第4章
10分ほど考えていただろうか。
ドアの鍵が開き、栞が中からゆっくりと出てきた。
動きが俺を警戒しているようにしか見えないのだが、ここで俺が引き下がってしまうと何も解決しないことは明瞭なので、この空気に耐えるしかない。
まず、俺は栞に何と声をかけるべきなのだろうか。
「さっきはすみませんでした」
栞が先にこう発言したため、俺が考えるという行為はあっさりとゴミ箱に投げられてしまった(北海道ではゴミを捨てることをゴミを投げると言ったりする)。
「私、恥ずかしさのあまりお兄様を追い出してしまって…」
謝罪の気持ちは充分伝わってくるのだが、忘れたい事実を俺に思い起こさせるようなセリフを言うのはやめていただきたい。
だが、当然こんなことが言えるわけもなく、実際には次のような返事をしたのだった。
「俺こそ悪かった。俺が栞を怒らせたんじゃないかと思ってさ」
栞はこのセリフを聞いた直後は何を言っているのか理解していないようだったが、すぐに気がついたらしく、焦りながら弁明を始めた。
「い、いや、そういうわけじゃなく、あの、えーっと…」
「栞、とりあえず落ち着いてくれないか」
俺の提案に栞は素直に従い、深呼吸をした。
ちなみにこの段階で俺は食い違いには気付いたものの、それが何かは全く予測できていなかった。
そして、栞は真実を告げた。
「私がすみれさんとお手合わせすれば超能力の素晴らしさをお兄様に理解して頂けると思いまして…。なので、いつものメイド服では動きづらいので、ジャージに着替えたというわけです」
「そうか、そういうことだったのか…」
ここで俺は栞がいつもとは違う雰囲気だった理由がようやくわかった。
ジャージである。
栞が着ているジャージは、ピンクがベースとなっており、体の側面に位置する部分に白いラインが走っていた。
待てよ、ジャージってことは…。
俺は、栞の脚におそるおそる目線をずらしていった。
「残念だ…」
栞はブルマーではなくハーフパンツを穿いていたのだった。
「お兄様、どうしたのですか?」
いきなり栞に声をかけられて俺は慌てて目を背けた。
「いや、何でもない」
横目で栞の表情を窺うと、別に恥ずかしがっている様子もなく、俺は栞が少し天然っぽいことに感謝をした。
俺は栞と一緒に体育館へと向かった。
体育館の真ん中ですみれさんと澪が会話をしていたようで、俺たちが体育館に入った時には2人並んでこちらを見ていた。
すみれさんは口元を緩めて、澪は目をキラキラと輝かせてという表現が妥当な雰囲気を醸し出していた。
俺はこの2人が俺たちをどのような目で見ているかを気付いてしまったのだが、頭の片隅に無理矢理その思考を追い払うように努力し、何事もなかったかのように2人に近づいた。
「ではすみれさん、私とお手合わせ願えますか?」
いきなり栞はすみれさんに声をかけた。
やはり栞は天然なのだろう。
この雰囲気の中で普段と寸分違わぬ姿勢で接している上に自分が何をしてきたのかを説明せずにこの言葉を発したのだから。
「お、おう…」
すみれさんは栞の全身を一通り見てから一拍遅れた返事を返した。
おそらくすみれさんは栞の一言で先程までの考えが間違いだと思ったであろうから、今回は栞の天然に救われたのかもしれない。
「では、澪と秀くん…だったかは体育館の入り口から少し出た位置から見ててくれないか?擬戦とはいえ、超能力を使った戦闘だし危険だからな」
俺たちの身の安全を心配してくれるのはいいが、俺の名前が曖昧だったのはなぜだろうか。
俺の名前を栞が教えたのは今日ではないはずなのだが。
俺は実際にはこんなことを声に出すはずもなく、体育館入り口に向かった。
「お兄様、入り口から出たら左側に『防壁』と書かれたスイッチがありますから、それを押してください」
俺は後ろから大きな声で教えてくれた栞に返事をする代わりに、左手を挙げたのだった。
俺と澪が入り口から少し出ると、俺は栞に言われた通りにスイッチを押した。
すると、体育館の壁から1mくらいの所に床から強化ガラスのようなものが出てきて、天井まで2mくらいというところまで伸びていった。
この倉庫は一体何なんだろうか。
倉庫丸ごと変形してロボットになったりはしないよな。
「では、始めるとするか」
すみれさんがそう言ったとき、栞とすみれさんの距離は15m程度離れていた。
栞は右手を前に出し、白色光が右手から放たれた直後にそこから何かをすみれさんに向けて打ち出した。
しかし、すみれさんの近くにその物体が近づいた途端、すみれさんはそこに右手を動かして右手から赤色光が出た直後に一瞬だけ火が出て、物体は消えたのだった。
「すごいですね。栞が空気を圧縮してすみれさんに打ち出し、すみれさんは圧縮された空気を火で加熱することで圧縮された空気の分子運動を活発にし、圧縮を解いてしまうなんて…」
「なあ、澪。俺には澪が何を言っているのかわからんのだが…」
澪は独り言のつもりで言ったのだろうが、俺は超能力者に関する知識があまりないので尋ねてみたのだった。
「まあ、最初はそうでしょうね。でも、とりあえず栞が『圧縮』の超能力者、すみれさんが『火焔』の超能力者だということを理解して見るだけでも変わると思いますよ」
「そうか、ありがとう」
随分と澪は丁寧に説明してくれたものだと思った。
当然、擬戦の方は俺たちがこんな会話をしている間にも進んでいるわけであり、栞は圧縮した空気を打ち出しながらすみれさんに少しずつ近づいている。
そして、栞はその空気を打ち出す間隔を進めば進むほど短くしているように思われる。
一方、すみれさんはその空気を1発も外すことなくすべて防いでいる。
「すごいな…」
何が起こっているのか完全には理解できていない俺だったが、目の前で起こっていることは現実であるといううことに驚きを隠せない俺なのだった。
栞とすみれさんの距離が7mにまで迫ったとき、栞は攻撃も前進もやめてしまった。
そして、栞は軽く膝を曲げて前かがみになると、足先から先程よりもすこし強めの白色光が発されて、宙に軽く浮いた状態ですみれさんに突っ込んでいったのだった。
栞の手には圧縮した空気が作られ、そしてそれを打ち出すことなく刀のようにすみれさんに当てようとする。
しかし、すみれさんは素早い動きで膝を曲げてその攻撃を躱し、栞の脚を蹴り上げ、栞はそのまま宙で回転して仰向けに床へ倒れた。
「勝負あったな」
すみれさんは仰向けで倒れている栞の顔を軽く覗き込みながらそう言った。
「澪!防壁スイッチを押してくれ」
すみれさんは澪に向かってそう言うと、澪は素直にスイッチを押し、強化ガラスもどきは床に収納されていった。
そして、俺と澪はすみれさんと栞の所へと向かった。
俺たちが向っている間に栞は立ち上がり、埃を払っていた。
「栞、大丈夫?」
澪が心配そうに声をかける。
「すみれさんには負けちゃいましたけど、大丈夫ですよ」
栞は笑顔で答える。
あれだけ勢いよく床に倒れたのだから無理しているようにしか思えないが。
「すみれさん、ありがとうございました」
栞はすみれさんの方を向いて、右手を差し出した。
「こちらこそ」
すみれさんはそれを強く握り返した。
外に出た時には、空はすっかり茜色に染まっていた。
俺と澪は電車、すみれさんは地下鉄、栞は家がここから近く徒歩らしいので、それぞれ別々に帰った。
電車の中で俺と澪はこんな話をしていた。
「なあ、栞が最後にすみれさんにどうやって向かっていったんだ?」
俺が気になったわけではなく、澪との会話を始めるきっかけを作るための質問だった。
「あれは足元に一時的に強力な圧縮した空気を作り、そして時間が経てば膨張するようにしたんですよ。その膨張を利用して突進したんです」
「まあ、何となくわかった」
分子が云々言われるよりは理解できた。
俺は理系科目だけ究極にできないんで。
「ねえ秀さん?もしかして、秀さんと栞って付き合ってるの?」
いきなり何てこと言い出すんだ!
「はあ?どうしてそうなる!」
「だって、倉庫で2人ともしばらくいなかったじゃないですか」
「あれは栞が心配になって…」
これ以上のことを言うと墓穴を掘りそうな気がしたので、やめておいた。
「ということは、秀さんが栞のこと好きなんですかぁ。ふーん?」
この女思い込み激しいうえに何か腹立つ…。
「じゃあ、私この駅で降りますね。栞さんとがんばって!」
そう言って澪は電車を降りて行った。
俺はどうやって澪の誤解を解こうかとこの日の夜は頭を抱えたのだった。