第97話 未申告
足音は近づいていた。戸張は地図読みと草色ジャケットの間に膝をついたまま、通路の奥を見た。ライトの光が揺れている。複数。歩幅はばらばらで、全員が慣れているわけではないことが分かった。
男たちは動かない。意識のある者はいる。銃を持っていた男は、喉の奥で細い音を立てていた。主任格の男は、目だけでこちらを睨んでいる。恐怖と怒りと、理解できないものを見た人間の色が混じっていた。
白いものは、もう見えなかった。袖口にも、床にも、襟足にも、何も残っていない。男たちの体の中に残っているのか、引いたのか、戸張には分からない。ただ、男たちは起き上がれず、声もまともに出せなかった。それがありがたいことなのか、恐ろしいことなのか、まだ決められなかった。
「誰かいるか!」
通路の向こうから声がした。警察の声だった。続いて、別の声がする。
「正式五級の通報者が中に入っています。負傷者二名、銃器の可能性あり。足元注意」
管理窓口側の人間だろうか。戸張には判別できなかった。戸張は息を整えた。
「います。負傷者二名。犯人は五人。銃は一丁、配管の下に蹴っています。まだ触っていません」
自分の声は、思ったより普通に出た。それがかえって気持ち悪かった。
ライトの光が曲がり角から差し込み、数人の影が現れた。先頭は警察官二人。その後ろに、防刃ベストの上から腕章をつけた男が一人。さらに後ろに、救急の装備を持った人間が続いている。
警察官の一人が、倒れた男たちを見て足を止めた。
「全員、あなたが?」
戸張はすぐには答えられなかった。全員、という言葉が嫌に響いた。
「襲われました。銃を持っていたので、先に止めました」
「銃は」
「そこです」
戸張は配管の下を指した。警察官がライトを向ける。黒い銃が、配管の影に落ちていた。先端に黒い筒がついている。
「触るな。鑑識待ちだ。ただ、放置するな。ダンジョンに吸われる。画像証拠を優先しろ」
短い指示が飛ぶ。
もう一人の警察官が男たちを確認し始めた。手錠をかけようとして、少し戸惑う。男たちは抵抗しない。抵抗できない。痛みや負傷だけではない形で、体が止まっている。それでも、外から見れば分からない。腕が折れている。膝を痛めている。腹を打っている。壁に叩きつけられている。そう見える。見えるはずだった。
「こいつ、何か言ってます」
若い警察官が、銃を持っていた男の顔へ耳を寄せた。男の口が動いている。
「しろ……しろい……なか、入っ」
そこで声が切れた。
咳き込んだのではなかった。舌がもつれたのでもない。喉の奥を、内側から何かに押さえられたように、男の口だけが開いたまま固まった。目が見開かれる。言葉を出そうとしているのに、音だけが出ない。
「錯乱しているな。後にしろ」
警察官は短く切った。主任格の男も何かを言おうとしていたが、同じように喉を鳴らすだけだった。目だけが戸張に向いている。
戸張はその目を見返さなかった。
救急隊員が草色ジャケットのそばへ膝をついた。
「こちら、脚部に銃創らしき傷。出血あり。ただし圧迫されています。意識なし、呼吸あり」
別の隊員が地図読みを見た。
「こっちは血まみれですが……」
言葉が途切れた。隊員は地図読みの服を確認し、首元、胸、腹部、腕を素早く見る。血はある。服は破れている。頬に擦過傷、手首に拘束痕。だが、外から見える致命傷はない。
「意識なし。呼吸あり。脈、弱いですがあります。腹部に血液付着。ただ、開放創が見えません」
「撃たれたんじゃないのか」
「分かりません。血はあります。ただ、傷が……」
救急隊員の視線が戸張へ向いた。
「あなたが応急処置を?」
「しました」
「どこを」
「二人です。血を止めようとしました」
救急隊員はそれ以上、そこで詰めなかった。草色ジャケットと地図読みの搬送準備が優先だった。
腕章の男が、救急隊員の手元を見て、わずかに眉を寄せた。すぐ隣の職員へ顔を近づけ、小声で言う。
「状態が合わない。回復薬の可能性、見ておいてください」
「現物は?」
「今は確認できません。搬送優先です」
「ポーション系ですか」
「断定しないでください。ただ、病院には異常空間対応で連絡を」
声は小さかった。だが、戸張には聞こえた。
やはり、そう見えるのだと思った。
地図読みの傷。草色ジャケットの出血。血の量に対して、二人がまだ生きていること。現場に残っていない何か。寄生体ではなく、未申告の回復薬。そう考える方が、ずっと普通だった。
草色ジャケットが担架へ乗せられる。地図読みも続いた。地図読みの服の破れた箇所を見た救急隊員が、もう一度首を傾げたが、そこで時間を使うことはしなかった。
「あなたも外へ。事情を聞きます」
警察官が言った。戸張は頷いた。立ち上がろうとした時、自分の膝が少し震えた。さっきまで走り、殴り、折り、押さえつけていた足が、今になって重い。手には血がついている。地図読みの血か、草色ジャケットの血か、男たちの血か。もう分からない。
外へ出るまでの道は、入る時よりも長く感じた。
搬入口の手前には、さらに人が増えていた。警察車両の赤い光。救急車の白い車体。管理窓口の腕章。近づこうとする一般人を止める制服。槙野の姿もあった。
槙野は、フェンスの外側にいた。中へは入っていない。それでも、顔色は明らかに悪かった。戸張を見ると、一歩だけ前へ出かけて、止まった。警察官に制止されたからではない。自分で止まったのだと分かった。
「見学さん、いえ、戸張さん」
槙野の声は硬かった。
「二人は」
「生きています」
戸張はそれだけ言った。
槙野は目を閉じた。短い呼吸だった。
「ありがとうございます」
礼を言われるのが、きつかった。戸張は何も返せなかった。
救急隊が草色ジャケットと地図読みを運び出す。槙野がそちらへ目を向ける。草色の脚には血を吸った布が巻かれている。地図読みは血まみれだが、外から見える傷は少ない。どちらも意識はない。
槙野の目が、そこで一瞬だけ戸張へ戻った。何かを疑ったわけではない。ただ、分からなかったのだと思う。何が起きたのか。どうして二人がまだ生きているのか。どうして戸張だけが立っているのか。分からないことが、多すぎる。
警察官に促され、戸張は車両の近くへ移動した。簡易の事情聴取が始まる。
「通報後、なぜ中へ」
「血の跡が中へ続いていました。待てば間に合わないと思いました」
「犯人たちとは」
「中で遭遇しました。二人が倒れていて、銃を持った男がいました」
「どう制圧したか、説明できますか」
「銃が見えたので、先に手を止めました。あとは、正直、はっきりしていません」
「はっきりしていない?」
「二人を死なせないことしか考えていませんでした」
警察官はメモを取る。腕章の男は、少し離れた場所でそれを聞いていた。
戸張の言葉は、嘘ではない。だが、本当の中心には届いていない。
それから先は、断片的だった。黒い袋が現場から運び出されたこと。中身を見た警察官の表情が変わったこと。犯人たちが、動けないまま搬出されたこと。銃が回収されたこと。サプレッサーのようなものが確認されたこと。槙野が互助会のチャットに、全員へ現地周辺へ近づかないよう強く送ったこと。
戸張は、同じ説明を何度か繰り返した。
通報した。
追った。
中で見つけた。
銃を止めた。
応急処置をした。
その場では、それ以上のことを聞かれなかった。聞く側も、救助と確保と現場保全で手一杯だったのだと思う。
だが、終わったわけではなかった。
後の事情聴取で、戸張は回復薬について聞かれた。
場所は、病院でも警察署でもない、管理窓口側が用意した一室だった。警察官と管理側の職員が同席していた。録音機が置かれ、書類が並べられている。
「現場で、回復薬またはポーション類似物を使用しましたか」
最初から、その質問だった。
戸張は黙った。
否定する選択肢はあった。
ポーションは使っていない。回復薬も持っていない。支給品もない。そう言うことはできた。
だが、地図読みと草色ジャケットの状態を見れば、何もしていないとは通らない。
寄生体のことは言えない。
なら、別の説明が要る。
「使ったと思います」
戸張はそう言った。
警察官のペンが止まった。
「思います、とは」
「無我夢中でした。持っていたものを使いました。二人が死ぬと思ったので」
「何を持っていたんですか」
「分かりません。正確には」
「分からないものを使った?」
「はい」
管理側の職員が、表情を変えずに聞いた。
「色は」
戸張は一度、息を吸った。
透明。
そう言えば、ポーション情報と噛み合う。
「透明でした」
「容器は」
「覚えていません」
「現場からは見つかっていません」
「使った後、どうしたか覚えていません」
「入手経路は」
「……過去に申告したダンジョンにあったものです」
管理側の職員が、わずかに目を細めた。
「未申告品の使用を認める、という理解でいいですか」
戸張は机の上を見た。
違う。
だが、違うと言えば、寄生体に近づく。
「申告漏れです。荷物に入れたまま忘れていて……いえ、そうですね。二人を助けるために使いました」
答えになっていなかった。
それでも、それ以上は言えなかった。
草色ジャケットと地図読みは、その日のうちに病院で精密検査を受けた。草色ジャケットは脚部銃創と打撲、失血。命に別状はないが入院。地図読みは意識障害、打撲、拘束痕、急性ストレス反応。血液付着は多いが、明確な重篤外傷は確認されない。
その結果を聞いた時、管理窓口側の空気が変わった。
そこから、二人はさらに別の検査を受けることになった。異常空間由来薬剤、またはポーション類似物の投与を受けた可能性。投与疑いによる経過観察対象。そういう言葉が、戸張の耳にも入った。
検査はものものしかった。血液、画像、神経反応、臓器機能、皮膚、傷口周辺、代謝。ポーション残留成分。未知の回復薬に由来する異常反応。
だが、何も出なかった。少なくとも、観測できるものは何も。
草色ジャケットの傷は、銃創として処理された。地図読みの状態は、恐怖と暴行、異常空間内での急性反応として記録された。二人とも経過観察は必要だが、継続的な異常は確認されなかった。
それでも、疑いは消えなかった。
証拠がない。現物もない。成分も出ない。だが、戸張は「透明なものを使った」と言った。未申告ポーション使用疑惑は、薄くではなく、形を持って残った。
寄生体には届かない。
届かないまま、別の疑いが戸張の上に乗った。
戸張は、その言葉を否定しなかった。
否定できる部分もある。ポーションは使っていない。回復薬も持っていない。だが、二人に普通ではない処置をしたのは事実だった。救ったのも事実だった。隠したのも事実だった。
そのどれも、正しい言葉にはできなかった。
後日、意識を取り戻した地図読みは、戸張に会った時、最初に礼を言うより先に苦笑した。
「なんか、思ったより検査がものものしくて長かったです」
草色ジャケットも、松葉杖をついたまま、疲れた顔で頷いた。
「血を抜かれて、写真を撮られて、また血を抜かれて。こっちが何か飲まされたんじゃないかって聞きたかったくらいです」
戸張は、少しだけ笑った。笑えたことに、自分で少し驚いた。
「大変でしたね」
そう言うのが精一杯だった。
二人は知らない。何をされたのか。何で助かったのか。何を隠されたのか。知らないままでいてくれるなら、それでよかった。
ただ、それが本当に二人のためなのか、自分のためなのかは、まだ分からなかった。




