第四章:硝煙の糧 [第五十二話] 崩壊の方舟
肩を貫いた鉄柱が、冷たく、そして熱く沙耶の肉体を壁に縫い付けていた。
足元では、物言わぬ肉塊へと成り果てた徴収官が、重力に従って静かに沈んでいる。
沙耶の視界は、どろりとした鮮血が睫毛を濡らし、世界を深紅のフィルター越しに映し出していた。
意識の端々が、爆炎の熱気によって、陽炎のように溶け始めていく。
だが、彼女の脳内にある唯一の論理回路が、まだその活動を止めることを拒絶していた。
「……計算、未完了。……糧を、……届けなければ」
沙耶は、溢れ出す血を咳と共に吐き出し、右手を壁に突き立てた。
彼女は、自身の肩を貫く鉄柱を、敢えて支点にして体を前方へと押し出す。
肉が裂け、骨が軋む、正視しがたい音が静寂に近い倉庫内に響き渡った。
絶叫すら、もはや声にはならなかった。
激痛が全身の神経を焼き切り、彼女の意識を一度は白く塗りつぶしたが、
沙耶は自身の舌を噛み切ることで、強引にその闇を振り払った。
ドサリ、と彼女の体が血の海へと崩れ落ちる。
沙耶は、動かない左腕を引きずりながら、数メートル先にある荷役用管理ターミナルへと這い進んだ。
床に刻まれる指先の跡は、彼女の命を削り取った赤黒い軌跡となって伸びていく。
崩落し続ける天井から降り注ぐ瓦礫が、彼女の背中を無慈悲に打ち据えるが、
沙耶はその一打一打を「自分がまだ生きている」証として受け入れた。
ターミナルに辿り着いた彼女は、震える右手を伸ばし、血で汚れたキーボードに指を置いた。
康二が命を懸けて繋いだ回路は、まだ、微かな光を灯し続けていた。
彼女は、朦朧とする意識の中で、物流システムの制御コードを高速で打ち込んでいく。
視界は既に二重、三重に重なっていたが、彼女の指先は、
叩き込まれた「習性」を凌駕する「意志」によって、正確な座標を弾き出した。
ゴォォォォォン……。
倉庫の深淵から、重厚な機械駆動音が響き渡った。
天井の巨大なクレーンが、火花を散らしながら動き出し、超巨大コンテナを吊り上げる。
沙耶が指定したのは、施設の予備電源をすべて使い果たす、最後の一撃。
コンテナが傾斜し、そこから溢れ出した数万食分、計二十五トンに及ぶ缶詰や乾パンの山が、
待機していた大型トラックの荷台へと雪崩のように降り注いだ。
鉄板を叩くその凄まじい轟音は、沙耶にとって、どんな音楽よりも美しい勝利の凱歌に聞こえていた。
「……ミッション、……継続」
沙耶は、ターミナルの縁を掴んで、死に体の肉体を無理やり立ち上がらせた。
積み込みを終えた二十五トントラックは、彼女の目の前で、
静かにそのエンジンをアイドリングさせている。
彼女は、右足を引きずり、一歩ごとに命の灯火が消えゆくのを感じながらも、
運転席のドアへと辿り着いた。
肩の傷からは、今も絶え間なく血が溢れ出し、彼女が着ていた服を完全に黒ずんだ色に変えている。
運転席へ乗り込む動作だけで、彼女の意識は数回、完全に途切れた。
それでも、彼女はハンドルを握り、折れた左腕をダッシュボードに固定した。
彼女の脳裏には、明日、市役所のロビーで、この糧を分け合う仲間の姿が、克明に描かれていた。
あの不器用な恭二が、驚き、そして自分に駆け寄ってくる瞬間のことを。
その「非効率な幻想」こそが、今の彼女を動かす唯一の燃料だった。
アクセルを、力任せに踏み抜く。
巨大なトラックが、崩落するグランド・アークの瓦礫を弾き飛ばし、
闇に包まれた脱出路へと咆哮を上げた。
背後で、ついにメインタンクが爆発し、地下倉庫のすべてが紅蓮の炎に飲み込まれていく。
沙耶は、ミラー越しに消え去る深淵を一瞥もせず、
ただ前方の、かすかな希望が眠る方角だけを見つめていた。
硝煙と、血と、そして圧倒的な「重み」を背負って。
崩壊する方舟は、地獄の底から這い上がっていった。




