終章:永遠の冬
#犬神医師の解剖学的愛着律 #サイコパス外科医 #禁断の愛 #メディカルホラー#医療グロ
今年の奥多摩の冬は、史上最も長く感じられた。雪は犬神邸へと続く小道を二メートルもの高さで埋め尽くし、その屋敷を世界の地図から消し去ってしまった。レクサスのタイヤ痕も、ドアベルの音も、もうどこにもない。そこにあるのは、ただ白密な静寂だけだ。
屋敷の中は、常に摂氏十五度に保たれている。組織の腐敗を防ぐには効率的だが、骨の芯まで疼くような冷たさだ。
地下室では、心臓モニターがいまだに同じ音を刻み続けている。
ピッ。ピッ。ピッ。
犬神江戸医師は、まだそこにいた。彼の肉体は「生きたモニュメント」と化していた。かつてあんなにも傲慢だった手は、今や掌握の形で固定され――自尊心すら掴むことのできない、肉の彫像に過ぎない。上向きに永久縫合された瞼は慢性的な角膜炎を起こし、彼の視界を、ひび割れたガラス越しに世界を見ているかのように白濁させていた。
それでも、彼にはたった一つのものだけが見えていた。
毎朝、清潔な白衣を纏った美しい女がその部屋に入ってくる。彼女は極めて柔らかな手つきで高カロリー輸液のボトルを交換し、江戸のベッドの傍らに座って、最新の外科ジャーナルを読み聞かせるのだ。
「見て、お兄ちゃん」
朱里が囁く。その声は、母の喉頭を自分に移植した処置の結果、驚くほど安定していた。
「記憶移植の新しい術式が出たわ。次は、誰の脳の一部を借りるべきだと思う?」
江戸は見つめることしかできない。瞬きもできない。朱里がまだ空の、新しいガラス瓶を取り出した時、彼は目を逸らすことさえ許されなかった。その瓶のラベルには、一つの名前が記されていた。
――佐藤。(江戸の病院の助手だった男だ)。
朱里は立ち上がり、今や土気色になった江戸の頬を撫でた。
「心配しないで。死なせたりしないわ。あなたは私の作品の美しさを理解できる、唯一の観客なんだもの。あなたが死んでしまったら、私の芸術は意味を失ってしまう」
朱里は扉へと歩き、メインの照明を消した。そして、江戸の瞳を真っ直ぐに射抜く小さなスポットライトだけを残した。
「おやすみなさい、お兄ちゃん。……二度と眠ることはできないけれど」
カチリ。
鋼鉄の扉が固く閉ざされた。痛みの伴う闇の中で、江戸は肉体的な苦痛よりも遥かに恐ろしい事実に気づいた。彼はついに「神」を創り出すことに成功したのだ。そして、彼が創り上げた神は、慈悲という言葉を知らなかった。
外では雪が降り続き、犬神家の秘密を、決して溶けることのない氷の層の下へと埋めていく。奥多摩で、時は止まった。あとに残されたのは、終わりのない痛みの交響曲の中に互いを閉じ込めた二人の人間だけ。
解剖をやめられない女と、見つめることをやめられない男。
――完――
最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
二人が辿り着いた結末はいかがでしたでしょうか。
愛と狂気が交錯する世界観が、読者の皆様の心に少しでも残れば幸いです。
また別の物語でお会いできることを楽しみにしています。




