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 次の患者さんどうぞ。


私の呼びかけにゆっくりと応える老婆。すべてがゆっくりな動作に少し苛立ちを覚えるも、そこは堪える。よいしょと言いながら椅子に腰かけてふうと息を漏らす。


今日はどこが調子悪いんですか?


 老婆は耳に手をあてて聞き取る仕草をするも、よくわかっていないらしい。もう一度同

じことを尋ねると何かを思い出したように頷き始めた。老婆は口を開けてちょいちょいと

指で口腔内を指す。私はライトを強めにして、奥を覗く。どうやら喉が腫れていて声がう

まく出なかったらしい。ここ最近、空気が乾燥しているからな。それが原因かもしれない。


 じゃあ、口を開けててください。薬を塗ります。


 私は口を開けたままという身振りをすると、小さく頷く。綿に薬品をたっぷりと浸し、

老婆の患部に塗り付ける。むせかえる老婆を気にせずに薬品を塗り付け、適当なところで

綿を屑篭に放る。


 はい。これでしばらく様子をみてください。診察料は受付でお願いします。


 老婆は深々とお辞儀をして、またゆっくりと待合室へと戻っていった。診療録に今日の

診察内容を記録し、所定の場所に戻す。しっかりと手を洗って次の患者がいるかを確認す

ると、助手からもういませんと報告を受けた。


 そうかい。じゃあ、今日はもう終了の札を出しておいてくれ。


 助手はすぐに札を持って玄関の戸口に引っ掛けて戻ってきた。その後、今日の出来事を

日誌に起こしてからさっさと帰っていった。まぁ、長く居座られても困るからそっちの方

が助かる。

 私だけになった診療所は静寂を纏い、ただそこにあるだけの存在だった。私は眼鏡につ

いた埃を拭き取り、かけ直す。そして、書類を持って助手の知らない部屋へと向かう。こ

こは私以外知りえない秘密の部屋。言ってみれば個人の趣味の部屋と大して変わりない。

鍵を差し込み、右に回す。かちりと心地よい音が手を伝い、鼓膜を震わせる。いつ聞いて

もこの音は私をぞくぞくさせる。

 中に入ると地上の診察室とは違う薬品の臭いが鼻腔にあいさつをした。一般人であれば

その臭気は吐き気……いや、嫌悪感しか感じないだろう。私にとっては芳香剤となんら変

わりがない。こつこつと靴の音を響かせてぼんやりと浮かぶ明かりの元へと向かい、腰を

下ろす。乱暴に資料を手放し、今一度鼻から呼吸をする。なんとも清々しい気持ちだ。さ

て、少し前から作成していた薬品はどうなっているかな。私は一息ついてから別室へと移

動した。

 別室には試験管、フラスコなどの実験器具が並びその脇には作成途中の薬品レシピ、枯

れた毒草の茎、汚れた手袋が無造作に置かれていた。そして、その手袋の近くにあるフラ

スコの中で揺れている赤紫色の薬品。これが完成すれば次の工程へと進むことができる。

手袋を装着し、フラスコに触れる。無自覚の振動が液体を揺らし時折液体と液体がぶつか

る音が小さく響く。底面を確認しようとフラスコを上に掲げた時、突然大きな音をたてて

砕け散った。赤紫の液体が私の顔全体にかかり、皮膚が焼ける感覚に続き痛覚が嘲笑う。


 あぁあぁぁっ! くそっ! 失敗なのかっ!


 じゅうじゅうと皮膚が焼ける音と私の悲鳴が響く。急いで水で顔を冷やし白衣で拭う。

見たくはないが、自分の顔を鏡で確認してみる。そこには右半分が薬液と同じ赤紫色に爛

れ、筋肉が露出するほど皮膚が溶けていた。まるで怪物をみているようだった。そして、

それが自分の顔だとは信じたくなかった。ぶるぶると体を震わせ、悲鳴以上に声を上げる

と机の上にあった器具や材料、レシピをぶちまけながら暴れた。


 くそっ! また失敗なのか! いつになったら成功するんだ!


 はぁはぁと肩で息をし、散らかった部屋を見ながら私の意識はどこかへ飛んで行ってし

まった。それも暗いという言葉では到底生ぬるい程の闇そのものへと。


 夢をみた気がする。それが目を開けて最初に思ったことだった。私は夢には興味がない。

意味不明だし、論理的に解明ができないことが多すぎる。普段ならそこで思考を止めるの

だが、今回は特別気になったことがあった。


 誰かが呼んでいたな。私のことを。なぜだろう。


 その夢とは誰かが私を呼んでいるだけだった。しかし、夢にしてははっきりとしていて、

なぜか気にしないという選択肢は浮かばなかった。その声の主というのは思い当たる節が

一切なく、例えるなら腹の奥底から響く重低音といったところだろうか。ゆっくりと体を

起こし、辺りを見回す。すると、どういうことだろう。さっきまで散らかっていた部屋は

すっかり片付いていたのだ。実験器具やレシピ、素材が元にあった場所にあったのだ。


 ? なにがあった? 確か全部ぶちまけたはずなのだが……まさか、助手が入ったのか


疑いを持ったまま地上への階段を上り、受付を確認するも、そこには誰もいない静寂し

かない診療所だった。鍵はかかったまま。となると、いったい誰が……? ますますわか

らなくなった私は一旦地下へと戻る。ソファに腰を下ろし思考を巡らせる。だが、残念な

がらどんなに思考を巡らせても答えは出なかった。大きくため息をつき、このことについ

て考えることやめた。実験を再開させようと素材庫へ向かう途中の鏡を見て私は驚いた。


 な……なぜだ。治っている……?


 さっきまで見るも無残な顔だったのに、それが元に戻っているではないか。痛みは全く

なく寧ろ好調だった。好調なのはなにも傷口だけではない。なぜだか頭も冴えわたってい

て……これなら何でも成功しそうな気がしていた。

 実際、私が作りたかった薬品は調合に成功し、次の段階へと進むことができた。それを

繰り返していくうちに徐々に自信が付き、レシピを見なくてもその先のことまでがわかるようになっていった。その時、なぜそうなったかを考えることはなく、ただひたすら実験

に没頭していた。


 実験がひと段落し、満足した私は帰る準備を始めようと扉に手をかけた。その時、夢に

出てきたあの重低音が聞こえた……気がした。この音とさっきの感覚は関係があるのかど

うかはわからない。だけど、私は実験に成功した満足感が勝っていてそれはどうでもよか

った。これでようやくさらに一段階上の工程に挑戦ができる。そう考えただけで高揚感が

抑えられなかった。まぁ、焦ることはない。また明日、退屈な診察が終わればできること。

それが終われば……そう自分に言い聞かせながら、扉に鍵をかけ診療所を後にした。この

時、私の首辺りになにかの印が刻まれていることに気が付いていなかった。

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