と私、どっちが好き?」
「れ、零奈さんの方が……」
「私の方が?」
零奈は優しく微笑んだまま首を傾げた。悠真は言葉を詰まらせたまま身震する。彼が必死に何かを言おうとした、その時。零奈が笑い出した。
「冗談だよ、悠真くん。からかってごめんね。そんなの無理に答えなくていいから」
悠真は深く息を吐き出す。まるで長い間息を止めていたかのように彼の呼吸は乱れていた。
「お昼ご飯の邪魔しちゃったね。ほら、お弁当まだ残ってるよ。食べて、食べて」
視線を落として弁当箱を見ると、途端に食欲が湧いてくる。悠真はまた一心不乱にお弁当を食べ始めた。
「……ゆっくり適応していこうね、悠真くん。いつか私が聞かなくても自発的に言えるようになるはずだから」
――午後からの授業中、悠真はふとした瞬間に、自分が驚くほど穏やかな気分でいることに気づいた。
陽菜が消えたこと。零奈がカマキリの改造人間であること。自分の人生が彼女に支配されていること。
それら全てが、遠い異国の出来事のように感じられる。
(……まあ、いいか。零奈さんはあんなに僕を愛してくれているんだし。あのお弁当があれば、僕は幸せなんだ……)
思考が、甘い蜜に溶かされていく。
窓の外、校舎の壁を這う一匹のカマキリが、獲物を見つけて鎌を振り上げる。その様子を眺めながら、悠真は恍惚とした表情で、次の昼休みが来るのを待ち侘びていた。
彼の体の中に住み着いた無数の『虫』たちが、自分の心を少しずつ、確実に彼女の好む色へと塗り替えていくことも知らずに。




