痛み
湖面に写る悍ましいモノから目を背けて、ミロンはその場で蹲った。
その行動は現実逃避の表れである。
ミロンの脳内で、何かが駆けずり回る。それは記憶であった。
今までの、記憶。
幼馴染の言動をする中年男性と過ごした日々。両親を真似た化け物との日常。
妹を自称する腐敗した何か。
「ぼくはあんなのと」
己が犯してきた間違い。狂気しかなかった日常に、ミロンは慄いていた。
身体を覆うのは、身を潰しそうなまでの嘔吐感。いっそ、吐いてしまえれば楽なのに、身体がそれを許してくれなかった。
「……何が起きてるんだ?」
いつの間にか始まっていた非日常。ただ生きているだけだった。
それなのに、いつの間にやら地獄に落ちていた。気が付いたのは偶然。
小さな違和感から生まれた、偶然なのだ。
偶然がなかったらと想像すると、ゾッとする。ミロンは未だに、あの地獄を心地の良い場所だと盲信していたであろう。
「怖い」
ミロンには自分が誰なのかすらもわからない。ここが何処なのかも、最早あやふや。
「ぼくは誰なん……痛、い?」
ミロンは己の左目を押さえつけて絶叫を上げた。眼球の中で何かが暴れ回っているような感覚。
突然現れた痛みから逃げようと、ミロンは必死にのたうち回る。けれども、痛みからは逃れられない。
目の奥が焼けるように熱い。
絶叫で声がどんどん枯れていく。
苦痛から涙が零れ落ちる。
「ぃぃひぁいいあ、ああぁあぁぁ! ごめんなさい、ごめんなさい、やめて。ぼくが、ぼくが悪かったから、許してぇ!」
意味もなく許しを乞う。無論、許してくれる者など存在しなかった。
筋肉が痙攣し、身体が魚のように跳ね回る。痛みに身体が反り返り、頭が脚に触れかける。壮絶な痛み。
それでもミロンは止まらない。彼の痛みは止まらない。意識を失うことすらも、できはしない。
痛みを堪えようと握り締めた地面に爪痕が残る。爪が剥がれ落ちるのも気にしていられない。
それ程までの激痛。
「はぁはぁ」
呼吸を素早く繰り返して、焦点を失った目で周囲を見渡す。誰でも良かった。
あの偽物でも良かった。
誰かに助けて貰いたかった。
しかし、ミロンの願いとは裏腹に、ここには誰もいなかった。
助けてくれる者などいない。
「う、ぅぅ。一体、何……が」
痛みの正体を確かめようと、ミロンは戦々恐々といった様子で湖に再接近する。
這うようにして、どうにか湖面を覗き込む。
そこに写っていた彼の瞳は異様な輝きを放っていた。紅い閃光が爛々と輝く。
何よりも目を引くのは、その瞳に浮かび上がる紋様であった。
三つの小さな円が浮かんでいる。そして、その三つの円を結ぶように線が走る。逆三角形のように、ミロンの目には見えた。
まるで御伽噺に出てくるような、魔法陣である。その模様の中に、謎の言語で文字が羅列されていた。
「何だよ、これ!?」
悲鳴で疑問の声を上げ、ミロンは錯乱したように己の眼を掌で覆う。
それでも湖面には、紅い輝きが反射している。
「これが……この痛みの原因か?」
痛みのストレスかそれとも他の何かが原因なのか。理由は不明であるが、ミロンの髪に白いものが混じり始める。その現実が、彼の焦りを更に加速させる。
「そうだ。これが、なければ」
自らの眼球に指を入れて触れた。しかし、そこにあった感触は予期していたモノとは違っていた。
硬い。
「これがぼくの目?」
違う。
このような硬いものが瞳である訳がない、とミロンの錯乱は強まる。
脳に浮かぶのは、たった一つのこと。
潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。潰さないと。
「うわあああ!」
地面に落ちていた木の枝を拾い上げ、勢い良く眼球へと突き立てる。
カラン、と無機質な音が響いた。
だから無理矢理押し込んだ。
眼球の潰れる音がした。泥を掻き混ぜたような、耳に残る不快な音。目から何かが滝のように流れていく。
鋭い痛みが瞳に走り、脳を焦がす。けれども、痛みはそこで止まった。
狂いそうな痛みはまだまだズキズキと残るが、それすらも最初の痛みと比べれば気の所為程度であった。
はぁ、と息を吐く。
溢れ出る血液が、地面に小さな池を作り出した。疲労からか、ミロンはその場に倒れた。べちゃり、と血溜まりを踏む音が耳に入る。
「な、何だったんだ、一体」
眼球から木の枝を引きずり出す。痛みが麻痺している今だからこそ、簡単にできる行為であった。
「だけど、まあ、もういいや」
苦痛から解放された安心感からミロンはようやく意識を手放せた。
それから何時間眠り続けていたのだろうか。ミロンはゆっくりと目を覚ます。
異音が耳を擽り、その不快感が彼の意識を覚醒させたのである。
「もう痛くはない、けど」
片目が見えない。
ただでさえ暗くなっているというのに、片目ではほぼ何も見えないのだ。
周囲を見渡すが、それも意味はない。何も見えないのだから。
ただただ音だけが聞こえる。
ぬぷぬぷ、と。
何かを汚らしく咀嚼するような音である。
ミロンは警戒する。
あの中年男性のような化け物が、この辺りを彷徨いているのかもしれないからだ。
耳を澄ます。
音の出所が判明する。それはミロンの足元からであった。
「何!? 何なのさ!」
闇に瞳が慣れていく。そして、音の正体が判明する。
幸か不幸か。ミロンの予感は不発に終わった。それは中年男性のような化け物ではなかった。
……別の化け物であった。
ナメクジのようなぶよぶよの肉体。そこには無数の蛭のような口が蠢いている。
それがミロンの肉体へ向かって来ていたのだ。
また、その化け物の数は一体ではない。何十、何百もの化け物がここには存在していた。
中には、ミロンの身長を超える巨大なものもいた。
「っ!」
最早、悲鳴すらもでない。
多量の汗がミロンの額に浮かび上がっていく。
……もう、嫌だ。
ミロンはその時、全てを諦めた。もう、頼むから終わってくれ。諦念に満ちた心に、彼は身を任せる。
そんな時だ。
「ようやく見つけたわ」
少女の鈴のような声が、ミロンの鼓膜をくすぐった。




