第285話 準備運動終了
五層へ下りたところで、走るのをやめた。
通路は四層までと同じ石造りに見えるが、床の継ぎ目が妙に細かい。同じ石材のはずなのに、数歩先だけ表面の色が浅く、両側の壁にも床と平行な擦れ跡が残っていた。
足元へ視線を落とし、床を軽く踏む。
靴底から返ってくる振動が、途中で変わった。石板の下が空洞になっている。
「落とし穴からか」
反応の鈍い場所を避け、壁際へ足を寄せる。踏める幅は人一人分ほどしかなく、走れば足を滑らせる可能性があった。
半分ほど進んだところで、壁の奥から石が擦れる音がした。
前方の床が沈み、その左右から分厚い壁がせり出してくる。空洞へ落とすだけではなく、避けた先で挟む仕組みらしい。
戻るより、抜けた方が早い。
最後の数歩を一気に進み、閉じる壁の間へ身体を滑り込ませた。背中の装備が石へ擦れたものの、挟まれる前に反対側へ抜ける。
振り返ると、通路は壁で塞がれていた。
「帰りは別の道だな」
待てば戻るのかもしれないが、作動時間を測るために来たわけではない。石の擦れる音を背後へ残し、そのまま先へ進んだ。
次の仕掛けは天井だった。
通路の途中を横切る細い溝へ足を乗せた瞬間、頭上の石板が落ち始める。走り抜けるだけなら間に合うが、その先では腰ほどの高さまで石槍が突き出してきた。
勢いを殺さずに跳ぶ。
石槍の上を越えたところへ天井が落ち、背後で重い音が響いた。巻き上がった埃が追いついてきたため、口元を押さえながら先へ進む。
敵も何体か見かけたが、罠ほど面倒ではなかった。
広い部屋の隅にいた個体はこちらへ寄ってこず、通路を塞いでいた一体も、山刀の背で壁際へ押し退ければ通れる。倒して素材を持ち帰るために来たわけではない。
問題は、力だけでは抜けられないダンジョンの仕掛けだった。
進んでいた通路が低い音を立て、前後の壁ごと回り始める。床と壁の向きが入れ替わり、来た方向も進む方向も分からなくなった。
動いている間に飛び出すのは危ない。
壁の継ぎ目へ手を当て、回転が止まるまで待つ。正面へ現れた三本の通路を順に確かめると、右からだけ僅かに空気が流れていた。
右へ進んだが、数分後には同じ部屋へ戻された。
「違うのかよ」
ただし、部屋の形は一周前と同じではなかった。中央通路の入口で石の継ぎ目がずれ、奥から冷たい空気が漏れている。右へ入ったことで、内部の構造が切り替わったらしい。
次は中央を選ぶ。
今度は同じ部屋へ戻されず、下り勾配の通路へ出た。
走れる場所では走り、止まる必要がある場所では止まった。
床が抜けるより先に跳び越えた箇所もあれば、せり出してきた石柱を両手で押し返し、その間へ身体を通したところもある。罠そのものを壊せそうな場所もあったが、内部構造へ余計な攻撃を加える気はなかった。
中国で起きたことを考えれば、壊せるかどうかと、壊していいかどうかは別だ。
五層の終点へ着いた時には、身体より頭の方が疲れていた。
広間の奥には六層へ続く扉があり、その手前で淡い青色の円が光っている。国側の部隊が既に利用しているため、装置そのものが動くことは確認されていた。
俺に反応するかは別の話だ。
円の中央へ乗ると、今度は足元から身体を引かれる感覚があった。
視界が青く染まり、次に瞬きをした時には、一層側のワープの上へ立っていた。
「おお」
正面にいた国側の職員が、持っていた端末を落としかけた。
六人もまだその場にいる。俺が帰ってくるまでの間に装備を外した者はおらず、全員が入口の方を見ていた。
「戸張さん?」
「使えました」
「……五層まで行かれたんですか」
「はい」
職員が端末の時刻を確認する。
その横で、六人のうち一人が俺の靴や装備へ視線を落とした。五層で付いた石の粉と、閉じる壁へ背中を擦った跡が残っている。
「一時間十二分です」
「走れるところが多かったので」
「出鱈目だ」
「罠は結構ありました」
誇るように出た言葉はたぶん、説明にはなっていない。
先頭の男がこちらへ歩いてきた。
「負傷や装備の破損はありますか?」
「ありません、擦っただけです」
「休憩は必要ですか」
「水を頂きたいですね、休憩という休憩は無くても」
男は一度だけ後ろの五人を見た。誰も口にはしなかったが、先ほどワープが使えなかった時とは違う種類の沈黙だった。
職員が咳払いをする。
「念のため、状態確認だけさせてください」
「すぐ終わります?」
「終わらせます」
脈拍と血圧を測られ、装備の固定具を確認される。水も渡されたので、断る理由はなかった。
その間に、ワープの条件をもう一度考える。
暗渠では、俺が五層側から使ったあと、五層へ来たことのない寄生ゴブリンも利用できた。水門では、国側の六人が何度使っていても、俺には反応しなかった。
そして今、俺が五層側から使ったことで、一層側も動くようになった。
寄生体を通じて、使用条件が共有されている。
そう考えれば一応は繋がる。水門に残した群体も今ならワープを使える可能性があったが、ここで呼び出して試すわけにはいかない。
こいつが原因っぽい、から、たぶんこいつが原因だ、くらいには進んだ。
「確認できました」
職員から許可が出る。
「では、改めて移動します。戸張さんは部隊と一緒にワープへ入ってください」
「分かりました」
六人が順に円へ乗り、俺も最後に続いた。
淡い青色が足元から上がり、五層終点の広間へ移動する。先ほど通ってきた罠を全部飛ばせると考えると、ワープが急にありがたく見えた。
六人は到着後すぐに周囲を確認し、扉の前へ並ぶ。
先頭の男がこちらを見た。
「六層では、まず前回の観測地点まで移動します。その後の行動は、現地の状況を確認して決めます」
「俺はどこにいれば?」
「隊列内へ入っていただいても構いませんが、単独行動を希望される場合は、互いの位置を見失わない範囲で」
「ちょっと申し訳ないんですが、先に行って貰っても良いですかね。景色を楽しんでから合流します」
扉が開くと、草の匂いと細かな砂を運ぶ乾いた風が広間へ流れ込んできた。外へ出た先には、映像で見た草原が視界いっぱいに広がっている。
頭上には岩山ほどの塊が浮かび、そのさらに奥を、草木を載せた島がゆっくり移動している。地面へ落ちた影まで大きく動くせいで、空を見ているのに足元の明るさが絶えず変わった。
六人が隊列を作り始める横で、俺は一番近い浮島を見上げた。
「戸張さん」
「はい」
「まずは地上の観測地点へ向かいます」
「ええ、分かりました。お手数掛けないようにこちらが探しますので、いつものように進んで下さい」
先頭の男は、草原の奥へ向けて歩を進める。
俺は一つ深呼吸をして、まるでこの世ならざる世界をじっくり鑑賞するのだった。




