【断章:灰色の日常に灯る火⑪】
テラスモールへの決死の出発を数時間後に控えた、午前二時。
地下ロビーの喧騒も、避難民たちのすすり泣きも、今は深い夜の底に沈んでいる。
彼らが「家」と呼ぶ段ボールの城の内側には、康二が投影した「天井の星空」が静かに回っており、
青白い光が十人の顔を微かに照らしていた。
中心に置かれたのは、小さな折りたたみ式の作業台。
その上には、恭二が以前の探索で命がけで持ち帰り、
今日この時のために隠し持っていた「最後の一片」があった。
かつてはコンビニの棚に当たり前のように並んでいた、ありふれた板チョコ。
しかし今、この銀紙に包まれた塊は、崩壊した文明が残した最高級の遺産であり、
彼らの命を繋ぐ聖遺物でもあった。
「……よし。全員、いるな」
恭二の声は低く、しかし驚くほど落ち着いていた。
正人が見守り、康二がデータを止め、沙耶がナイフを鞘に収める。
奈々、桜、暦、小林先生、そして亜希子に抱かれた栞。全員の視線が、
銀紙から漏れるかすかな甘い香りに集中した。
恭二は、沙耶から借りた鋭利なナイフを手に取った。
レヴァナントを屠るためのその刃が、今は震えるほど慎重に、茶色の塊へと下ろされる。
パキッ、という乾いた音が、静寂の中で心臓の鼓動よりも大きく響いた。
「……まずは栞の分だ。一番大きいところをな」
恭二が差し出した爪の先ほどの欠片を、栞が小さな手で受け取る。
「……ありがとう、きょーじくん」
口に含んだ瞬間、栞の瞳が大きく見開かれた。
劣化した脂の味、保存状態の悪さゆえの粉っぽさ。
けれど、それは幼い少女にとって、恐怖に凍りついた世界を塗り替えるほどの「魔法」だった。
続いて、一人ひとりに欠片が渡されていく。
奈々は、その甘みが舌の上で溶けるのを感じながら、隣に座る桜の手をそっと握った。
自分たちがまだ、味覚を持ち、喜びを感じられる「人間」であることを、
カカオの苦味が証明していた。
暦は、目を閉じてその余韻を噛み締めた。
それは彼女が手帳に綴ってきたどの言葉よりも雄弁に、失われた世界の豊かさを物語っていた。
最後に、沙耶がその欠片を口にした。
「……熱量が、喉を焼く。……これは、データにはない感覚だ」
沙耶の言葉に、正人が小さく笑った。
「それが『美味い』ってことだよ、沙耶」
全員が最後の一片を飲み込んだとき、そこには不思議な一体感が生まれていた。
胃袋を満たすにはあまりに微量。けれど、彼らの精神には、
どんな軍事物資よりも強力な「ガソリン」が満たされていた。
「……明日、俺たちは外に出る」
恭二が全員を見渡し、言葉を繋ぐ。
「食糧を持って帰る。汚名を晴らす。
……でも、そんなのはついでだ。俺たちの本当の目的は、全員でまたここに戻ってきて、
今度は腹がはち切れるくらいのチョコを、みんなで食うことだ。いいな?」
「……当たり前だ。俺が盾になってやるから、お前は絶対に見失うなよ」
正人が応じ、康二が力強く頷く。沙耶は、胸ポケットの「折り鶴」を上からそっと押さえた。
小林先生が、教え子たちの顔を一人ずつ、深く刻み込むように見つめ、静かに言った。
「……儀式は終わった。あとは、その甘みを絶望に変えぬよう、生き抜くことだ」
天井で回る青い光の星々。
銀紙の微かな残り香。
肩を寄せ合う十人の体温。
市役所の冷たい壁に囲まれた日常の、これが最後の一頁。
彼らはもう、ただの避難民でも、ただの少年少女でもなかった。
互いの魂を一片のチョコで分かち合った、運命共同体。
夜が明ける。
シャッターの向こう側で待つのは、血と錆の海。
けれど彼らの瞳には、もう迷いはなかった。
恭二が全員と目を合わせ、同時にうなずく。
短い合図と共に、十人の戦いが、本当の意味で始まった。




