第417話 気にしすぎだよ
次に行く場所は、地図を見ながら少し迷った。
前に歩いた土手や公園より人が多く、それでいて駅前の繁華街ほど密集していない場所。車を置く場所があり、何かあればすぐ戻れて、人が増えすぎた時には公園側へ抜けられる。条件を重ねて探していくと、つくば市の研究学園周辺が引っかかった。
広い道路に沿って商業施設や集合住宅が並び、その間に公園や緑地がある。歩道も広い。写真で見る限り、平日の昼間でも人はいるが、肩をぶつけながら歩くような場所でもなさそうだった。
「次はここかな」
スマホの画面をサチへ見せると、横から覗き込んでいた顔が地図から公園の写真へ移った。少し遅れて、大きく一度頷く。
問題はもう一人。床に伏せている師匠へ目を向けると、灰色の老狼は俺が見ていることに気づいたらしい。頭だけを持ち上げた。
「師匠はなあ……」
外へ出ること自体はもう確認した。犬を連れた人ともすれ違ったし、複数人に見られる場所も歩いている。師匠自身もその程度で困る様子はなかった。
ただ、人の数が増えれば話は少し変わる。大きい。とにかく大きい。ウルフドッグのミックスです、で押し通すつもりではいるものの、道ですれ違って誰も見ない方がおかしい大きさをしている。写真を撮る人もいるだろうし、犬好きなら声をかけてくるかもしれない。
そこでスマホを持ったまま、村瀬さんの名前が一度頭へ浮かんだ。
「……一応、言っとくか?」
口にしてから考える。連絡したところで、たぶん即座に駄目と言われるような話でもない。これまでの様子を説明して、人の多い場所へ連れて行く予定ですと伝えれば、何かしら注意事項くらいは返ってくるだろう。一から説明しないといけないのでかなり手間取りはするだろうが。
『気にしすぎだよ』
大樹の言葉が不意に脳裏によぎる。スマホを閉じた。
見られるのは今回の目的でもある。誰にも見られずに帰ってくることを目指すなら、また山か河原を選べば済む。何かあれば俺が対応する。人が増えすぎたら公園へ移り、それでも厳しければ車へ戻る。それくらいでよさそうだった。
「じゃあ、行ってみるか」
サチが立ち上がり、師匠も前脚を伸ばしてから身体を起こした。どうやら二人の方が俺より話が早い。
研究学園まで来てみると、写真で見た以上に空が広かった。
道路は太いが、建物が隙間なく並んでいるわけではない。ガラス張りの建物の向こうに木が見え、その先には芝生の広場まで続いている。大きな駐車場へ車を入れ、少し人通りの少ない端へ停めた。
後部座席では、サチが窓の外を見ている。黒髪のカツラに大きなサングラス。シリコン製の顔も問題なし。長袖のラッシュガードと手袋で白い部分も隠れており、足元には前に用意した折り畳みの日傘も置いてあった。
「サチ、そのままで大丈夫そうだな」
顔がこちらを向き、一度頷いた。師匠には大きめのハーネスを付ける。
「今日は人多いのでお願いしますね」
尾が一度、車内の床を叩いた。愚問という返事だろうか。
ドアを開けると、最初に外へ出た師匠が駐車場の端で止まった。その時点で、少し離れたところを歩いていた二人組がこちらを見た。一人が何か言い、もう一人も振り向く。
「ううむ、やっぱり目立つな」
まだ十秒も経っていない。
サチが降りてくる。日傘を渡すと、自分で留め具を外して開いた。黒い髪と大きなサングラスの上に日陰が落ちる。この格好なら、肌を隠している理由もさらに分かりやすい。
ドアを閉め、そのまま歩道へ向かう。
広い歩道には、駅の方角から来る人、公園へ向かう親子、自転車を押している学生らしい二人が混ざっていた。全員がこちらを見るわけではない。それでも師匠が視界へ入った人の何人かは、歩いたまま顔を向ける。
サチに関しての視線は気にしなくても良さそうだ。やはり問題は師匠か。
前から小型犬を連れた女性が来た。犬の方が先に師匠へ気づき、一度足を止めたあと、急に甲高い声で吠え始める。
「ワンッ、ワンワンッ!」
「あっ、こら。すみません」
「いえ、こっちも大きいんで」
女性がリードを短くする。師匠は歩みを止め、吠え続ける小型犬へ顔だけを向けた。ほんの一瞥だった。
「……え?」
さっきまで前へ出ようとしていた小型犬が急に身体を低くした。次の瞬間には、その場でころりと横へ転がり、さらに半回転して腹が上を向く。
「……あらら」
思わず声が出た。師匠はもう小型犬から目を外し、その場に座っている。女性も仰向けになった自分の犬と師匠を交互に見ていた。
「この子、こんなことするの初めてなんですけど……」
「……相性ですかね~」
他に言いようがなかった。
小型犬は腹を見せたまま師匠を見ている。師匠が鼻を一度鳴らすと、今度は尾だけが地面を叩いた。
やめてあげてください。
横を見ると、サチも日傘の下から小型犬を見ていた。少し首が傾く。俺も同じ気分だ。
「おとなしいですね~」
「歳なんで。だいぶ落ち着いてます」
「ウルフドッグですか?」
「ミックスです。かなり大きい方に出ました」
「そうなんですねえ。ここまで大きいのは初めて見ました」
女性は少し離れたまま師匠を眺める。小型犬もようやく身体を起こしたが、今度は飼い主の脚の横から出てこなかった。
「じゃあ、どうも」
「はい。すみませんでした」
女性と別れて歩き出す。
「一件目」
サチがこちらを見る。
「別に数えなくてもいいんだけどな」
視線が前へ戻った。師匠はいつも通り歩いている。
「師匠、なにかしました?」
耳が一度だけこちらを向いたが、それ以上の反応はない。
「まあいいか」
公園へ続く道に入ると、人がさらに増えた。ベビーカーを押す夫婦。ベンチで飲み物を飲んでいる老人。芝生では数人の子供が走っている。その奥では、犬を連れた人が二組ほど見えた。
サチは日傘を自分で持ったまま歩いている。傘の向きを時々変えているのは、周囲の人にぶつけないためだろう。俺が教えた覚えはないが、前を歩く人の傘でも見たのかもしれない。
歩道には余裕があるのが助かる。このくらいなら、俺も周囲を見ていられる。
「でっかい犬!」
横から聞こえた声に、師匠の耳が動いた。芝生から戻ってきたらしい男の子が、父親らしい男性の横で師匠を見ている。
「こら!迷惑だろ!すいません。」
「見るだけ!」
宣言してから、本当に見るだけで止まっている。師匠も座り、男の子の視線が頭から前脚へ行き、また頭へ戻る。
「オオカミ?」
「犬だよ、滅茶苦茶でかいなあ」
父親が先に答えた。
「触っていい?」
「ごめんな。もう爺さんだから、今日は見るだけにしてやって」
「爺さんなの?」
「かなり」
男の子が師匠を見る目が少し変わった。
「でっかい爺さん」
師匠は伏せた。俺には、分かっておるよ、とでも言っているように見える。
「ほら、行くよ」
父親に呼ばれて、男の子が手を振った。師匠は尻尾を何度かパタつかせただけだ。
「子供が嫌いという訳ではなさそうですね」
そのジト目にはどんな意味が込められてるんだろうか。
歩き出そうとしたところで、少し離れた場所にいた若い二人組の片方がスマホをこちらへ向けていることに気づいた。距離もあるし、師匠を撮っているのか別のものを撮っているのかも分からない。
一瞬だけ迷って、そのまま歩いた。きにしない、きにしない、堂々と。
『気にしすぎだよ』
また思い出して、今度は少し腹が立った。
「簡単に言ってくれるよな」
日傘の下でサチが顔を向ける。
「いや、サチじゃない」
首が少し傾いた。説明するのも変なので、そのまま進む。
公園の向こうには店が並び、その前を人が行き交っていた。サチはそちらをしばらく見たあと、師匠を見る。師匠はもう前を向いていた。
「……もうちょい行ってみるか」
今度はサチが先に一歩進んだ。日傘が少し傾き、俺と師匠もその後を追った。




