第250話 開いた人間
黒灰色の巨体が完全に消えてからも、四人はしばらくその場を動かなかった。
本来この場所にいたと思われる大型の人型も既に消え、広い空間には戦闘で砕けた岩と黒い体液の跡だけが残っている。その奥に現れた宝箱だけが、この戦闘が終わったことを示すように置かれていた。
コールが大楯を構えたまま周囲を見回す。
「今度こそ、俺の武器じゃないか?」
「まだ言ってるのか」
グラントが先に周囲を確認し、安全を確かめてから宝箱へ近づいた。
蓋を開けると、中には三つの品が入っていた。
赤色のポーションが二本。
そして、細く丸められた一本のスクロール。
「武器は?」
コールが宝箱を覗き込む。
「ないな」
ケイレブが答えた。
「おかしいだろ。あれだけ大きい奴を倒したんだぞ」
「報酬の仕組みに文句を言っても仕方ないでしょう」
エレナは赤色ポーションを一本ずつ確認した。
先ほどケイレブの治療に一本使用している。それが二本になって戻ってきたと考えれば、消費した分を補充したうえで一つ増えたことになる。
ケイレブ自身も左肩を回していた。
大型の石剣を受けた直後は、肩の関節が外れ、肋骨にも複数の損傷があった。それが赤色ポーションを飲んだあとには、痛みも動作の異常も消えている。
「帰ったら検査は必要だな」
「分かってる」
グラントが二本のポーションを回収している横で、コールは残されたスクロールを手に取った。
細い紐で巻かれている。
「で、なんだコレ?」
そのまま紐を解いた。
「おい、待て」
グラントの声が届いた時には、もう開いていた。
乾いた皮の内側には、見たことのない文字と複雑な線がびっしりと描かれていた。
コールの表情が変わる。
「……なんだ?」
読めるはずのない文字だった。
それなのに、視線を落とした瞬間から、そこに書かれているものが意味として頭の中へ入ってくる。
水を生む感覚。
集めるための意識の置き方。
形を保ち、自分の意思で動かすための手順。
文章を理解しているわけではない。誰かに教えられている感覚とも違う。最初から知っていたことを思い出すように、使い方だけが次々と頭の奥へ定着していった。
コールが何も言えずに見ている間にも、皮に描かれていた文字と線が少しずつ薄れていく。
「消えてる」
エレナが言った。
燃えているわけではなく、皮が崩れているわけでもない。
書かれていたものだけが端から消え、やがて何も描かれていない真っさらな皮だけが残った。
三人の視線がコールへ向いた。
「いや、俺もこうなるとは思わなかった」
「正体不明の回収品を確認もせず開いたのはお前だ」
「巻物だったら中を見るだろ」
「普通は見ないわよ」
エレナに即答され、コールがケイレブを見る。
「少なくとも、ここでは開かないな」
「三対一か」
言い返しかけたコールが、途中で黙った。
自分の右手を見る。
「……待て。なんか分かる」
手のひらを上へ向け、意識を集中させる。
何もなかった空間に数滴の水が現れた。
それがゆっくりと集まり、拳ほどの水塊になって手のひらの上へ浮かぶ。
四人とも動きを止めた。
コール本人が一番驚いていた。
「……出たぞ」
「見れば分かる」
集中が途切れ、水塊が床へ落ちた。
濡れた石を見たあと、コールはもう一度自分の手を見る。
「魔法か?」
「その可能性が高い」
グラントが答えた。
コールには、もう少し分かっていた。
水を出すだけではない。
量を増やし、ある程度なら形を変え、動かすこともできる。どこまで可能なのかは実際に試す必要があるが、基礎的な扱い方そのものは既に理解できていた。
ケイレブが真っさらになった皮を回収する。
「開いたことが条件なのか、内容を見たことが条件なのかは分からないな」
「持ち帰って調べようとしても、誰かが開いた時点で同じことになった可能性はあるわね」
エレナは呆れた様子を残しながらも、それ以上コールを責めなかった。
考えなしに開いたことと、スクロールの使用条件を事前に見抜けたかどうかは別の話だった。
「次からは、誰が開くかまで決めてから触る」
グラントが言った。
三人が頷く。
コールだけは、しばらく自分の手と腰の片手斧を交互に見ていた。
「どうした?」
「いや……魔法が使えるようになったんだよな」
「そう見えるな」
「すごいことだとは思う」
そこでコールの視線が空になった宝箱へ向いた。
「でも俺、今度こそ武器が出ると思ってたんだ」
エレナが何とも言えない顔をした。
「魔法を手に入れて、その顔する人初めて見たわ」
「嬉しくないとは言ってない。水の魔法だぞ。普通なら大喜びする」
「じゃあ喜べばいいだろ」
グラントに言われ、コールは少し考えた。
「剣も欲しかった」
誰も答えなかった。
四人は宝箱が消えるまで待ち、周囲を改めて記録した。
先へ続くと思われる経路も確認できたが、進むという選択肢は最初からなかった。
四層の通常個体とは明らかに違う敵と戦い、赤色ポーションを一本使用している。さらに正体不明だったスクロールまで使われた。
持ち帰る情報が多すぎた。
帰路は、行きより静かだった。
四層でも戦闘を行った経路では遭遇するモンスターが減っており、三層、二層と戻るほどその傾向は明確になった。
コールは途中で何度か右手を見ていたが、水を出そうとはしなかった。
「試さないの?」
エレナが聞く。
「さすがに今はやらない。どれくらい疲れるかも分からないからな」
「そこは慎重なのね」
「俺だって学習する」
その言葉に、エレナは何も返さなかった。
地上へ戻った時点で、四人の帰還はすぐに管理側へ伝えられた。
装備を外す前に簡単な身体確認が行われ、特にケイレブはそのまま詳しい検査へ回された。
問題は見つからなかった。
画像検査でも、左肩や肋骨に先ほどまで重大な損傷があったとは考えにくい状態まで戻っている。
その結果を確認した担当者は、何度も戦闘映像とケイレブの身体を見比べることになった。
報告は四人が揃ってから始まった。
最初に確認されたのは、四層奥で遭遇した二体の大型個体だった。
映像には、本来のボスと思われる大剣を持った人型が四人へ向き直った直後、背後から現れた黒灰色の巨体に頭部を掴まれる様子が残っていた。
三メートル近い身体が持ち上げられ、何度も石床へ叩きつけられる。
会議室で映像を見ていた者たちの表情が変わった。
「この最初の個体が、本来の四層ボスだと?」
「断定はできない」
グラントが答えた。
「ただ、位置と行動から見れば、その可能性が高い。後から出てきた個体は、あれを殺してから我々を攻撃した」
黒灰色の巨体についても説明が続いた。
単純に力が強いだけではなかった。
石を蹴って視界を奪い、攻撃する相手を途中で変え、フェイントを使う。本来のボスが落とした大剣を蹴り飛ばし、最後にはその死体そのものまで振り回した。
「戦っている最中に、こちらの反応を見て攻撃方法を変えているように感じた」
ケイレブの言葉に、映像を見ていた分析担当者が何かを書き込んだ。
続いて赤色ポーションの使用場面が再生された。
石剣を受けたケイレブが倒れ、グラントが携行していた一本を使用する。
その後、短時間で立ち上がり、再び戦闘へ復帰していた。
「現在、痛みは?」
「ない」
「違和感も?」
「特にない」
医療側から追加検査を続けることが伝えられた。
そして最後に、宝箱の中身の話になった。
赤色ポーション二本。
使用済みとなったスクロール一枚。
「使用済み?」
担当者の一人が聞き返した。
コールが少しだけ姿勢を変えた。
「俺が開いた」
三人が黙ってコールを見る。
「……何だよ。その場でもう十分言われただろ」
スクロールを開いた直後の映像が再生された。
読めない文字と線が描かれた皮をコールが広げ、その内容が少しずつ消えていく。映像でも、最後には何も書かれていない皮だけが残っていた。
「開いた直後、使い方が分かった」
「何の?」
「水だ」
コールが右手を上げる。
担当者たちの視線が集まった。
「ここでやっていいか?」
少し協議が入り、机の上から電子機器や書類が移動された。床には容器まで用意される。
コールはそれを見てから右手を前へ出した。
「そこまでしなくても大丈夫だと思うんだが」
「お願いします」
「はい」
意識を集中させる。
数秒後、何もなかった手のひらの上に水が生まれた。
小さな水滴が集まり、拳ほどの水塊になる。
会議室が静かになった。
コールはその水をしばらく維持したあと、用意された容器へ落とした。
「これ以上もできると思う。ただ、まだ試してない」
担当者の一人が、何も書かれていない皮を見る。
「つまり、このスクロールを開いたことで水を扱う能力を得た可能性がある、と」
「そういうことになる」
グラントが答えた。
その後もしばらく質問が続いた。
文字を読めたのか。
どんな感覚だったのか。
使用前に変化はあったのか。
誰が開いても同じ結果になったのか。
分からないものについては、四人とも分からないと答えた。
報告が一段落した頃には、机の上に並べられた情報だけでも十分すぎるほど増えていた。
未到達区域ほど多いモンスター。
通過した経路で確認された個体数の減少。
本来のボスと思われる個体を殺した、異常に強く知能の高い大型個体。
重傷から短時間で復帰させた赤色ポーション。
そして、使用者へ魔術そのものを与える可能性があるスクロール。
四層を一度攻略しただけで、調べるべきものが一気に増えたことになる。
報告を終えて席を立ったところで、コールが自分の右手を見た。
グラントが気づく。
「まだ何かあるのか」
「いや」
コールは腰の片手斧へ触れた。
「次の宝箱こそ武器だと思ってるだけだ」
少し離れたところで、エレナが深く息を吐いた。




