第298話 残ったもの
最初の通報は、グアヤキル市警の指令室へ銃撃事件として入った。
港湾地区に近い住宅街で複数の発砲があり、倉庫前では車両同士が衝突し、多数の負傷者が出ているという。通報者の一人は動物に襲われたと話し、別の一人は武装集団が住宅へ押し入っていると叫んだ。
同じ地域から短時間に通報が重なっても、内容が一致しないこと自体は珍しくない。夜間の銃撃では、屋内に伏せた住民が音だけで状況を説明する。人数も武器も、逃げた方向も食い違う。
最初に向かった警察車両は二台だった。
幹線道路へ出る手前で、前を走っていた車両が急停止した。後続の警察官が無線で呼びかけても返事はなく、前方車両の赤色灯だけが道路脇の壁を照らしている。
「どうした。応答しろ」
車体の前には、黒い塊が伏せていた。腰ほどの高さがある甲殻型で、六本の脚のうち二本が不自然な方向へ曲がっている。
運転席側の警察官は、それを大型犬か、事故で破損した荷物だと思った。
助手席の警察官がドアを開けた時、甲殻型が動いた。曲がっていた脚が伸び、車体側面へ突き刺さる。薄い金属板が内側へ押し込まれ、助手席の警察官は閉まりかけたドアとの間に挟まれた。
運転席から発砲が始まった。
数発が甲殻を欠けさせ、別の弾が道路を跳ねる。後続車両の警察官も降りたが、前方の車が射線を塞ぎ、狙えるのは脚の一部だけだった。
甲殻型は一台目の車体へ身体を押しつけたまま、銃弾を受け続けた。動きが止まるまでに三人分の弾倉が半分近く消え、その間にも住宅街の奥から銃声と叫び声が重なって聞こえた。
無線では別の通報が読み上げられていた。白い四足の動物が民家の窓から侵入し、細長い何かが屋根を渡っている。黒い大型生物に車を横転させられたという通報まで入っていた。
現場の警察官は倒れた甲殻型を見下ろし、無線機を掴んだ。
「抗争なんかじゃねえ! スタンピード! スタンピードだ! くそったれが!」
指令室から聞き返す声が返る。
『発生場所を確認しろ。異常空間の入口は見えるか』
「中国のアレと同じかもしれねえ! 今すぐ避難させろ!」
『避難方向を指定しろ。発生地点はどこだ』
「分かるか! こっちは住宅街の中だ! とにかくモンスターがいない方向に逃がせ! 軍を呼べ! 俺たちはここで時間を稼ぐ!」
怒鳴り終えた警察官は無線を切らず、そのまま前方車両へ走った。挟まれた同僚を引き出そうとしたところで、路地の奥から白い四足型が二体現れる。
近くの民家から拳銃を持った男が出てきた。
腕や首に見覚えのある刺青があり、警察官なら普段は車を降りた時点で警戒する相手だった。男も警察を見て一瞬足を止めたが、四足型が路地を蹴ったことで互いを見る余裕はなくなった。
「右を撃て!」
「命令すんな!」
男はそう返しながら右の個体へ発砲した。
警察官が左へ二発撃ち込み、同僚が道路へ転がりながら追加で撃つ。右の個体は肩を削られても走る速度を落とさず、刺青の男へ飛びかかった。
男は腕を噛まれながら銃口を腹へ押しつけ、引き金を続けて引いた。倒れた個体を蹴り離すと、血の流れる腕を押さえたまま警察官へ怒鳴る。
「倉庫だ! あっちから出てきてる!」
「入口を知ってるのか!」
「知るか! 仲間が全員あそこから逃げてきた!」
その男が入口を管理していた組織の関係者だと、警察官は察した。問い詰めるべきことはいくらでもあったが、倉庫の方角から新しい銃声が続き、住宅街の門や窓が次々と開き始めている。
「歩けるなら住民を大通りへ出せ! 武器を捨てるな。人へ向けたら俺が撃つ!」
「今そんなことしてる場合かよ!」
「だから後回しにしてやってる!」
二人は別々の路地へ走った。
指令室では通報内容が銃撃事件から異常災害へ変更され、周辺警察署、消防、救急、国家警察の異常空間対策部門、軍へ一斉に連絡が入った。
ただし、封鎖線をどこへ置くか決めるための情報がない。通報地点は倉庫を中心に広がっているように見えたが、住宅街の奥からも負傷者が出ていた。入口の位置も、流出個体の種類も数も分からなかった。
中国で起きたスタンピードの映像は、エクアドル政府も見ている。
大型個体が道路を埋め、軍の火力と市民の避難が同じ場所で衝突した。入口を攻撃した後に、さらに危険な個体が現れた可能性も共有されていた。
知識として知っていても、自国の住宅街で始まった現象を止める準備にはならなかった。
軍が到着するまでの時間に、小型個体は路地へ散っていった。
白い四足型は塀を越え、開いた窓や門から家へ入る。人間を倒した後に身体へ食らいつく様子はなく、動かなくなった者を置いて、別の動くものへ向かった。
細長い個体は屋根や電線を渡り、黒い甲殻型は倉庫と住宅街の境に近い道路で車両や建物へぶつかった。大型の個体ほど倉庫周辺に残り、小型のものほど遠くへ散っている。
後になれば地図上で傾向を読めたが、現場の人間には、別々の場所で襲撃が同時発生しているようにしか見えなかった。
警察官、住民、武装したギャングが大通りへ向かう人の流れを守りながら後退した。
警察官が前へ出て発砲し、弾切れになれば民間人の持つ散弾銃や拳銃が代わりに火を噴いた。普段なら押収対象になる武器が、その場では避難路を数秒保つために使われる。
「そこの家、まだ人がいる!」
「二階だ! 窓から呼んでる!」
「寄るな、屋根にいる!」
誰が警察で、誰が犯罪組織の人間かを確認している余裕はなかった。腕章も制服もない男が子どもを抱えて走り、警察官がその背後を守る。別の路地では、住民が倒れたギャングの銃を拾い、窓へ迫る四足型を撃った。
撃てば傷はつく。
しかし一発で止まらない。
一体に弾を集める間に別の個体が塀を越え、誰かが振り向けば避難する人々の列が崩れる。走れない老人や負傷者は、扉を外した板や毛布へ乗せられ、警察官と住民が一緒に引きずった。
撤退は、一度にできなかった。
十数メートル進んでは角を守り、住民を通し、最後尾が下がる。車を盾にしようとしても鍵がなく、持ち主を探す時間もない。動く車は負傷者の搬送へ使われ、動かない車はその場で障害物になった。
「次の交差点まで下がれ!」
「こっちにまだ三人いる!」
「連れてこい! 閉めちまうぞ!」
警察官が路地の奥へ向けて撃つ。隣では刺青の男が新しい弾倉を入れたが、血で濡れた手が滑り、一度地面へ落とした。
「軍はまだか!」
『到着まで七分』
「七分あればこの通りがなくなるぞ!」
『大通りへ避難車両を回している。現位置を維持できるか』
「できるわけねえだろ! 下がりながら撃ってる! 重傷者がいる、救急を前に出すな。俺たちが大通りまで連れていく!」
怒鳴った警察官の前で、民家の門が内側から開いた。
母親が幼い子ども二人を押し出し、その後ろから白い四足型が現れる。警察官は撃てず、刺青の男が横から体当たりして個体を門柱へぶつけた。
母親が子どもを抱えて逃げる間、男は前脚で肩を裂かれた。
警察官が近距離から撃ち、四足型を倒す。
「立てるか」
「肩だ。脚じゃない」
「なら走れ」
「逮捕は?」
「生き残ってからだ!」
男は笑わず、裂けた肩を押さえて住民の後ろについた。
最初の避難指示は、倉庫から半径一キロを対象に出された。
住民の携帯電話へ警報が届き、屋内退避と窓の施錠が求められた。すでに家の中へ個体が入っている住民には役に立たず、外へ逃げた者には戻るべき家が残っているか分からなかった。
救急車も住宅街へは入れない。
道路には乗り捨てられた車が残り、事故車両が交差点を塞いでいる。負傷者を運ぼうとする家族が逆方向から押し寄せ、救急隊員が徒歩で進もうとしても、どの家や路地に個体が潜んでいるか確認できなかった。
軍の先行部隊が大通りへ到着した時、警察と住民の集団は一つ先の交差点まで押し戻されていた。
軍人が車両を横へ向けて射線を作り、警察官が住民を後方へ通す。武装したギャングには銃口を下げさせたが、その場で武器を没収することはしなかった。
「撃つなら前だけ見ろ!」
「言われなくても分かってる!」
軍人の合図で一斉射撃が始まった。
白い四足型が路上で倒れ、細長い個体が屋根から落ちる。黒い甲殻型は正面から銃弾を受けても進み、車両へぶつかる直前で脚の付け根を砕かれた。
倒せる相手だった。
ただし、一体を止めるまでに時間と弾薬がかかる。その間にも別の路地から住民が現れ、屋根の上では新しい影が動く。
現場指揮官は倉庫への進出を命じなかった。
入口を探しに行けば住宅街へ投入する人数が減る。住宅街を優先すれば流出が続く可能性を残すが、今ここで後回しにできるのは入口の方だった。
「避難路を維持しろ。倉庫には近づくな」
「流出を止めなくていいのか」
「止めに行って、ここの住民を置いていくのか」
返事はなかった。
避難用のバスが大通りへ並び始めた頃、夜は明けかけていた。
最初に乗せられたのは、歩ける者だった。負傷者を先に運びたくても、担架を持って路地へ入れる救助隊が足りない。
家族全員で来た者もいれば、子どもだけを抱えてきた者もいる。夫が家に残っている、母親が二階から降りられない、隣家に赤ん坊がいると訴える声が重なった。
受付役の警察官は住所と人数を書き取った。同じ家から二人が別々に逃げ、互いを行方不明として届けることもある。名字の綴りが違い、住所の番地を覚えていない子どももいた。
一軒ずつ確認しなければならない家が増えていく。
住宅街の南側では、軍の小隊が黒い甲殻型一体を撃破し、その先の路上から住民十五人を救出した。倒した個体は消えず、甲殻を割られたまま道路へ残っている。
ダンジョンの外では、モンスターの死体は消えない。
流れた体液が排水溝へ入り、割れた甲殻が車道を塞ぐ。触れてよいかも分からず、車両で押し退ける判断もできなかった。
軍人の一人が個体の脇を通り過ぎた時、甲殻の下で何かが動き、全員が一斉に銃を向けた。内側から漏れた体液に押された破片だと分かっても、誰も銃口をすぐには下ろさず、笑う者もいなかった。
別の通りでは、動かない白い四足型へ近づいた警察官が襲われた。
前脚と胸部に複数の銃創があり、外見上は死亡しているように見えた。棒で触れても反応せず、回収のため袋を広げたところで突然立ち上がった。
一人が腕を裂かれ、もう一人が近距離から発砲する。それ以降、停止した個体は全て未処理として扱われた。
無力化を確認する方法がない。
動かない個体を道路へ残したまま、周囲だけを封鎖する。家の庭、車の下、屋根の縁にも同じ処置が取られ、住宅街には黄色い規制線が増えていった。
規制線の内側に何がいるか分からない家もあれば、すでに人間とモンスターの死体だけが残っている場所もある。扉が閉まっていても安全とは限らず、開いていても内部が空とは限らなかった。
午前六時過ぎ、軍の無人機が倉庫上空へ到達した。
屋根の一部が破損し、敷地内には複数の車両と人間の遺体が見えた。その奥にある鉄扉から、モンスターが断続的に出ている。
入口周辺には大型個体が集まり、互いに押し合うように動いていた。奥から新しい個体が現れるたび、前にいた小型個体が外へ押し出される。
流出は止まっていなかった。
映像を見た現場指揮官は、倉庫への突入許可を求めなかった。入口の位置が分かっても、近づく道がなく、空爆も爆破も選べない。
中国事案の後、ダンジョン入口と内部構造への大規模攻撃は、何を引き起こすか分からない危険行為として各国へ共有されていた。
倉庫を破壊すれば入口を塞げる可能性はある。さらに危険な個体を呼び出す可能性もあり、どちらも試すには背後の住宅街が近すぎた。
午前七時、避難範囲は北と東へ拡大された。
流出個体がどこまで進めるか分からず、地域ごとの地形で移動距離が変わっている可能性もある。大通りを越えられず同じ場所を行き来する個体や、その場で動かなくなったものも確認された。
遠くへ進めないため止まっているのか、傷を負って動けないのか、次に人間が近づくまで待っているのか、外から判別できない。
住宅街の一角では、避難確認を終えたはずの家から物音がした。
玄関には警察が貼った確認済みの印がある。家族四人はすでに避難所へ到着し、室内には誰も残っていないと記録されていたが、窓の内側でカーテンが動いていた。
警察官が盾を前へ出し、別の二人が銃を構える。
「こちら警察だ! 中に誰かいるなら返事をしろ!」
返答はない。
玄関を開けると、廊下には何もいなかった。居間にも台所にも反応はなく、床には割れた食器と倒れた椅子が残っている。
二階へ上がった警察官が、子ども部屋の前で止まった。
ベッドの下から、細い脚が一本だけ見えている。銃口を向けても盾で床を叩いても、個体は動かなかった。
「死亡確認できず。二階子ども部屋、ベッド下に一体」
『排除できますか』
「できるかどうかじゃない。撃ったら床を抜く。下に味方がいる」
『では封鎖してください』
警察官は返事をせず、階段を下りた。
玄関の確認済みの印は剥がされ、その上から赤い印が貼られた。同じ処置を待つ家は、通りの先まで続いていた。




