第369話「明日から」
内閣官房の会議室に置かれた資料は、以前より薄くなっていた。最初の案には、異常空間へ持ち込まれる物の種類だけで十数ページあり、食肉、血液、臓器、研究試料、医療用品、動物死体と並んでいたものを、各省庁が例外まで含めて削ってきた。
改正法はすでに成立し、公布も終えている。今日確認するのは施行令と各省庁の運用基準、それから明日から何が変わるのかを説明する会見資料だった。
「未申告入口は従来運用を維持します。自己申告を妨げる変更はなし。反復利用、営利利用、他人を入れた場合、故意の隠蔽は別扱いです」
「異論ありません」
「では、無資格探索から」
ページが一枚めくられた。無資格探索そのものは以前から禁止されており、今回追加されるのは、その周囲で探索を成立させる行為だった。
「資格を持たず内部へ進入し、探索、採取、討伐その他の活動を行った者は、三年以下の拘禁刑または三百万円以下の罰金。ここは現行の整理を引き継ぎます」
「追加部分は?」
「勧誘、雇用、指示、装備提供、送迎その他の方法で無資格探索を成立させた者。五年以下の拘禁刑または五百万円以下の罰金です」
「送迎だけで五年、とは読まれませんか」
「事情を知らない運転手まで入りません。無資格で探索させることを認識していた場合です」
高校生を集合場所まで運んだだけの者と、外国人労働者を山間部の入口へ繰り返し送り届けていた者を同じには扱えない。条文では行為を広く拾い、故意の有無は捜査と裁判で確認する形に落ち着いていた。
登録探索者が加担した場合は、刑事罰とは別に資格上の処分が加わる。無資格者より先に進んでモンスターを処理し、安全な経路を作る行為も、違法運用だと知った上で行えば補助として扱われる。
「登録取消を必須にはしないんですね」
「加担の程度があります。ただし組織的な運用へ故意に参加した場合は、取消まで想定します」
その確認が終わると、法務省の担当者が青い付箋の残ったページを開いた。今日の資料で、最後まで修正履歴が残っていた部分だった。
「遺体等不正投入について、文言を最終確認します。正当な救助、医療、捜査、研究その他政令で定める理由なく、人の遺体または人体組織であることを認識して、異常空間内へ投入、設置、放置した者は、五年以上の拘禁刑」
読み上げが止まっても、すぐに異論は出なかった。成立に必要なのは、対象が人の遺体や人体組織だと知っていたことと、投入先が異常空間だと認識していたことになる。
「スタンピードとの関係を知らなかった、と主張された場合は?」
警察庁側が尋ねると、法務省の担当者は資料を指で押さえたまま答えた。
「投入罪の成立には影響しません。禁止されている理由や、その先に起こり得る現象まで理解していることは要件にしていません」
「山中の穴へ遺体を捨てたら、偶然そこが未申告入口だった場合」
「異常空間だと認識していたことを立証できなければ、この罪では処理しません。死体遺棄その他の犯罪は残ります」
その下には結果による加重規定が続いていた。遺体投入その他の禁止行為によってスタンピードを発生させ、または既に発生しているものを拡大させた場合は、無期拘禁刑または十年以上の拘禁刑とする。
発生や拡大そのものを目的として遺体投入、構造破壊などを実行した場合については、結果が出る前でも準備、共謀、勧誘、資金提供まで処罰できるようにしてある。その行為によって人が死亡した場合の法定刑には、死刑または無期拘禁刑が置かれていた。
厚生労働省の担当者が閉じていたペンを机へ置いた。
「重いですね」
「軽くする理由がありますか」
内閣官房の担当者が返した。
中国では千人を超える死亡が確認され、エクアドルでも遺体と異常空間を巡る問題が表面化した。アメリカでは、人の遺体を意図的に投入した集団が実際にスタンピードを引き起こし、周囲の住宅地まで巻き込んでいる。
「殺す相手を選ばない方法になり得ます。政府としては、テロに準じる公共危険行為として扱います」
危険性を知らなかったという主張だけで、遺体投入そのものが軽くなる制度にはしない。一方、死刑まで到達する最重類型は、スタンピードの発生や拡大を目的としていた場合や、発生後も危険を認識しながら行為を続けた場合などを中心に想定していた。
「動物死体は?」
「人の遺体と同じ条文には入れません」
農林水産省から出ていた修正も、そのまま残っていた。動物死体、血液、臓器、生物廃棄物などは、量や継続性、投入方法、目的、周辺個体の変化を総合して危険物として規制する。
探索者の携行食まで犯罪にするつもりはなく、負傷者へ使用する輸血製剤や医薬品、適切に管理された研究試料も対象外になる。何を持ち込んだかだけでなく、何のために、どのように扱ったかを見る規定だった。
「次、構造破壊です」
資料の端には、中国で入口爆撃後に確認された深層系の画像が小さく載っていた。入口、階層間通路、転移設備、ボス区画その他の内部構造へ、爆薬や砲撃などによって大規模な破壊を加える行為を原則として禁止する。
ただし、警察、自衛隊、消防などが人命救助や差し迫った危険の回避に必要と判断した場合は例外となり、その後に検証を受ける。消防庁の担当者は該当箇所を確認してから、資料を閉じた。
「現場で壁一枚壊した消防隊員を、後から犯罪者にする条文にはなっていませんね」
「そこは変えていません」
最後に確認されたのは回収品の流通だった。一定額以上の回収品と指定された希少品について、買い取り側に取得者、登録番号、由来入口、取引記録の保存を義務づける。
知らずに一度買った業者と、出所の説明できない品を安値で何度も仕入れていた業者は扱いが変わる。今回の摘発では、違法探索を続けるためには、入口の外側に回収品を金へ変える経路が必要なことも確認されていた。
「以上です。会見資料へ移します」
会議開始から四十二分が経っていた。数か月前なら一日を使っていた内容だったが、今日は誰も最初の議論へ戻らなかった。
◇
午後の記者会見では、未申告入口についての質問が最初に出た。
「自宅でダンジョンを見つけ、怖くなって数か月届け出なかった場合、明日から逮捕されるのでしょうか」
「それだけを理由に直ちに刑事処分する制度ではありません。政府が求めているのは申告です。発見後に反復して利用した、回収品を売却した、他人を内部へ入れた、確認を避けるため意図的に隠蔽した。そのような場合は別です」
「無資格で入った場合は?」
「無資格探索は処罰対象です。未申告入口を持っていることと、資格を持たず内部を探索することは別の行為です」
次に手を上げた記者は、遺体投入の規定を指定した。
「人の遺体を投入した人物が、スタンピードとの関係を知らなかったと主張した場合は?」
「人の遺体であることと、投入先が異常空間であることを認識していれば、遺体等不正投入の罪は成立し得ます」
「危険性を知らなくても?」
「はい。禁止されている理由を知らなかったことを、遺体を投入してよい理由にはしません」
会見場の前列で数人が一斉に手を上げ、その中から宗教上の扱いについて質問が飛んだ。
「宗教上の理由は例外になりますか」
「なりません。信仰や国籍を規制する法律ではありませんので、同じ行為には同じ規則を適用します」
「土葬は規制されますか」
「この法律は土葬を禁止するものではありません。墓地、病院、遺体安置施設その他の施設について、地下の異常空間調査が必要かどうかは別途検討しています。遺体を異常空間へ投入する行為とは分けてください」
アメリカで起きた事件と量刑を結びつける質問も続いた。
「同じ事件が日本で起きた場合、死刑もあり得るという理解でよろしいですか」
「スタンピードの発生や拡大を目的として行為を実行し、それによって人を死亡させた場合、法定刑に死刑が含まれます」
「政府はテロと認定するのですか」
「名称ではなく、危険性で扱います。ダンジョンを利用してスタンピードを意図的に発生させる行為は、不特定多数の生命を危険にさらします。通常の違法探索や不法投棄とは明確に区別します」
そこから先は、外国人労働者にも同じ規定が適用されるのか、未成年者が無資格で入った場合にどう処理するのか、研究機関へどこまで例外を認めるのかと質問が続いた。自衛隊が救助のため入口周辺を破壊せざるを得なくなった場合や、買い取り業者へ求められる確認範囲についても聞かれたが、担当大臣が新しく判断を加える場面はほとんどなかった。
午後十一時五十八分、異常空間管理部門の執務室では、公開サイトに表示された施行までの時刻が残り二分へ変わっていた。担当職員がページを更新しても相談窓口の案内は残り、未申告入口を見つけた人間へ向けた『今からでも連絡してください』という文も消えていない。
その下に新しい赤い枠が加わり、『無資格で内部へ入らないでください』『人の遺体・人体組織を異常空間へ持ち込まないでください』という二つの注意書きが並んでいた。
時計が午前零時へ変わるのを確認してから、担当職員はもう一度だけページを更新した。表示の端に残っていた「施行予定」の四文字が、今度はなくなっていた。




