最終話 「晴れを知った日」
相変わらず空は青い。
八月の国では、 夏は終わらないと言われているけれど、今日の風は、 少しだけ別れの匂いがした。
渡り回廊へ差し込む陽射しの中、 リシェルは静かに日傘を閉じた。白から薄青へ移ろう色が、淡く揺れる。
「アルス殿下」
小さな声だった。俺は手すりにもたれたまま、視線を向ける。
「何だ」
リシェルは少し迷うように視線を伏せた。その仕草だけで、 嫌な予感がする。
「療養期間が、もうすぐ終わります」
「…………」
「来週には、六月の国へ戻ることになりました」
——来週。その言葉が、妙に遠く聞こえた。分かっていたはずだ。リシェルはずっと“客人”だった。
いつか帰る。
そんなこと、最初から決まっていたのに。
「皆様には、本当に良くしていただいて……」
「待て」
気付けば、 遮るように声が出ていた。リシェルが小さく目を瞬く。
「アルス殿下?」
それ以上、 聞きたくなかった。別れの挨拶みたいな言葉を。
「……っ」
無意識に手を伸ばし、リシェルの細い手首を掴んでいた。
「帰るのか」
自分でも驚くくらい低い声だった。リシェルは少し困ったように眉を下げる。
「……はい」
「…………」
胸の奥が、妙に苦しい。何だこれ。
雨の夜より、 嫉妬した時より、 今の方がずっと苦しい。
「アルス殿下」
リシェルがそっとこちらを見上げる。青空みたいな瞳、夏の光。触れた手首は、少しひんやりしていた。
——帰したくない。
その言葉だけが、 胸の奥で何度も繰り返されていた。
あまりにも簡単に頷かれて、 胸の奥がざわついた。
「はい、っておまえ……」
思わず声が強くなる。リシェルが小さく肩を揺らした。
「療養期間は、最初から決まっていましたので」
「そんなの分かってる」
即座に返す。分かってる。分かっていたはずなのに。
なのに今、 “帰る”という言葉だけが妙に現実味を持って突き刺さる。
「六月の国にも、戻らなければなりません」
「…………」
素直に頷く。それが何故か、 無性に腹が立った。
「おまえは」
気付けば、 手首を掴く力が少し強くなっていた。
「平気なのか」
「……え?」
「帰るって言われて、何とも思わないのかよ」
言った瞬間、 リシェルが目を丸くする。多分、 本気で意味が分かっていない顔だった。
「アルス殿下?」
不思議そうに名前を呼ばれる。
「……っ」
苛立ったみたいに息を吐く。本当は違う。怒りたいわけじゃない。ただ、 簡単に帰るなんて言ってほしくなかった。
「……好きにしろ」
吐き捨てるみたいに言って、 ぱっと手を離す。
リシェルが小さく目を瞬いた。
「アルス殿下、わたし——」
「知らない」
被せるように言う。
これ以上こいつの顔を見ていたら、 多分また、 困らせるようなことしか言えない。
夏の風が吹き抜ける。
「…………」
リシェルは何か言いたそうに唇を動かしたあと、
「……ごめんなさい」
小さくそう言った。——だから何でおまえが謝る。
謝って欲しいわけじゃない。胸の奥が苦しくなる。
けれど、 上手く言葉にならなかった。
*****
その日の夕暮れ。
八月の空は、燃えるみたいに赤かった。
俺は一人で庭園のベンチへ座り込み、小さく息を吐く。
最悪だ--何だあれ。好きにしろって何だ。
本当は、 帰るなと言いたかったくせに。
「随分酷い顔ですわね」
不意に声が落ちてくる。顔を上げると、フレアが呆れたようにこちらを見下ろしていた。
「……おまえか」
「リシェル様、泣きそうなお顔をしておりましたわよ」
「…………」
胸がぎくりとする。フレアは小さくため息を吐いた。
「殿下、本当に不器用ですわね」
「うるさい」
「“帰るな”の一言くらい、素直に仰ればよろしいのに」
「簡単に言うな」
思わず低く返す。
「帰る場所があるんだぞ、あいつには」
六月の国、家族、王女としての立場。そんなもの、 分かっている。分かっているのに。
「それでも」
フレアは静かに目を細めた。
「殿下が何も仰らなければ、リシェル様には伝わりませんわ」
夏の風が吹き、庭園の木々が静かに揺れた。
俺は無意識に空を見上げる。
——雨は降っていない。
なのに胸の奥だけが、 どうしようもなく騒がしかった。
夜になっても、眠れなかった。開け放たれた窓から、夏の風が入り込む。八月の夜は暖かい。
けれど胸の奥だけが、妙に苦しかった。
——好きにしろ。最低だ……。何であんな言い方しかできない。
ベッドへ倒れ込んでも、 目を閉じても、 浮かぶのは紫陽花色ばかりだった。
雨の夜、日傘の下、小さな笑顔。
「……っ」
苛立ったように起き上がる。
その時、コンコン、と小さく扉が叩かれた。
「殿下?」
スピカだった。
「何だ」
「まだ起きておられたのですね」
「寝れない」
正直に返すと、 スピカは少しだけ呆れた顔をした。
「では、丁度良かった」
「?」
「リシェル様がお探しでしたよ」
心臓が跳ねる。
「……は?」
「渡り回廊の方へ行かれたようです」
「こんな時間に?」
「ええ」
スピカは静かに目を細めた。
「多分、殿下を待っておられます」
「…………」
一瞬、 言葉が出なかった。何で。あんな言い方をしたのに。
「殿下」
スピカが小さく笑う。
「今度は逃がさない方がよろしいのでは?」
「うるさい」
即座に返しながら、 気付けばもう立ち上がっていた。
夜の回廊は静かだった。
昼間の熱だけが、まだ白い石壁へ残っている。
俺は足早に渡り回廊へ向かう。
心臓が、妙にうるさい。——何を言うつもりだ。
分からない。ただ、 行かなきゃいけない気がした。
回廊へ辿り着いた瞬間、 夏の風が吹き抜ける。
その向こう。小さな影が立っていた。
「……リシェル」
呼ぶと、 リシェルがゆっくり振り返る。月明かりの中、 淡い紫の髪が静かに揺れた。
「アルス殿下」
小さく名前を呼ばれる。それだけで、 胸の奥が苦しくなる。
「何してる」
「……少しだけ、眠れなくて」
「…………」
俺と同じだ。そう思った瞬間、 昼間の出来事がよぎる。リシェルは少し迷うように視線を伏せた。
「昼間は、ごめんなさい」
「だから何でおまえが謝る。謝罪なんていらない」
思わず強く返してしまう。リシェルが小さく肩を揺らした。……駄目だ。また怖がらせる。
俺は小さく息を吐くと、 少しだけ声を落とした。
「悪い」
「……え?」
「昼間」
言葉が上手く出ない。こんなの、 剣を握るより難しい。
「あんな言い方したかったわけじゃない」
夏の夜風が吹く。
月明かりが、 リシェルの横顔を淡く照らしていた。
「……でも」
気付けば、 また手を伸ばしていた。今度は逃がさないみたいに、 そっと細い手を掴む。
「帰るって言われたら」
声が掠れる。
「思ったより、無理だった」
リシェルが小さく目を見開いた。
青空みたいな瞳が、 真っ直ぐこちらを見る。もう誤魔化せない。多分、 とっくに手遅れだった。
「アルス殿下……?」
不安そうな声。その響きだけで、 胸の奥が締め付けられる。
「俺」
喉が熱い。こんなに言葉が出てこないこと、今までなかった。
「六月なんて、嫌いだった」
リシェルが静かに瞬きをする。
「雨ばっかりで、じめじめしてて」
小さく息を吐く。
「面倒で、鬱陶しくて。お前が来た日も雨で、最悪だって思った」
でも、雨の夜、紫陽花色の髪、日傘の下の笑顔。
全部、 思い浮かぶのはおまえだった。
「……今は」
触れた手へ、少しだけ力が入る。
「おまえが帰る六月の方が嫌だ」
夏の風が吹き抜けた。回廊の向こうで、 夜の木々が静かに揺れる。リシェルは何も言わない。
ただ、 驚いたみたいにこちらを見上げていた。
「だから」
心臓がうるさい。逃げたくなるくらい、 苦しくて熱い。
「帰るなって言いたい」
声が掠れる。
「ずっとここにいろって」
もう止まれなかった。
「……好きだ」
月明かりの下、 言葉だけが静かに落ちる。
「リシェル」
リシェルはしばらく瞬きもせず、こちらを見上げていた。……やっぱり困らせた。そう思った瞬間。
「……あの」
小さな声が落ちる。
「何だ」
「わたし」
リシェルは少し迷うように視線を伏せた。
「嫌われているのかと思っていました」
「は?」
思わず間抜けな声が出る。
「何でそうなる」
「だって、よく怒られます」
「怒ってない」
「“好きにしろ”と仰いました。それに、フレア様はよろしいのですか?」
「は?」
今度こそ、本気で変な声が出た。リシェルは少し不安そうに視線を伏せる。
「とても親しそうでしたので……」
「いや待て」
思わず額を押さえる。
「何でそこであいつが出てくる」
「ですが」
「違う」
即答だった。リシェルが小さく目を瞬く。
「フレアは幼馴染みなだけだ」
「……そうなのですか?」
「そうだ」
むしろ、 あいつはずっと面白がってただけだ。
「それに、怒っていない……」
するとリシェルが、 少しだけ目を丸くする。
「……即答なのですね」
「当たり前だ」
「……ふふ」
小さく笑う声。月明かりの下で、 リシェルは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「では、安心しました」
「…………」
「わたしも」
そっと、 細い指がこちらの手を握り返す。
「アルス殿下といる時間、好きでしたから」
心臓が止まりそうになった。
「おまえ」
「はい?」
「それ、自分で言ってる意味分かってるか」
本当に無自覚そうな顔だった。……駄目だ。やっぱり敵わない。リシェルは少し恥ずかしそうに視線を伏せる。
「わたしも」
そっと、 細い指がこちらの手を握る。
「帰りたくない、って思いました」
夏の夜風が吹き抜ける。
月明かりの下で、 紫陽花色の髪が静かに揺れた。
ああ——駄目だ。
多分もう、 一生こいつには敵わない。
「……ずるい」
思わず零すと、 リシェルが小さく首を傾げた。
「何がでしょう」
「そういうところ」
「?」
本当に分かっていない顔だった。
俺は小さく息を吐くと、 繋いだままの手を少しだけ引いた。
「……っ」
リシェルが小さくバランスを崩す。そのまま、 ふわりと腕の中へ収まった。月明かりの匂い、夏の夜風、触れた肩は思ったより細い。
「ア、アルス殿下……!?」
「今さら逃げるな」
「に、逃げてません……!」
「顔真っ赤だぞ」
「殿下もです」
即座に返されて、 思わず吹き出しそうになる。
何だそれ。
「……ふ」
「?」
「いや」
ちゃんと笑ったの、多分久しぶりだった。リシェルは少し驚いたみたいに目を丸くする。
「アルス殿下」
「何だ」
「笑うのですね」
「失礼だなおまえ」
「いえ、その……」
リシェルは困ったように視線を泳がせたあと、 小さく笑う。
「いつも少し、不機嫌そうでしたので」
「誰のせいだと思ってる」
「……?」
本当に分かっていない。
月明かりの下で見上げてくる瞳が、 どうしようもなく綺麗だった。
「リシェル」
名前を呼ぶ。今度はちゃんと、 迷わず。
「帰す気、なくなるから」
小さく囁くと、 リシェルは耳まで赤くしながら、
「……もう遅いです」
とても小さな声で、 そう答えた。
けれど、 その意味を理解するには十分だった。
「…………」
心臓がうるさい。腕の中のリシェルも、 多分同じくらい緊張している。触れた肩が少し熱くて、夏の夜風が、静かに吹き抜ける。
遠くで噴水の水音が響いていた。
「帰す気なくなるって」
リシェルが小さく呟く。
「少し、困ります」
「……少しか」
「はい」
「全部じゃないのか」
思わず返すと、 リシェルが困ったみたいに笑った。
「六月の国にも、戻らないといけませんから」
「…………」
あーあ。やっぱりそこは真面目だ。でも。
「迎えに行くよ」
気付けば口にしていた。リシェルがぱちりと瞬きをする。
「え」
「六月の国」
自分でも驚くくらい自然に言葉が出る。
「おまえが帰っても、終わりにする気はない」
月明かりが、 淡い紫の髪を照らしていた。リシェルはしばらく黙ったままこちらを見上げる。
「……大変ですよ?」
「何が」
「六月は、ずっと雨です」
「知ってる」
「じめじめしています」
「知ってる」
「洗濯物も乾きません」
「おまえ」
思わず笑ってしまう。告白の後でする話か、それ。
リシェルも少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「でも」
そっと、 額が触れそうなくらい近付く。
「アルス殿下が来てくださるなら」
「六月を、もっと好きになれそうです」
月明かりの下、 リシェルが静かに笑う。夏の夜風が吹き抜けた。雨の姫--晴れを知らなかったはずのその人は、 今、 少しだけ夏の光みたいに笑っている。
晴れを知らなかったのは、俺の方だった。
「……本当に」
思わず小さく息を吐く。
「俺の方が、六月を好きにさせられてる気がする」
リシェルは少し驚いたように目を瞬いたあと、
「……ふふ」
嬉しそうに笑った。
*****
——別れの日。
八月の国は、朝からよく晴れていた。雨の気配はない。白い石畳へ、強い陽射しが落ちている。
王宮前には馬車が並び、 侍女や騎士達が慌ただしく動いていた。
「姫殿下、お気を付けて」
「また是非、八月の国へ」
あちこちから別れの声が飛ぶ。リシェルは静かに微笑みながら、一人一人へ丁寧に頭を下げていた。
白から薄青へ移ろう日傘が、 夏の光の中でやわらかく揺れる。
——帰るんだな。分かっていたはずなのに、 実際目の前にすると胸の奥が落ち着かなかった。
「随分酷い顔ですわね」
隣でフレアが小さく笑う。
「うるさい」
「ちゃんとお見送りしてくださいませ」
「分かってる」
ぶっきらぼうに返しながら、 俺はゆっくり歩き出した。リシェルもこちらへ気付く。青空みたいな瞳が、小さく揺れた。
「アルス殿下」
「……ああ」
近付くと、 日傘越しの淡い影が落ちる。あの日と同じ色だった。
「お見送り、ありがとうございます」
「別に」
また素直じゃない返事が出る。リシェルは少しだけ困ったように笑った。
「……ちゃんと、六月の国へ帰ります」
「知ってる」
「でも」
小さく、 日傘の柄を握り直す。
「待っています」
夏の風が吹いた。白から薄青へ移ろう布が、ふわりと揺れる。
「六月の国で」
胸の奥が、 ぎゅっと苦しくなる。
けれど今度は、 “行かないでほしい”とは思わなかった。
行く理由も、 帰る場所も、 もう知っているから。
「……ああ」
俺は小さく息を吐く。それから、 リシェルの日傘へそっと触れた。
「今度は、雨の季節に行く」
リシェルが静かに目を見開く。そして、
「はい」
今度は迷わず、 嬉しそうに笑った。
夏の陽射しの下。
白から薄青へ移ろう日傘が、 やわらかく光を弾いている。
「姫殿下、そろそろお時間です」
側近の声が響いた。リシェルは小さく頷く。それから、 名残惜しそうにこちらを見た。
「……では」
「ああ」
本当は、 まだ足りない。もっと話したい。もっと触れていたい。けれど、
「リシェル」
呼び止めると、リシェルが振り返った。
「?」
俺は少し迷ったあと、 小さく息を吐いた。
「その日傘」
「はい」
「ちゃんと使えよ」
「……ふふ」
リシェルが笑う。
「はい」
「あと」
「?」
「他の男に、簡単に笑うな」
言った瞬間、 フレアが後ろで吹き出した。
「まあ、殿下!」
「うるさい」
リシェルは少し目を丸くしたあと、 困ったように笑う。
馬車がゆっくり動き出した。夏の風が吹く。
俺はその姿が見えなくなるまで、 ずっと見送っていた。
*****
「……行ってしまわれましたわね」
隣でフレアが小さく呟く。
「…………」
返事はしなかった。胸の奥が、 妙に静かだったから。
寂しい……多分、かなり。けれど不思議と、 前みたいな苦しさはない。
「殿下」
「何だ」
「少し、お顔が優しくなられました?」
「気のせいだ」
即答すると、 フレアがくすくす笑う。
「六月へ行かれるのでしょう?」
「……まあな」
雨ばかりの国。昔の俺なら、 絶対好きにならなかった。じめじめして、 空ばかり曇っていて。
でも今は、白から薄青へ移ろう日傘と、 紫陽花色の髪ばかり浮かぶ。
「殿下」
フレアが楽しそうに目を細めた。
「ちゃんと雨の国仕様のお洋服を用意なさってくださいませ」
「何だそれ」
「六月は湿気が大変ですもの」
「……おまえ、面白がってるだろ」
「少しだけ?」
全然少しじゃない。思わずため息を吐いたその時、空から、 ぽつり、と冷たい雫が頬へ落ちた。
「……は?」
思わず空を見上げる。真っ青だった空へ、 小さな雲が流れ込んでいた。フレアがぱちりと瞬きをする。
「まあ」
それから、 どこか楽しそうに笑った。
「姫殿下、まだそんなに遠くへ行っておられないのかもしれませんわね」
夏の空から落ちる、小さな雨粒。俺は思わず笑ってしまう。
——六月も、 悪くないのかもしれない。
*****
Epilogue
——六月、二年後。
雨の国は、今日も静かに雨が降っていた。
王宮の庭では紫陽花が咲き誇り、 石畳へ小さな雫が落ちていく。
「姫様!」
「本当におめでとうございます!」
侍女達の明るい声が廊下へ響いていた。
「八月の国との正式な婚約ですって」
「まあ、素敵……!」
くすくすと笑い声が重なる。
その向こうで、 リシェルは少し困ったように微笑んでいた。
「そんなに大騒ぎしなくても……」
「致します!」
即答され、 リシェルが小さく瞬きをする。
「だってアルス殿下、半年で三回も六月の国へいらっしゃったのですよ!?」
「しかも雨の日ばかり!」
「昔は六月がお嫌いだったと聞きましたのに」
「……ふふ」
リシェルは小さく笑う。窓の外では、 柔らかな雨が降り続いていた。
その時。
「リシェル」
低い声が響く。振り返ると、 アルスが少し不機嫌そうな顔で立っていた。
「アルス殿下」
「殿下ではないだろ」
「……アルス」
呼び直すと、 アルスは少しだけ満足そうに目を細めた。侍女達がきゃあと小さく盛り上がる。
「うるさい」
即座に睨まれ、 侍女達は慌てて口を押さえた。けれど全然隠せていない。アルスは小さくため息を吐くと、 リシェルの手を取った。
「また勝手に一人で歩いてただろ」
「少しだけです」
「雨の日は足元滑る」
「大丈夫でした」
「俺が大丈夫じゃない」
真顔で返され、 リシェルが小さく目を瞬く。それから、 ふわりと笑った。
「……心配性ですね」
「誰のせいだ」
雨音が静かに響く。
白から薄青へ移ろう日傘が、 二人の隣でやわらかく揺れていた。
昔、晴れを知らなかった紫陽花姫は、 今、 夏の王子と並んで笑っている。
そして六月を嫌っていた王子もまた、 雨音の中で穏やかに笑うことを覚えていた。
窓の外では、 紫陽花が静かに揺れている。
六月の雨は、 今日も優しく降り続いていた。
◇ June Bride
——六月。
六月の国では、 朝から静かな雨が降っていた。
王宮の回廊には白い花が飾られ、 紫陽花へ落ちる雫が硝子みたいに光っている。
「姫様、本当にお綺麗です……!」
侍女達の感極まった声に、 リシェルは少し困ったように笑った。白いドレス、淡い紫の髪には、小さな銀花。
雨の光が、 やわらかくその姿を包んでいる。
「……そんなに変でしょうか」
「変なわけありません!」
「むしろ神々しいです!」
「紫陽花の精霊みたいです!」
少し大袈裟な声へ、 リシェルはくすりと笑った。その時、コンコン、と小さく扉が叩かれる。
「リシェル」
聞き慣れた低い声だった。
「アルス?」
扉の向こうには、 正装姿のアルスが立っていた。
「まだ式前ですよ!?」
「花嫁を見に来るなんて駄目です!」
侍女達が慌てる。
けれどアルスは全く気にしていなかった。
「少しだけ」
そう言って、 真っ直ぐリシェルを見る。
「…………」
数秒、 アルスが黙り込む。
「アルス?」
「……いや」
小さく息を吐く。
「綺麗すぎて、ちょっと後悔した」
「は?」
「他の奴に見せたくない」
真顔だった。侍女達が一斉に悲鳴みたいな声を上げる。リシェルはぱちぱちと瞬きをしたあと、 少しだけ頬を赤くした。
「……もう」
困ったみたいに笑う。雨音が静かに響く。
白から薄青へ移ろう日傘が、 部屋の隅でやわらかく揺れていた。
「アルス」
「何だ」
「六月、好きになれましたか?」
昔と同じ問い。アルスは少しだけ笑った。
「何回聞くんだ、それ」
そう言いながら、 花嫁の手をそっと取る。
「……好きだよ」
六月も、雨も、紫陽花も。そして、 その全部みたいな姫も。
王宮の鐘が、 静かに鳴り始めていた。
雨音へ重なるみたいに、 やわらかな鐘の音が王宮中へ響いていく。
「殿下、本当にお時間です!」
侍女達が慌てたように声を上げる。
「……分かってる」
アルスは小さく息を吐いたあと、 それでもまだリシェルの手を離さなかった。
「アルス?」
「……緊張してる」
「え」
意外だった。リシェルが少し目を丸くする。
「アルスでも、緊張するのですね」
「失礼だなおまえ」
「ふふ」
小さく笑う声。それだけで、 不思議と胸のざわつきが落ち着いていく。
「大丈夫です」
リシェルがそっと指を重ねた。
「わたしも一緒ですから」
雨音が静かに響く。六月の柔らかな光が、 白いドレスへ淡く落ちていた。
「……ああ」
アルスは小さく目を細める。それから、 花嫁の額へそっと触れるように口付けた。
「きゃあっ……!」
侍女達が一斉に騒ぎ出す。
「式前です!!」
「殿下!!」
「うるさい」
即答だった。リシェルは真っ赤になったまま、 困ったようにアルスを見上げる。
「……もう」
「今さらだろ」
真顔で返され、 リシェルはとうとう吹き出してしまった。
笑い声が、 雨音へ溶けていく。
昔、晴れを知らなかった紫陽花姫は、 今、 夏の王子の隣で幸せそうに笑っている。
そして六月を嫌っていた王子もまた、 雨の季節を愛おしそうに見つめていた。
「行くぞ、リシェル」
「はい」
繋いだ手は、 もう迷わず重なっている。
六月の雨は、 まるで祝福みたいに優しく降り続いていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
『紫陽花姫は、晴れを知らない』は、 雨の季節に読みたくなる物語を書いてみたいな、という気持ちから始まりました。
六月の雨。 紫陽花。 じめじめした空気。 少し憂鬱に感じている季節ですが、書いているうちに、雨の日だからこそ見える景色もあるのかもしれないと思うようになりました。
そして気付けば、 六月嫌いの王子が、誰より雨の国へ通う話になっていました。
最近は八月でも豪雨や雷雨があり、そして逆に、六月にもちゃんと晴れる日はあります。
雨の季節だからこそ見える景色と、 晴れた日にしか見えない景色。
そのどちらも、二人と一緒に好きになっていただけていたら幸せです。
またどこか別の季節、 別の花の物語でお会いできましたら嬉しいです。
ありがとうございました。




