第一章:生存への選択 [第六話] 衝突と沙耶の判断
第一章:生存への選択 [第六話] 衝突と沙耶の判断
部室棟で金属バットや木刀といった最低限の武器を手にした沙耶、恭二、正人、そして康二の四人は、次なる目的地である家庭科室へと向かっていた。食料、医薬品、そしてナイフや裁縫道具といった細かな物資の確保が目的だ。奈々と桜には、他の生徒たちと共に教室のバリケードを守り、連絡手段を確保するよう指示してあった。
沙耶の先導で、彼らは活性死者の気配を避けながら慎重に校舎内を進み、家庭科室のドアにたどり着いた。ドアの向こうからは、微かに複数の話し声が聞こえてくる。生存者がいる。
恭二が代表してドアをノックし、「三年B組の新井恭二だ!他に男子生徒が三人いる!避難している!」と声を張った。
しばらくの間の後、ドアが僅かに開き、中からリーダー格らしき男子生徒が顔を覗かせた。奥には、バリケードを築き籠城している男女8名の生徒(家庭部員)の姿が見える。
「新井か、無事だったのか!」彼は安堵の表情を見せたが、すぐに沙耶たちの物々しい雰囲気と武器に気づき、訝しげな顔つきに変わった。
「何の用だ?外は危険だぞ」
恭二が状況を説明し、自分たちも避難場所を探していること、食料や医薬品などの物資を分けて欲しいこと、そしてこの学校に留まり続けることの危険性を伝えた。
しかし、家庭部員の生徒たちは頑なだった。
「俺たちはここで先生の助けを待つ。ここなら鍵もかかるし、バリケードもある。物資は渡せない。俺たちの分だってギリギリなんだ」
彼らは外部の状況を正確に把握しておらず、恐怖心からこの場に固執しているようだった。
沙耶が、そのやり取りを冷めた瞳で聞いていた。そして、恭二の前に一歩進み出る。
「ここにいても、助けは来ない」沙耶の声は、周囲の温度を数度下げるかのように冷たい。「外は既に崩壊し、通信もほぼ途絶している。時間は我々の味方ではない。活性死者は増え続け、ここは構造的に籠城には不向きだ。窓が多すぎる」
彼女の淡々とした、しかし的確な状況分析は、恐怖に囚われた家庭部員たちには響かない。むしろ、その冷徹な口調と、武器を携えた沙耶たちの姿に、彼らは敵意を露わにした。
「何を偉そうに!俺たちはここを動かない!物資も渡す気はないぞ!」リーダー格の男子生徒が声を荒げ、他の男子生徒三人も彼に同調するように前に出て、バリケードの隙間を塞ぐように立ちはだかった。彼らの手には、調理実習用の麺棒やフライパンなどが握られている。
沙耶の瞳が、さらに冷たく細められた。これ以上の説得は時間の無駄だと判断したのだろう。
「……退け」静かだが、有無を言わせぬ響きだった。「必要なものだけ確保する。抵抗するなら、容赦しない」
「なっ…!やる気か、お前ら!」
男子生徒たちは、金属バットを持つ恭二や、大柄な正人を警戒しつつも、自分たちの数とバリケードを盾に強気だ。彼らはまだ、村田沙耶という存在の本当の恐ろしさを、全く理解していなかった。
次の瞬間、沙耶は動いた。躊躇という概念が、彼女の思考回路には存在しないかのようだった。
バリケードの前に立ちはだかった男子生徒四人に対し、沙耶は武器すら使わず、体術のみで対応した。
最初に威嚇するように麺棒を振り上げた生徒の腕を、沙耶は視認不可能なほどの速さで掴み、そのまま肩関節をありえない方向へと捻り上げる。甲高い悲鳴と共に、生徒は床に崩れ落ちた。
「ぐああっ!」
別の生徒が驚愕し、フライパンを振りかざして殴りかかってくる。沙耶は、まるで予測していたかのように最小限の動きでそれを回避し、その勢いを利用して相手の体勢を崩すと、鳩尾に寸分の狂いもない膝蹴りを叩き込んだ。
「がはっ…!」
息を詰まらせ、カエルのように潰れた声を上げてうずくまる生徒。
逃げようとした三人目の生徒の足首を、沙耶は低い姿勢から正確な足払いで刈り取る。派手に転倒し、後頭部を床に打ち付ける生徒。
最後まで抵抗しようと、恐怖と怒りで顔を歪ませながら向かってきた四人目の生徒には、沙耶は一切の感情を見せず、その首筋に稲妻のような速さで手刀を打ち込んだ。
一瞬の出来事だった。沙耶の動きは、人間離れした速度と精度、そしてアクロバティックな体捌きを伴い、まるで精密機械がプログラム通りに動いているかのようだった。それは「戦闘」というより、一方的かつ効率的な「無力化作業」と呼ぶ方が適切だった。
四人の男子生徒は、それぞれ呻き声を上げながら床に転がり、戦闘能力を完全に奪われていた。
恭二、正人、そして康二は、そのあまりにも一方的で、容赦のない暴力に、ただ立ち尽くすしかなかった。特に恭二は、沙耶の冷徹さと、人間を「物」のように扱うその様に、強い嫌悪感と恐怖を覚えた。正人も、その圧倒的な力の差に言葉を失い、ただ沙耶の動きを目で追っていた。康二は、恐怖よりも彼女の身体能力への純粋な驚愕と分析欲求が勝っているのか、眼鏡の奥の瞳を細めて沙耶の一挙手一投足を見つめていた。
「早くしろ」沙耶は、呆然とする三人に声をかけた。「必要なものだけ確保する。ここも、もう長くはない」
彼女の言葉に、三人は我に返り、震える手で家庭科室へと踏み入った。怯えきった様子の他の家庭部員(女子生徒と動けなくなった男子生徒)には目もくれず、救急箱、包帯や消毒液、調理用の包丁数本、そして棚の奥にあった未開封の缶詰や乾パンなどを手早くリュックに詰め込んでいく。
沙耶は、床に転がる男子生徒たちを一瞥し、無言のまま家庭科室を出た。
ドアを閉め、彼らがその場を離れてまだ数十メートルも進まないうちに、背後から凄まじい物音と、先ほどとは比較にならないほどの数の絶叫が聞こえてきた。
振り返ると、家庭科室の複数の窓ガラスが、外から雪崩れ込むおびただしい数の活性死者によって、次々と破壊されていくのが見えた。中にいた生徒たちの悲鳴が、地獄の断末魔のように響き渡る。バリケードなど、まるで紙切れ同然だった。
恭二たちは、その光景に血の気が引くのを感じた。
沙耶の判断は、結果として正しかった。非情で、暴力的で、理解し難い行動だったかもしれない。だが、あのまま時間をかけていたら、自分たちもあの教室で同じ運命を辿っていた可能性は否定できない。
沙耶は、崩壊していく家庭科室を静かに見つめていた。その横顔に、安堵も罪悪感もない。ただ、冷徹なまでに事実を認識しているだけ、のように恭二には見えた。
彼女の圧倒的な力と、その非情さ。それが、この崩壊した世界で生き延びるための「正しさ」なのかもしれない。恭二は、そんな割り切れない思いと、沙耶への畏怖、そして言いようのない複雑な感情を抱えながら、仲間たちと共に、次の目的地であるはずの自分たちの教室へと、重い足取りを向けた。