第202話 桁が違う
ホワイトハウス地下の会議室で、最初に映されたのは中国政府の公式発表だった。
異常空間管理施設において重大な事故が発生。
複数の危険生物が施設外へ流出。
軍および地方政府が周辺地域を封鎖し、住民の避難を実施中。
人的被害については確認中。
原因は調査中。
発表は短かった。
管理施設の名称はない。
発生地点も省までしか示されていない。
死傷者数も、流出したモンスターの数も、軍が投入した戦力も公表されていなかった。
国家安全保障担当補佐官は、中国政府の発表を閉じた。
「ここまでは公開情報だ」
画面が切り替わる。
動画投稿サイトへ一時的に公開され、数分以内に削除された映像。
道路を走る灰白色の甲殻型。
避難車列へ降り注ぐ黒い小型種。
装甲車へ飛びつく赤黒い個体。
戦車砲を受けても前進する、巨大な円盤状のモンスター。
撮影者が逃げたのか、映像は激しく揺れている。途中で銃声と悲鳴が重なり、画面が地面へ落ちた。
次に衛星画像が表示された。
事故発生前の管理施設。
数時間後、建物の大部分が崩壊した状態。
道路へ放棄された車両。
周辺へ展開する戦車と装甲車。
施設中央にある大きな陥没。
さらに時間が進むと、軍の防衛線が管理施設から離れ、周辺道路へ移っていた。
中央情報局長官が説明する。
「中国側は事故発生から二時間以内に、周辺空域と主要通信回線を封鎖しています。国内動画サイトでは関連映像が削除され、検索結果も制限されています」
国防長官が衛星画像を見る。
「管理施設で事故が起きただけなら、なぜ戦車部隊が後退している」
「地上へ流出した個体を止められなかったためと見られます」
「空爆跡がある」
「はい」
入口付近を拡大する。
崩壊した建物の中央に、二つの大きな着弾跡があった。
「誘導爆弾と推定しています」
「中国は自国の管理施設を爆撃したのか」
「その可能性が高い」
「何を狙った」
「入口、または入口周辺へ集まったモンスターです」
統合参謀本部議長が画面へ身を乗り出す。
「爆撃前後の映像はあるか」
別の映像が再生された。
最初の場面では、甲殻型や四脚獣が管理施設から流れ出している。機関砲や重機関銃を集中させれば、時間はかかるものの倒せていた。
映像が切り替わる。
施設中央から煙が上がり、入口が瓦礫に埋まっている。
その後、地面が割れた。
内側から太い黒い脚が伸び、コンクリート片を持ち上げる。
直径十メートルを超える円盤型が、爆撃で崩れた入口を掘り返して姿を現した。
戦車砲が命中する。
外殻が砕ける。
脚が一本千切れる。
それでも止まらない。
その後ろから、赤黒い跳躍型が続く。
一体が十メートル以上を跳び、戦車の砲塔へ着地した。四本の刃状前脚で観測装置を切り落とし、車載機関銃を受ける前に地上へ飛び降りる。
映像が終わった。
誰もすぐには話さなかった。
統合参謀本部議長が口を開く。
「爆撃後に出てきた個体は、それ以前のものと明らかに違う」
「中国もそう判断した可能性があります」
中央情報局長官が答える。
「爆撃後、航空攻撃は行われていません。砲撃も入口から離れた方向に限られています」
「入口への攻撃が原因だと考えたのか」
「分かりません」
「中国側の内部分析は」
「取得できていません」
中央情報局長官は画面を見たまま続ける。
「ただし、彼らが何かを警戒していることは確かです。管理施設を放棄した後も、長距離砲や航空機による奪還攻撃を行っていない。戦力がないからではありません」
国防長官が言う。
「撃てるのに撃っていない」
「はい」
「理由も公表していない」
「はい」
「こちらへも知らせていない」
「現時点では、公式な説明はありません」
国家安全保障担当補佐官が資料をめくる。
「つまり、中国は原因を特定している可能性があるが、それを外へ出していない」
「特定ではなく、強く疑っている段階かもしれません」
「どちらでも同じだ。自分たちが何をして、何が起きたのかを隠そうとしている」
室内の視線が、再び衛星画像へ集まった。
管理施設周辺には、軍が置き去りにした車両が残っている。
一部は破壊され、一部は外見上まだ動かせそうだった。
それでも、中国軍は回収へ向かっていない。
管理施設だけではない。
周囲の集落と農地も、軍の封鎖線の内側に取り残されていた。
「占拠範囲は」
大統領が初めて口を開いた。
中央情報局長官が別の地図を表示する。
「正確な線は不明です。中国軍の配置と避難命令の範囲から推定すると、管理施設を中心に数キロ。森林部ではさらに外側まで確認されています」
「住民は」
「避難命令の対象は一万八千人以上」
「避難完了は」
「中国側は完了と発表していません」
「それも隠しているのか」
「所在不明者が多数いると見られます」
大統領は地図を見た。
「被害数を出せ」
会議室の空気がわずかに変わった。
中央情報局長官は、すぐには答えなかった。
「中国政府は、死傷者数を公表していません」
「こちらの推定でいい」
「地方政府間の通信、病院の受入記録、軍用輸送機の動き、遺体収容施設への物資搬入、衛星画像、国外へ送られた現地映像を統合した暫定値です」
画面に数字が表示された。
死亡確認、一千二百八十四名。
行方不明、二千三十六名。
要入院者、三千七百十四名。
軽傷者、五千名以上。
誰も動かなかった。
数字が表示されてから数秒間、空調の音しか聞こえなかった。
国土安全保障長官が、画面から目を離さないまま言う。
「桁が違う」
小さな声だった。
それでも、会議室の全員に聞こえた。
国防長官が尋ねる。
「これは一日の被害か」
「数時間です」
中央情報局長官が答える。
「最終的な死者数は、二千名を超える可能性があります」
「直接モンスターに殺されたのか」
「それだけではありません」
画面に推定死因の分類が出る。
モンスターによる直接襲撃。
群衆雪崩。
転倒と圧迫。
避難車両の多重衝突。
横転。車両火災。建物の崩壊。爆発。砲撃と爆風。流れ弾。
医療機能の停止。
「避難そのものが災害になったのか」
国土安全保障長官が言った。
「管理施設には二つの主要退避口しかありませんでした。一方は事故発生直後に多重衝突と火災で封鎖。残る一方へ数千人が集中しています」
監視映像が表示される。
管理施設南側の門。
人々が外へ向かって押し寄せている。
前方で甲殻型が現れ、流れが逆転する。
外へ出ようとする人間と、施設内へ逃げ戻ろうとする人間がぶつかった。
一人が転ぶ。
その上へ次の者が倒れる。
後方の人間には、前で何が起きているのか見えない。
押す力だけが続く。
門の前に、人間の身体が幾重にも積み上がっていく。
映像は途中で止められた。
保健福祉長官が顔を伏せた。
「直接襲われなくても死ぬ」
「はい」
「銃で守られていても」
「はい」
「軍が勝っていても、避難に失敗すれば被害が出る」
統合参謀本部議長が言う。
「映像を見る限り、軍は勝っていない」
誰も否定しなかった。
「地上個体には兵器が通用しています」
中央情報局長官が説明する。
「ただし、一体を停止させるまでの弾薬消費が大きい。人間の中へ入り込まれると、機関砲や戦車砲が使えない。大型個体には戦車砲を複数発命中させても、すぐには止まっていません」
「中国軍の練度の問題では」
国土安全保障長官が尋ねる。
統合参謀本部議長が首を振った。
「違う」
「断言できるのか」
「少なくとも、アメリカ軍なら簡単に解決できるとは言えない」
議長は群衆の映像を指した。
「民間人、負傷者、救急車、燃料車、歩兵、装甲車が同じ道路にいる。敵は人間の間へ入る。そこへ航空爆弾や戦車砲は撃てない」
「撃てば」
「モンスターと一緒に市民を殺す」
国防長官が続けた。
「撃たなければ、モンスターに殺される」
議長は頷いた。
「その上、入口そのものへ攻撃した後に、より強い個体が出たように見える」
「因果関係は不明だ」
「不明だから試せない」
会議室へ、また沈黙が落ちた。
大統領が国内の異常空間分布図を表示させる。
軍管理。連邦管理。州管理。民間企業による管理。暫定封鎖。
入口のみ確認済み。未登録の疑い。
アメリカ全土へ、多数の印が散らばっていた。
「最大の施設は」
国土安全保障長官が答える。
「日中の勤務者と請負業者を合わせて約七千人。周辺十キロ圏の人口は二十万人以上です」
「避難口は」
「主要道路三本」
「一つが事故で塞がれたら」
「残り二本へ集中します」
「モンスターが一方へ出たら」
「実質一方向です」
大統領は地図を拡大した。住宅地。病院。高速道路。学校。物流倉庫。
中国で起きたことが同じ規模で起きれば、避難対象は一万八千人では済まない。
「我々はダンジョンを何として扱ってきた」
大統領が尋ねた。
答える者はいなかった。
「資源か」
国防長官が口を開く。
「資源であり、安全保障上の対象です」
「兵器になる回収品。製薬会社が欲しがるポーション。軍需企業が欲しがる素材。配信者が欲しがる映像。政府が欲しがる技術的優位」
大統領は資料を一枚ずつ机へ置いた。
「誰が先に深く入るかを競っていた」
国家安全保障担当補佐官が言う。
「中国はハウンド・スリーの五層到達を意識して、攻略を急いだ可能性があります」
「我々も中国が先に進めば、急いだはずだ」
誰も反論しなかった。
「アメリカなら、もっと上手くやれると思っていた」
大統領は中国の被害数字を見る。
「だが、あれは失敗した国の数字ではない」
「どういう意味でしょう」
「世界で最初に起きただけだ」
大統領の声は低かった。
「中国が特別に愚かだったわけではない。大部隊を送り、救助要員を置き、補給を整え、地上に軍を配置した。事故が起きれば入口を閉じようとし、閉じられなければ兵器を使った」
統合参謀本部議長が頷く。
「軍事的には理解できる判断の連続です」
「その理解できる判断の連続で、千人以上が死んだ」
大統領は室内を見回した。
「なら、これは中国の問題ではない」
国土安全保障長官が言う。
「全ての異常空間管理国が抱える問題です」
「管理国だけではない」
大統領は世界地図を表示させた。北米。南米。欧州。アジア。中東。アフリカ。
確認された異常空間の印が、国境と関係なく散らばっている。
「軍事力の弱い国で起きたらどうなる」
誰も答えない。
「入口周辺に百万人住んでいたら」
沈黙が続く。
「内戦中の国なら。政府が機能していない国なら。入口を企業や武装組織が持っていたら」
国家安全保障担当補佐官が言った。
「封鎖できません」
「避難もできない」
「はい」
「他国へモンスターが出る可能性は」
「影響範囲がどこまで広がるか分かりません」
大統領は椅子の背へ身体を預けた。
アメリカは長い間、自分たちを世界の警察と呼んできた。
その呼び方を嫌う国もある。
アメリカ自身が使わなくなった時期もある。
それでも、世界のどこかで大規模な危機が起きれば、軍事力、輸送力、衛星、情報網、医療、同盟関係を持つアメリカが関与を求められる。
今回だけ、例外になる理由はなかった。
「国内だけ守れば済む話ではない」
大統領が言った。
国防長官が顔を上げる。
「中国への支援を検討しますか」
「中国が受け入れるかは別だ」
「向こうは情報を隠しています」
「だから放っておくのか」
「軍事情報まで渡す必要はありません」
「今のままなら、別の国が同じことをする」
大統領は中国の空爆跡を指した。
「入口からモンスターが出た。軍が撃った。止まらない。なら入口を爆破する。何も知らなければ、どの国でも同じ判断をする」
国家安全保障担当補佐官が言う。
「中国が原因を公開しなければ、各国は教訓を得られません」
「こちらも原因は分かっていない」
「はい」
「なら、中国から奪うのではなく、世界中から集めろ」
「情報をですか」
「事故、前兆、失踪、個体移動、入口攻撃、地上流出。成功例も失敗例もだ」
中央情報局長官が尋ねる。
「国際的な共有枠組みを作ると」
「作らなければならない」
国防長官が難しい顔をする。
「各国は自国の到達階層や回収品を機密扱いしています」
「我々もだ」
「共有に応じない国は多いでしょう」
「それでも始める」
大統領は世界地図を見る。
「ダンジョンを、各国が奪い合う新しい鉱山として扱う時期は終わった」
「完全な共同管理は現実的ではありません」
「共同管理とは言っていない」
大統領は続ける。
「最低限、何をしてはいけないかを共有する。どんな兆候が出たら撤退するか。住民をどう逃がすか。入口を攻撃していいのか。地上へ出た個体をどこまで追うのか。国境を越える事態になった時、誰が動くのか」
統合参謀本部議長が言う。
「異常空間に関する国際的な交戦規則と災害対応基準が必要になります」
「軍だけでは足りない」
保健福祉長官が加える。
「医療、避難、遺体処理、検疫、汚染、モンスター死体の処分。今回の中国では、戦闘以外の要因で数百人が死亡しています」
国土安全保障長官も続く。
「群衆管理、交通規制、通信、誤情報対策、周辺住民への事前訓練も必要です」
大統領が頷いた。
「それを作れ」
「アメリカ単独でですか」
「最初の案はアメリカが出す」
「中国、ロシア、欧州、日本が従う保証は」
「ない」
大統領は即答した。
「だが、誰かが始めなければ、次の一千二百八十四人が出る」
画面には、中国政府が公表していない数字が残っていた。
死亡確認、一千二百八十四名。
行方不明、二千三十六名。
世界の大半は、まだその数字を知らない。
中国は国内の映像を消し、死傷者数を伏せ、軍がなぜ管理施設を奪還しないのかも説明していなかった。
しかし、隠そうとしているという事実そのものが、アメリカへ危険の大きさを伝えていた。
「国内の全施設へ緊急命令を出せ」
大統領が言った。
「第四層以深への進入を停止。内部人員を段階的に撤退。入口周辺の常駐者を減らす。避難路を増やし、負傷者集積所と燃料車両を入口から離す。構造物への爆破は禁止」
国防長官が頷く。
「民間管理施設にも適用します」
「拒否した場合は許可を停止しろ」
「分かりました」
「同盟国へも情報を送る。ただし、中国が何をしたと断定するな。確認できた事実と、こちらの分析を分けろ」
国家安全保障担当補佐官が記録する。
「日本への照会は」
大統領は机の上に置かれた薄い資料を見る。
ハウンド・スリー。三人で五層へ到達し、生還したアメリカ人。
その隣には、日本の民間探索者についてまとめた資料がある。
三十歳。
元会社員。
五層攻略済みとされる人物。
戸張。
以前の会議では、彼をいくらで雇えるかが議題だった。
年俸。成果報酬。研究設備。永住権。法的保護。
今は、誰も契約金の話をしなかった。
「日本には、五層で確認している危険について照会する」
「戸張の名前を出しますか」
「まだ出すな」
「誰よりも先に五層を越えた人物です」
「だからこそだ」
大統領は資料を閉じた。
「彼が何かを知っているとしても、アメリカへ連れてくれば解決する話ではない」
国家安全保障担当補佐官が顔を上げる。
「では」
「一人の探索者を確保して優位に立つことより、世界中の入口で同じ事故を起こさせない方が先だ」
会議の終了後、アメリカ国内の全異常空間管理者へ緊急指令が送られた。
同時に、同盟国と主要な異常空間保有国へ、非公式の情報照会が始まった。
中国で何が起きたのか。
流出前に何が観測されていたのか。
入口への攻撃後、なぜ敵の構成が変化したように見えるのか。
どこまでが事実で、どこからが推測なのか。
答えを持つ国はなかった。
アメリカにもなかった。
ただ一つ分かったのは、これまでの向き合い方では足りないということだった。
ダンジョンは、国家が競争して深く潜ればいい場所ではない。
企業が利益を求め、軍が兵器を試し、配信者が映像を持ち帰るだけの場所でもない。
一つの国が対応を誤れば、その国だけが代償を払うとも限らない。
世界がダンジョンをどう扱うのか。
どこまで入るのか。
何を持ち出すのか。
何をしてはならないのか。
それを決めないまま進み続ける時間は、中国で一千二百八十四人が死亡した時点で終わっていた。




