第278話 取引相手
中国側から申し入れのあった非公式協議は、外務省本庁舎ではなく、都内にある政府施設の小会議室で行われた。
出席者は双方三名ずつ。通訳は置かれていたが、発言の大半は日本語で進んでいる。中国側の代表を務める男は、机に置かれた資料へ一度も手を伸ばしていなかった。
「今回、日本国内で発生した襲撃事件について、我が国政府が関与した事実はありません」
冒頭から、その点だけは明確だった。
日本側の正面に座る外務省の審議官は、返答を急がなかった。隣には警察庁と内閣情報部門の担当者が並んでいる。机の上に置かれているのは薄い資料だけで、押収した端末の記録も、七人の供述調書も持ち込まれてはいない。
「こちらも、中国政府が事件を指示したとは申し上げておりません」
「では、なぜこのような協議が必要なのでしょうか」
「そちらから、異常空間由来物品の提供について、改めて協議を申し入れられたためです」
中国側代表の目が、わずかに細くなった。
今回の場は襲撃事件への抗議ではない。少なくとも、正式な議題はそうなっている。
中国側は以前から、日本が保有する高階層由来素材、回復薬、装備品について、研究目的での提供を求めていた。日本側は個別案件ごとに回答を留保してきたが、今回の申し入れに対しては、協議そのものを断ると事前に通知している。
「我が国としては、現在の困難な状況に対処するため、可能な範囲での協力を求めています。貴国も、異常空間が一国だけで管理できる問題ではないと認識しているはずです」
「情報共有については、既存の枠組みを通じて継続します」
「物品の提供について伺っています」
「応じる予定はありません」
審議官は資料を開かなかった。
「回復薬についてもですか」
「同様です」
「高階層由来素材は」
「同様です」
「一部の民間探索者が保有する物品について、日本政府が交渉を仲介することは」
「ありません」
通訳の声が途切れるたび、部屋の空調音が目立った。
中国側代表は、そこで初めて机上の資料へ視線を落とした。日本側から事前に渡された回答書には、提供拒否の理由がほとんど書かれていない。所有権、安全保障上の懸念、研究継続の必要性。どれも間違いではないが、それだけで全てを拒むには弱い。
「これは、先日の事件と関係がありますか」
「先日の事件とは」
「日本人探索者が複数名の暴漢に襲撃されたとされる件です」
「国内の刑事事件について、捜査中の情報をお答えすることはできません」
「被害者が、我が国との取引に関係する人物だという報道があります」
「こちらは確認していません」
「しかし、今回の申し入れを拒絶した時期と重なっている」
「時期が近いというだけで、関係があるとは限らないでしょう」
審議官の声に変化はなかった。
中国側代表の右隣に座る男が、手元のメモへ短く何かを書き込んだ。左隣の女は、日本側三名の顔を順に見ている。
「我が国政府は、日本国内で犯罪行為を命じていません」
代表は、同じ言葉を繰り返した。
「仮に、我が国の国民が何らかの不適切な行動を取ったとしても、それは個人の判断です。政府間の協力とは分けて考えるべきでしょう」
「一般論としては、その通りです」
「では、交渉を拒む理由にはならない」
「政府間の交渉と、個別の取引相手をどう評価するかは別の問題です」
「取引相手?」
審議官は、そこで初めて資料へ指を置いた。
「安定した供給を前提にするなら、相手方の組織が、現場の人間をどの程度管理できているかも考慮されるでしょう」
「我が国の組織統制に問題があると?」
「そのようなことは申し上げておりません」
「では、何を言っているのですか」
審議官は、問い返してきた代表ではなく、その右隣に座る男を見た。
「末端が暴走する相手との取引は、リスクが高すぎると、私なら思いますがね」
室内が静かになった。
通訳は訳す必要がなかった。
中国側代表の表情は変わらない。ただ、メモを取っていた男のペンが止まった。
「それは、今回の事件について何らかの情報を把握しているという意味でしょうか」
「一般論です」
「末端という言葉まで使っておいて?」
「大きな組織であれば、末端の判断が全体へ影響することもある。珍しい話ではありません」
「その一般論を、なぜこの場で口にするのです」
「そちらが、取引を拒む理由を繰り返し尋ねるからです」
審議官は薄い回答書を閉じた。
「いずれにせよ、結論は変わりません。中国政府からの物品提供要請には応じない。民間人が所有する物品についても、仲介は行わない。今後、同様の申し入れがあった場合も、同じ回答になります」
「期限も設けないと?」
「現時点では」
「状況が変われば再検討する可能性はある」
「状況が変わったと、こちらが判断すれば」
そこには、中国側が何をすればよいのかという説明もなかった。
謝罪すればよいのか。関係者を処分すればよいのか。国内の協力者を引き渡せばよいのか。
そもそも日本側は、何が起きたのかを正式には知らないと言い続けている。
協議が終わり、中国側三名が別室へ移ると、代表は通訳と職員が退出するのを待った。
扉が閉まったあと、右隣にいた男が低い声で口を開く。
「知らないはずがない」
「七人が話したのでしょう」
「七人が知っているのは、依頼を受けたことだけです。誰の指示に反したのかまでは知らない」
代表は答えず、椅子へ深く座り直した。
日本側は、現地担当者が上司の許可なく襲撃を命じたことまで把握している。それを知らず、単に中国との交渉を拒絶しているだけなら、あの場で末端の暴走を持ち出す理由がない。日本政府の判断だけではなく、供給する側の人間自身が、中国を取引相手から外した。そのことを、日本側も承知している。
「本人から聞いたのか」
「可能性は高いでしょう」
「襲撃者を制圧したあと、本人が依頼者まで把握したと?」
「分かりません。ただ、日本側はそう信じている」
代表は窓のない壁を見た。
あの担当者は死亡していた。借りていた部屋で発見され、外傷も争った形跡もなく、死因は現在も確認中とされている。使用していた端末も回収前に初期化され、上司との通話内容が日本側へ渡る経路はないはずだった。
「日本側の情報機関が、以前から監視していた可能性は」
「それなら接触前に止めている」
「泳がせていたのかもしれません」
「家族を襲撃対象に含めるところまで泳がせるか?」
右隣の男は黙った。
接触担当者は、本人をただの民間探索者だと見ていた。金額を積み、家族を持ち出せば譲歩すると考え、拒絶されると暴力に切り替えた。
その結果、本人は死亡し、雇われた七人は全員拘束された。中国からの物品供給交渉も、正式な窓口を含めて閉じられている。
「本国への報告は」
右隣の男が尋ねた。
「日本政府が交渉を拒絶した、とだけ書くわけにはいかない」
「では」
「対象本人が、我が国を取引相手として不適格と判断した可能性が高い。現地担当者の独断行動が原因だと付記しろ」
「責任問題になります」
「すでになっている」
代表は机上の回答書を手に取った。
拒否理由は何も書かれていない。
それでも、何を拒まれたのかだけは、十分すぎるほど伝わっていた。
◇
同じ頃、霞が関にある合同庁舎の一室では、別の会議が終わろうとしていた。
壁面の画面には、一人の男の行動記録が時系列で表示されている。
中央省庁の管理職。戸張に関する非公開資料へアクセスできる立場にあり、過去一年で三度、業務上の必要性を説明できない閲覧を行っていた。
中国側関係者との直接接触はない。
代わりに、大学時代の知人が経営する調査会社を通し、情報が外へ流れていた。
「本人の身柄は」
「自宅を出た時点で確保しました。職場と自宅の捜索も同時に入っています」
「接触先は」
「二名を確保。残り一名は監視中です」
画面の端には、男の口座へ入った金額が並んでいた。
一度目は二十万円。
二度目は五十万円。
三度目は、百二十万円。
金額が増えるにつれ、渡した内容も深くなっていた。最初は戸張が正式五級登録者であることだけだったものが、次には政府内部で通常登録者と異なる扱いを受けている事実へ広がり、最後には家族構成と警護計画の一部まで渡っている。
「もっと早く押さえるべきだった、という批判は避けられません」
警察庁の担当者が言った。
「連絡網を特定するために泳がせた。その判断自体は、当時の情報では間違いとは言えません」
「結果として襲撃が起きた」
「はい」
誰も反論しなかった。
内通者を一人捕まえても、別の情報源へ切り替えられる。そう考え、監視を続けた。偽の資料も混ぜ、誰へ流れているかを追った。
中国側が戸張本人へ接触しようとしていることまでは把握していた。
家族を材料にし、断られた担当者が、上司の命令まで無視して襲撃を依頼するところまでは読めなかった。
「戸張氏への説明は」
「村瀬が行います」
「監視対象だったことも伝えるのか」
「隠せば、あとで分かった時に関係が終わります」
画面の中で、確保された男が車へ乗せられていた。
本人はまだ、自分が中国のために働いたとは思っていないだろう。
頼まれた資料を見せ、知っている範囲を話し、その対価として金を受け取っただけ。外国政府の工作活動に協力したつもりも、誰かを襲わせるつもりもなかったと主張するはずだった。
だが、渡した情報の先で、七人が戸張の自宅近くまで向かった。
意図していなかったという言葉で、消える事実ではない。
「外交側はどうなりました」
「全面拒否です」
「中国側は納得しましたか」
「納得する必要はありません」
会議を取りまとめていた男が、画面を消した。
「こちらが説明すべき相手は、まず戸張氏です」
暗くなった画面には、会議室に残る者たちの姿がぼんやりと映っていた。
誰も席を立たなかった。




