第394話 変わった前提
戸張透に対して設けられた特別な協力関係は、最初から完成した制度だったわけではない。
六層へ到達したという申告を受けた当時、国内ではそこへ届いたことを正式に確認できる探索者すらいなかった。本人は入口を明かさず、能力の全容も伏せたまま、それでも六層生物の素材と戦闘映像だけは持ち込んできた。
止める根拠がなく、放置するには持っているものが大きすぎた。強く踏み込めば次から何も持ってこなくなるかもしれず、その結果として作られたのが、村瀬を窓口とする今の関係だった。
それから時間が経ち、自衛隊側にも六層へ到達し、戦闘を行い、素材を回収して帰還できる人員が育っている。国内のギルドも成長し、海外では複数の部隊が六層へ進出した。六層という言葉だけなら、以前ほど特別なものではなくなったからこそ、見直しの話が出た。
「確認したいんですが」
資料をめくっていた制度見直し担当の職員が顔を上げた。今回の会議へ加わったばかりで、戸張案件については過去の協議資料を中心に目を通してきている。
「戸張氏を特別協力対象として扱い始めた最大の理由は、当時、国内で確認されていなかった六層へ単独で到達していたことですよね」
「発端の一つではあります」
村瀬が答える。
「現在は自衛隊側でも六層へ到達できます。素材も自前で回収できるようになっている。そうなると、当時と同じ水準の特別扱いを維持する必要があるんでしょうか」
会議室の何人かが資料から顔を上げた。発言した本人は、戸張を処分しろと言っているわけではなかった。
専用窓口や周辺監視、情報管理、関係部署への連絡体制など、例外として積み上がった運用にはそれぞれ人と金が付いている。その根拠になった事情が変わったなら、見直すべきではないかという話だった。
「通常の登録探索者へ戻せとは言いません。ただ、段階的に扱いを近づけてもいい時期では?」
「いやいやいやいや」
防衛省側から、思った以上に早く声が飛んだ。
発言した幹部は、それまで机上の資料より、現場から上がってきた装備評価の方を読んでいたらしい。紙を一枚抜き、机へ置く。
「六層へ行けるようになったから同じ、にはなりませんよ」
「しかし、素材の希少性は以前より下がっています」
「素材だけなら、です」
幹部が指先で資料を押した。
「戸張氏は素材だけを持ち込んでいるわけじゃない。加工済みの装備まで供給しているでしょう」
日本側の選抜要員へ渡された特殊装備の一部は、戸張を経由して入ったものだった。
盾や長柄武器、防具、固定具まで、単純に硬い素材を切って形を整えただけの品ではない。使用者の体格や動きに合わせて作られ、実際の戦闘へ持ち込まれている。
「現地で使った隊員から、比較にならないという評価まで上がっています。同じ高階層素材製という括りで並べる方がおかしい、と」
「加工技術の問題では?」
「だから問題なんです。その加工技術を、こちらは持っていない」
政府側もダンジョン素材の加工研究は進めている。それでも戸張から供給される装備には、国内で再現できていない構造が複数残っており、その製作者について戸張は以前から明かしていなかった。
「それに」
幹部は別の資料を開いた。
「こちらが六層へ行けるようになったからこそ、比較できることも増えています」
「比較?」
「六層素材の強度も、六層で必要になる戦力も、今はこちらに実測があります。その基準で戸張氏から入る品を見ると、六層だけで説明する方が難しい」
「七層ですか」
「少なくとも、七層由来と見ている部材はあります」
室内の空気が少し変わった。
「本人から申告が?」
「そんなもの、してくれると思いますか」
幹部が村瀬を見る。
村瀬は首を横へ振った。
「現在の到達階層については聞いていません。聞いても、回答範囲ではないと言われる可能性が高いですね」
「では推測でしょう」
「もちろん推測です」
防衛省側の幹部はあっさり認めた。
「ですが、当時に一人で六層へ潜っていた人間が、その後も同じ場所でずっと止まっている、という推測と比べてどちらを採用します?」
制度見直し担当の職員は、手元にあった古い資料へ視線を落とした。
四本腕の猿の組織を初めて持ち込んだ頃の聞き取りには、六層へ至る経路も加工者も明かされず、人型生物については回答を拒み、能力についても一部しか開示しなかったことが残っている。当時はそれだけで大きな問題になったが、今となっては戸張の周囲へ積み上がっている未開示事項の、かなり初期の部分に過ぎなかった。
「むしろ」
別の防衛省職員が口を挟んだ。
「重要性は増していますよ」
それに反論する声はすぐには出なかった。
六層素材を自衛隊自身が取れるようになり、戸張から得られる六層素材一つ一つの希少性は下がった。その代わりに比較対象が生まれ、何が六層の範囲に収まり、どこから普通ではなくなるのかを以前より測れるようになった。
測れるものが増えたところで、戸張との距離が縮まったわけではない。持ち込まれる品を六層の実測値と並べるほど、その先にまだ何があるのか分からなくなる。
「重要性については分かりました」
制度見直し担当はそこで話を切った。
「ただ、中国側の干渉に割いている人員費用まで含めると、現行体制をそのまま維持するかは別問題です。暗渠周辺、本人周辺、家族周辺。全部を同じ密度で続ける必要がありますか」
「ああ、その件なんですが」
村瀬が資料へ手を伸ばした。
「ちょうど今日、追加の共有が来ています」
暗渠周辺を担当する監視班から届いた報告だった。
「中国側と見られる人員の動きが、途切れています」
「撤収した?」
「そこまでは確認できていません。ただ、戸張さん周辺への接触、暗渠周辺を探る動き、どちらも目に見えて減っています」
「いつからです」
「この辺りです」
村瀬が日付を示した。戸張の旧車両が廃車になった時期と、かなり近い。
「車?」
「以前使っていた車が処分されて、今は一回り大きい車へ替わっています。事故届はありません。中国側の動きとの関係も、現在調査中です」
「本人には聞いたんですか」
「……聞きました」
村瀬の返答が少しだけ遅れた。
数日前、戸張へ装備を返却した時だった。
検査を終えた装備の状態を一緒に確認し、受領書へ署名してもらう。いつもの手順を終え、戸張がケースを車へ積み込んでいるところで、村瀬は思い切って話を振った。
「そういえば、車変えましたよね」
「ええ」
「前の車、何かあったんですか?」
戸張は積み込んだケースが動かないことを確かめてから、こちらを見た。
「ええ、ありましたが何とかしました」
答えはそれだけで、いつもの戸張ならそのまま会話が終わってもおかしくなかった。村瀬も普段なら、事故か故障だったのか、あるいは最近こちらでも気になる動きがあったと前置きして、もう一つくらい聞いていただろう。
これまでもその程度の聞き方はしてきた。戸張は答えたくないことには答えず、それ以外なら案外普通に返してくる。付き合いが長くなるにつれて、その辺りの距離は村瀬なりに掴んできたつもりだった。
なのに、その日は次の言葉が出なかった。
普段、比較的気安く接してきた目の前の人物から、幾つもの視線がこちらを覗いているような気がした。戸張の表情も声も普段と変わらず、後ろに誰かがいるわけでもないのに、ほんの一瞬だけ、一人の人間へ話しかけている感覚が薄れた。
覗いてはいけない、と理屈より先に察した。
「ああ、それなら良かったです。新しい車、大きくなりましたね」
「荷物増えたんで、ちょうどいいですよ」
「でしょうね」
村瀬はそのまま話を終え、いつものように挨拶をして戸張を見送った。自分も車へ戻り、運転席へ座って何気なくルームミラーを見ると、そこに映った顔は自分でも驚くほど土気色になっていた。
「村瀬さん?」
会議室へ意識を戻す。
「すみません」
「本人は何と?」
村瀬は少し考え、余計な感想を削った。
「何かはあったそうです。ただ、『何とかしました』と」
「それだけですか」
「はい」
「追加確認は?」
「していません」
防衛省側の幹部が村瀬を見た。長く戸張の窓口を担当している人間がそこで聞くのをやめたことについて、理由を尋ねる者はいなかった。
「中国側が止まった時期と重なる、と」
「事実関係は調査中です。現段階では結びつけられません」
「本人が何とかした可能性は?」
「それも分かりません」
村瀬はそこだけははっきり答えた。
「なので、中国対応へ割いている人員については、動きが止まった理由を確認した上で配置を見直す余地はあると思います。ただし、それを戸張さんとの関係を引き下げる理由にはしない方がいいです」
制度見直し担当の職員が、古い資料を閉じた。
「六層素材をこちらでも取れるようになった、という前提だけで考えていました」
「それ自体は間違ってません」
防衛省側の幹部が答える。
「昔と同じ理由で特別扱いする必要はないんです」
そこで一度言葉を切った。
「理由の方が増えてるだけで」
会議では、戸張に対する現行の協力関係を維持する方針が確認された。専用窓口も変えず、提供される装備と情報の管理水準も落とさない。本人が明かしていない到達階層についても、現状では無理に聞き出す理由がなかった。
中国側への監視配置については別に扱い、動きが途切れた原因を確認した後、必要なら一部を再配分する。戸張本人への対応を引き下げる話とは切り離された。
会議が終わってから、村瀬は机の上へ残った最初期の資料を手に取った。そこに書かれているのは、六層へ到達した五級探索者をどう扱うかという、当時なら夜通し協議するだけの理由になった問題だった。
現在の資料をその上へ重ねると、古い方はほとんど見えなくなった。




