質問
「あなたは誰ですか?」
震える声で、眼鏡の少年は問うた。目の前の人物は微笑みとも言えない歪な顔をして、答える。
「私だよ。アリス。忘れちゃったの?」
その何気ない言葉に、眼鏡の少年は戦慄を覚えた。まるで背中に大量の蛆虫が這ったかのような気持ち悪さ。
ゾッとする。
その声音、その表情、その造形。
それらは確かに、眼鏡の少年が知る幼馴染そのものであった。ここ数年を共にしてきたアリスそのものであった。
だが、違う。
根本的に違うのだ。
目の前のモノはアリスではない。もうずっと、何年も前から、目の前のモノはアリスではなかったのだ。
キッカケは奇跡。
ふと、何気なく、疑問しただけなのだ。平和だなあ、と、そう思考しただけだった。
そして、気が付いてしまった。突如、洗脳が解けたかのように、眼鏡の少年は真実を知ってしまった。
一つの気が付きで、世界が一変したのだ。
白から……黒へと。
「あなたは……誰だ!?」
もう一度、問う。
「アリスだよ?」
「違う。違う。アリスは」
「私だよ?」
幼馴染のアリスが首を小さく傾げた。その姿に、憎悪や嫌悪を抱く。
「違う! アリスはーー女の子だった」
眼鏡の少年の精一杯の叫びは、まったく相手に響かなかった。
「私はアリスだよ? ミロンの幼馴染のアリスだよ。ねえ、どうしちゃったの?」
「アリスは中年の男じゃなかった!」
目の前でアリスを名乗るのは、明らかに中年の男であった。
そして、だ。
眼鏡の少年……ミロン・アケディは彼を今の今まで本当の幼馴染だと錯覚していたのだ。
このような悍ましいことがあるだろうか。
今まで一緒に笑いあってきた人物が、このような男であったのだ。
憎悪の気持ちを込め、ミロンは中年男性を睨む。
「アリスを何処へやった。お前は誰だ!」
「ミロン、どうしちゃったの? 私がアリス、だよ」
「気持ち悪い! 気持ち……う」
睨むことによって、ようやく理解する。理解、させられた。
目の前の中年男性がただの中年男性ではないということを理解させられたのだ。
異形であった。
顔中がボコボコに腫れ上がり、目と鼻の区別がつかない。顔面の骨格も歪に崩れており、顔面の皮膚は一部が捲れ上がっている。
カサカサに乾いた唇から覗く歯は、黄色く汚れている。歯はズタボロで、見た目だけなら卵の殻のようであった。
微かに鼻腔に侵入してくるのは……腐臭。中年男性の肉体は腐敗していた。
「ば、化け物!」
「酷いよぉ、ミロン」
「く、来るなあ!」
化け物が、ミロンに触れようと手を伸ばしてくる。彼は悲鳴を上げながら、一歩後ろへと下がった。
「う、あ。あぁぁ」
ミロンは疑問する。
どうしてよく見ないと気が付けなかったのだ、と。
助けを呼ぼうと、ミロンは周囲を見渡してみる。ここは街中である。人は沢山いる筈だ。僅かな恐怖を帯びながらの観察は、最悪な形で終わりを迎えた。
街中には、目の前の中年の男性と同じようなモノが大量に歩いていたのだ。
この光景を、ミロンは日常だと錯覚していた。この地獄のような光景を。
何年も。
それはつまり、ミロン自身も異常だということに違いない。
「違う。ぼくはーー違う!」
悲鳴を上げて、自称幼馴染の中年を振り払い、ミロンは我武者羅に駆け出した。
全てがまったくわからなかった。記憶喪失とも言える現象に、ミロンは困惑する。
いいや、記憶は存在する。確かな記憶が存在していた。
ミロン・アケディ。
十八歳。男。背は低めの童顔。大きな眼鏡が特徴の、特徴の少ない青年の筈である。
家族は四人。
父、母、ミロン、妹の四人家族。
アリスという名の幼馴染がいる。
そこまでであった。ミロンが知るのは、それだけであった。
「っ! おかしい。これは……ぼくの記憶、なのか?」
記憶はある。
けれども、覚えがなかったのだ。
「ぼくは……誰だ?」
まるで空っぽの肉体に、記憶だけを埋め込まれたかのような違和感であった。
その違和感に圧倒されて、ミロンはその場に呆然と立ち尽くした。記憶が混乱している。
それでも、ミロンの思考は早かった。すぐに次にやるべき行動を理解したのだ。
……まるでそうインプットされていたかのように。
「湖だ」
湖へ行くのだ。
そこにはきっと本物のアリスがいる。化け物ではない、アリスが居る筈なのだ。
違う違う。あの男は断じてアリスではない。だって、アリスはかわいい女の子なのだから。
ミロンは違うと叫び、錯乱しつつも、幼馴染がいる筈の湖へと向かった。
湖は近かった。まるでミロンを待ち受けていたかのように、湖はそこにあった。
そして、湖には何もなかった。
人の影一つ、そこにはありはしなかった。
「どうして、アリスがいないんだ? いや、どうしてぼくはアリスがここにいると思ったんだ?」
記憶が錯乱している。
ふと、湖の水面が目に入った。その水は残酷なまでに澄んでいる。
……見ないと。
足が湖へと引き寄せられる。マリオネットのような、不安定な足取りでミロンは水面へと近づく。
……見て、証明しなくちゃ。
己は化け物ではないのだと。己が姿を水面に映して、確信したかったのだ。
やがて、水面が足元にまで来た。
ミロンはゴクリと生唾を飲み込み、そして……意を決して水面を覗き込む。
そこにいたのは、
「ぼくじゃない」
一本一本が上質な絹でできているのではないかと錯覚する程の美しい金髪。
全てが調整され、完全な調和を見せている顔のパーツ。宝石のように美しい紫の瞳。
大きな眼鏡には非常に愛嬌がある。
あまりにも、美しい……、美し過ぎる造形であった。
そう、それはまるでーー人形のように。
「違う。これは人形じゃないか。違う。ぼくは人間だ」
不気味の谷。
美し過ぎて気持ちが悪い。
作り物が人間の振りをしているような感覚。自分を演じている、まったく別の何か。
「何だよ、これ」
湖面からミロンを窺うのは、あまりにも美しい、醜い己であった。
今日は三話連続更新です。
三話目は一時間後に更新します。よろしくお願いします。




