32話 よくある 体力測定と『契り』
「今から校庭のトラックを走ってもらう。一人五周だ」
エルゼ女史の指示に貴族様たちの不満が飛び交った。
だけど、エルゼ女史は聞く耳を持っていない。
「測定は終わったのでは?」
「一周の距離はいくらあるのですか?」
「準備できた者から走れ。終わった者から帰宅だ」
みんなが抗議する中、僕は柔軟体操を始めていた。
一周は寮の芝周りより少し長いと思える。千五百メートルぐらいかな? 五周なら楽に走り切れると思う。
訴えることを諦めた貴族様たちが一斉に走り出す。僕も慌ててあとを追う。
走り始めてすぐに遅れ始めたのは、ユーディー様とユウキ様だった。
半周ほどするとメイスター様が先頭集団から離れだす。
マードリック様が一歩前を走っているけれど、リズムが悪いと思う。
マルセーヌ様は顔を歪めて苦しそうだ。横に並ばれて走られるのは気が散るだろうな。そう思い少し速度を上げた。
徐々にマードリック様の速度が落ち始めた。そして、一週目を走り終わる前に、僕の周りには誰もいなくなってしまった。
どうしよう。速度を落とすべきなのだろうか?
「ギル。周りは気にしなくていい。自分のペースで走れ」
悩んでいた最中、エルゼ女史の声が響いた。
その言葉に振り返ることをやめ、速度を上げることにした。
あっという間だった。
走り終えた僕は、エルゼ女史の隣で筋肉をほぐす為に柔軟体操をしていた。
「ギル、帰ってもいいぞ」
そう言うけれど……体をほぐしながら、まだ走っている貴族様たちを眺める。
ユウキ様とメイスター様は走ることをやめ、歩いてしまっている。
ユーディー様は走っているつもりだろうけれど、速度は歩いているのと変わりがない。
マルセーヌ様は腰に手を当て、気力だけで走っているようだ。
マードリック様は、止まったり、走ったりとリズムがバラバラだ。
「毎年のことだ。待っていると三時間はかかるぞ」
三時間! 確かにそれだけの時間、潰しがきかない。
「エルゼ女史。持久走になにか意味はあるのですか」
優雅な貴族様を鍛える意図が分からなくて尋ねてみた。ここにいる貴族様は騎士団希望でもないのだから。
「午前の授業でも言ったように、体力は魔術の範囲に関わることだ。それに、魔導士になれば魔獣討伐の徴集がかかる。その際、体力がない者、持久力がない者、機動力がない者は足手まといになるだけだ。その時点で魔導士失格だ。最低、ここを十周走れる体力がなくてはいけない」
なるほど。魔導士には魔獣討伐という使命もあるらしい。
ウィードルドで魔獣が現れた時、固い体、獰猛で素早い動きに、かなり苦戦したことがあった。怪我人も多く出た。もっとうまく魔術が扱えたら、と苦い思い出がある。
魔術の範囲も大切だけれど、長期戦になれば体力や持久力は、確かに大事になってくる。
そう昔を振り返っていると、ユーディー様が四肢を突き、しゃがみ込んでしまったのが目に入った。
「ユーディー止まるな。歩いてでもいい。動け」
エルゼ女史はそう言うけれど、なにか様子がおかしい。
ユーディー様は足を抑えて座り込んでしまったのだ。
心配になって急いで駆け寄ってみる。そして、ユーディー様が抑えている脹脛に触れてみた。
これは駄目だ。
「エルゼ女史。脹脛が攣っていて走るのは無理だと思います」
「救護室まで歩けそうか?」
無理だと思う。立てないから倒れているはずだ。
僕はユーディー様の背中と膝の裏に手を伸ばし、抱え上げた。すると驚きを見せたユーディー様が暴れだし、なにか言いたげだ。でも、息が荒いため言葉にならない。かなり痛そうだ。
「僕が救護室まで運びます」
「頼む」
エルゼ女史の許可が出たのでジタバタするユーディー様を急いで運ぶ。
校舎内にある救護室のドアを開け、女性校医に事情を説明した。
「そんなに慌てることはないわギル様。とりあえず、そこに座らせて」
平然としている校医の言う通り、室内の中央にある椅子へユーディー様を落ち着かせる。
「S組恒例の走り込みね。活動不能者第一号は……確か、ナンデイーブのユーディー様でよかったかしら」
「はい」
真っ赤な顔をしたユーディー様がうなずく。
校医は棚から取り出した小瓶を彼女に手渡した。
「青ポーションでいいわね」
ユーディー様はそれを受け取ると、フタを開け、一気に飲み干す。すると、苦しそうにしていた呼吸が整った。
「足が攣ったのなら、このあとの続きは無理ね」
「体力が戻ったので、やれます」
「無理よ。体力が戻っただけで足は治っていないのよ。立てないでしょう」
「ユーディー様、僕もそう思います。エルゼ女史に伝えてきます」
無理強いするユーディー様と目が合うと、彼女が僕から顔を背けた。
「許してあげなさいユーディー様。あなたのことを思って助けてくれたのよ」
「はい。わかっています」
二人の会話に僕はハテナとなる。許して、とは、なんのことだろう。なにか悪いことをしたのだろうか?
「そもそも恒例の走り込みは、みんな走ることで精いっぱいなの。ユーディー様みたいに足が攣った生徒はみんな、立てないから這いつくばってここまでくるわ。そんな惨めな姿を晒さずに済んだことを感謝すべきですよユーディー様」
「はい。……お礼が遅れて申し訳ございません。ありがとう存じますギル様」
「いいえ。僕は走り終わって暇をしていただけなので。えーとなにか僕、悪いことをしたのでしょうか?」
二人の会話から察するに、なにかをしでかしたんだと思う。今後のためにも知っておきたい。
そう思って訊ねると校医が教えてくれた。
「ここの領地一帯では、公務をする際、男性は右、女性は左に立つという風習みたいなものがあるのよ。そのため、女性が甘える時は右側の男性に凭れることが多いのよね。だから男性と女性の契りを交わす際、女性の頭を右にして男性が抱きかかえるの。ちなみに救護の場合は頭を左にして運ぶわ。まあ、状況によりけりだけど」
男性と女性の契り。それって――想像して顔が熱くなってきた。
慌てて僕はユーディー様を運んでいた時の状況を思い返し、確認してみる。
確か右の腕にはユーディー様の肩を……頭は……。
ハッとして頭を下げた。
「ユーディー様。申し訳ございません。僕、そんなこと知らなくて」
「大丈夫です。本当に。気になさらないでください」
恥ずかしくなった僕は逃げ出したくて、救護室を出ることにした。
「エルゼ女史には僕から話しておきますから」
と、伝える声が裏返ってしまった。
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