第196話 境界の外
灰白色の甲殻型が境界を越えた瞬間、入口前の警備兵が発砲した。
五十メートルも離れていない。
複数の銃口から放たれた弾丸が甲殻へ集中し、白い破片を飛ばす。甲殻型は身体を揺らしたが、倒れなかった。六本の脚を石床から地上施設の舗装面へ移し、そのまま走り出す。
狙っていたのは警備兵ではない。
入口から運び出された負傷者だった。
「医療班を下げろ!」
盾を持った兵士が進路へ割り込む。
甲殻型は速度を落とさず、低い姿勢のまま盾へ衝突した。
兵士の身体が浮いた。
盾ごと後方へ弾かれ、医療器材を置いた台へ背中から突っ込む。甲殻型は向きを変えず、倒れた担架へ脚を伸ばした。
車載機関銃が火を噴いた。
大口径弾が甲殻の中央を打ち抜く。
一発目で亀裂が入り、二発目で重なった殻が剥がれた。三発目が内部へ入ると、甲殻型は脚を広げて舗装面へ落ちた。
それでも前脚だけは動いていた。
警備兵が距離を取りながら撃ち続ける。甲殻の内側から黒い液体が流れ、ようやく動きが止まった。
「入口を見ろ!」
暗い境界の向こうに、青白い裂け目が並んでいた。
一体。
その後ろに二体。
さらに奥にも、低い影が動いている。
先頭の甲殻型が境界へ脚をかける。続く個体も止まらない。
「遮断扉を閉鎖!」
入口上部に収納されていた防護扉が降下を始めた。
この施設が建設された当初から用意されていたものだった。内部で事故が起きた場合、人員の出入りを止め、入口前を物理的に封鎖するための厚い鋼鉄製の扉。
ただし、モンスターが外へ出てくることは想定されていない。
甲殻型二体が扉の下を抜ける。
三体目は間に合わず、降下する鋼板と床の間へ挟まれた。
甲殻が潰れる音が響く。
扉は完全には閉じなかった。
平たい胴体が楔となり、床から二十センチほどの隙間を残して停止する。
その隙間へ、奥から別の脚が伸びた。
潰れた個体を押しのけようとしている。
「第二防衛線へ後退! 入口前を空けろ!」
警備部隊は負傷者と医療班を下がらせながら、地上へ出た二体へ射撃を続けた。
一体は銃弾を受けながら右側の壁へ走る。
舗装面と垂直な壁の境で速度を落とすことなく、六本の鉤爪を外壁へ食い込ませた。そのまま地上施設の屋根へ上ろうとする。
監視塔の兵士が銃口を向けた。
甲殻型は壁面を横へ走り、射線から逃れる。
もう一体は、血の付いた担架へ取りついていた。
負傷者はすでに後方へ運ばれている。
甲殻型は担架の布へ黒い器官を伸ばし、染み込んだ血を吸い始めた。
「血に反応している!」
兵士の一人が叫んだ。
「負傷者を施設外へ出せ! 入口側の医療所は放棄する!」
管理施設の管制室では、複数の監視映像が同時に表示されていた。
入口前。医療区画。物資集積所。外周道路。
防護扉の下では、潰れた甲殻型の身体が少しずつ奥へ押されていた。内側から複数の個体が引きずっている。
管制責任者は通信回線を切り替えた。
「内部部隊、応答しろ。残存人員は全員出たのか」
雑音の後、息の荒い声が返る。
『第一層にまだ十七名。中継班と後衛です。敵が多すぎる。入口まで二百メートル』
「防護扉は閉鎖中だ」
『開けろ! こちらも追われている!』
管制責任者は入口前の映像を見る。
扉の下では甲殻型の死体が押し出され、隙間が広がり始めていた。
完全に閉じるためには、挟まった個体を取り除かなければならない。
開ければ内部の十七名を収容できる。
同時に、後ろから来ているモンスターも地上へ出る。
「追跡個体の数は」
『確認できない。甲殻型だけじゃない。第一層の個体も混じっている』
「距離は」
『近い!』
映像の一つが激しく揺れた。
内部部隊が携行しているカメラだった。
暗い通路を走る兵士の背後に、細長い四脚の影が映る。毛のない暗赤色の皮膚。前脚が後脚より長く、身体を跳ねさせるように走っていた。
頭部には目がない。
口は顔の中央から縦に裂け、走るたびに上下ではなく左右へ開いている。
銃声が響き、映像が横へ振れる。
一体が倒れる。
その後ろから三体が現れた。
さらに奥には、天井を這う小さな影が密集している。
「十七名を収容する。扉を上げろ」
副責任者が振り返った。
「開ければ流出が増えます」
「閉じたままなら十七名全員を内部へ残すことになる」
「すでに外へ出ています」
「だから見捨てるのか」
答えは出なかった。
管制責任者は命令した。
「扉を一メートル上げろ。入口前へ射線を集中。部隊通過後、即時閉鎖する」
防護扉が上がり始める。
挟まっていた甲殻型の死体が地上側へ転がった。
その奥から、生きた個体が飛び出す。
車載機関銃と重機関銃が同時に発砲した。
入口前の空間が白い破片と黒い液体で埋まる。先頭の甲殻型が砕け、その後ろの個体も脚を失って転倒した。
だが、倒れた身体を踏み越えて次が出てくる。
甲殻型の間を縫い、暗赤色の四脚獣が地上へ跳び出した。
警備兵が射撃する。
銃弾を受けても止まらず、四脚獣は防衛線の手前まで一息に走った。縦に裂けた口を左右へ開き、兵士の脚へ噛みつく。
防護服と肉が一緒に裂けた。
兵士が倒れる。
隣の兵士が銃床で四脚獣の頭を殴る。別の兵士が至近距離から撃ち込み、ようやく口が外れた。
倒れた兵士を引きずろうとした救護要員へ、壁から甲殻型が飛びかかる。
盾兵が間に入り、前脚を受け止める。
「内部部隊が来る!」
入口の奥に人影が見えた。
兵士たちが走ってくる。
一人が別の兵士へ肩を貸し、後方の二人が振り返りながら射撃している。
その背後を、四脚獣の群れが追っていた。
天井からは、掌ほどの黒い生物が落ちてくる。
甲虫に似ているが、外殻の左右から薄い膜が伸び、床へ落ちる直前に短く滑空した。数十体が壁と天井を埋め、逃げる兵士の頭上へ降り注いでいる。
「通過させろ!」
地上側の警備部隊が火力を集中する。
先頭の兵士が境界を越える。
二人目。
三人目。
負傷者を支えた組が防護扉の下を抜ける。
その直後、最後尾の兵士の背中へ黒い小型種が取りついた。
兵士は振り払おうとして転倒する。
後方から来た四脚獣が脚へ噛みついた。
「置いていけ!」
誰かが叫ぶ。
倒れた兵士は銃を入口側へ向け、撃ちながら叫び返した。
「閉めろ!」
防護扉が降下する。
四脚獣が兵士を引きずり、内部側へ戻そうとする。
地上側から伸ばされた手が兵士の腕をつかむ。
引く力と引き戻す力が拮抗する。
扉が肩の高さまで下がった。
兵士が自分の腕をつかんでいる仲間を見る。
「離せ!」
仲間は離さなかった。
四脚獣がもう一体、兵士の腰へ噛みつく。
防護扉の下端が迫る。
管制責任者が映像を見ながら叫んだ。
「停止しろ!」
扉が一瞬止まった。
その隙間から甲殻型が前脚を差し込む。
次の個体も続いた。
「閉鎖を続行!」
扉が再び降りる。
地上側の兵士が腕を離した。
倒れた兵士は四脚獣とともに、扉の向こうへ引きずられた。
鋼鉄の扉が床へ接触する。
今度は何も挟まらなかった。
入口が閉じられた。
管制室にいた者たちは、数秒間、誰も言葉を発しなかった。
地上へ収容できた内部部隊は十三名。
四名は入口まで戻れなかった。
しかし、防護扉を閉じても状況は終わらない。
地上へ出た甲殻型と四脚獣が、管理施設内で動き続けている。
黒い小型種は建物の隙間へ入り込み、天井裏や換気口へ散っていた。
「施設内の全員を外周第二線へ退避させろ」
管制責任者は指示を出した。
「第一線は放棄。装甲車両を前へ。小銃班は負傷者の護衛を優先する」
「防護扉は維持できますか」
「監視を続けろ。内部側から破壊される可能性がある」
入口前では、地上へ出たモンスターへの掃討が始まっていた。
甲殻型は機関銃の集中射撃で倒せる。
四脚獣も、複数人が射線を合わせれば止められる。
ただし、小銃弾を数発当てた程度では動きを失わない。倒したと思った個体が再び起き上がり、負傷者へ向かう。
兵士たちは一体を止めるため、想定を大きく超える弾薬を使っていた。
装甲車両が前進する。
車載機関砲が短く発砲した。
甲殻型の胴体が砕け、舗装面を滑る。
四脚獣の上半身が吹き飛ぶ。
それでも、入口前から医療区画までの間には十体以上が残っていた。
「右側建物へ入った!」
「換気口を塞げ!」
「負傷者を近づけるな! 血に集まる!」
命令と銃声が重なる。
施設外周では、避難車両が動き始めていた。
研究員、整備員、通信職員、炊事や輸送を担当する民間作業員。攻略部隊と警備部隊以外にも、多くの人間が施設内で働いている。
外周道路へ出る門は二か所しかない。
車列が集中し、動きが鈍る。
そこへ黒い小型種が飛んできた。
一体が車両のフロントガラスへ張りつく。
運転手が急ブレーキを踏んだ。
後続車両が追突する。
小型種はガラスの端へ脚をかけ、隙間を探すように動いた。
助手席の職員が工具で叩く。
外殻が割れても動きは止まらない。
警備兵が車両へ駆け寄り、銃床で地面へ落とした。
踏みつける。
一度では潰れない。
何度も踏み、ようやく脚の動きが止まった。
「外へ出た個体は何体だ」
管制責任者が尋ねる。
副責任者が各班の報告を集計する。
「甲殻型が二十一。四脚型が十四。小型種は不明です。五十以上確認されていますが、施設内へ散っています」
「撃破数は」
「甲殻型九、四脚型六。小型種は集計できません」
「死体は」
副責任者は一瞬、質問の意味を理解できなかった。
「残っています」
入口前の監視映像には、砕かれた甲殻と四脚獣の身体が転がっている。
ダンジョン内部で倒した個体は、時間が経つと形を失い、床や壁へ吸収されることがある。
地上の死体には、その兆候がなかった。
黒い液体を流し、破壊された身体のまま舗装面へ残っている。
「回収班を出せますか」
「今は近づけるな。死んでいるかどうかも確認できない」
警報が鳴った。
防護扉の圧力計が上昇している。
内部側から何かが衝突していた。
一度。
二度。
鋼鉄の扉全体が揺れる。
入口前にいた兵士たちが振り返る。
三度目の衝撃で、扉の中央がわずかに膨らんだ。
「何が当たっている」
内部監視カメラは機能していない。
音だけが伝わってくる。
重いものが助走をつけ、扉へ身体をぶつけている。
その間にも、小さな爪が鋼鉄を引っかく音が続いていた。
管制責任者は上級司令部へ緊急回線を繋いだ。
「管理入口から複数種が地上へ流出。防護扉は閉鎖しましたが、内部から継続的な衝撃を受けています。施設内に多数の残存個体。第一防衛線は放棄しました」
『流出は停止したか』
「確認できません」
『地上個体を排除し、防護扉を維持しろ。増援を送る』
「通常の増援では足りません。重装備部隊を要請します」
『地上へ出た数は数十体だろう』
「現時点では」
管制責任者は防護扉の映像を見る。
扉が再び揺れた。
中央の膨らみが大きくなる。
『現時点では、何だ』
「内部にどれだけ集まっているか分かりません」
四層から撤退した部隊の報告が、ようやく管制室へ届き始めていた。
本来は深い区画にいる大型個体が上層へ移動していたこと。
別々の縄張りを持つ種類が争わず、同じ方向へ進んでいたこと。
第三層、第二層、第一層と、上へ行くほど個体数が増えていたこと。
管制責任者は報告を読み、言葉を失った。
地上へ出たモンスターは、撤退部隊を追ってきただけではない。
内部全体が、入口へ向かって動いている。
「周辺住民の避難範囲を拡大してください」
『施設外への流出は確認されていない』
「確認されてからでは遅い」
『避難規模は』
管制責任者は答えようとした。
その時、防護扉へ過去最大の衝撃が加わった。
固定具の一本が外れ、床へ落ちる。
鋼鉄の扉と床の間に、数ミリの隙間が生まれた。
そこから黒い液体が流れ出す。
次いで、細い脚が一本、隙間へ差し込まれた。
脚は床を探るように動き、鉤爪を舗装面へ食い込ませる。
二本目が現れる。
三本目。
扉の向こう側で、複数の個体が身体を重ね、下から押し上げていた。
「半径十キロを即時避難対象に」
管制責任者は言った。
回線の向こうで、司令部の声が止まる。
「これは追撃事故ではありません」
防護扉がゆっくりと持ち上がった。
暗い隙間の向こうに、甲殻、牙、脚、濡れた皮膚が幾重にも重なっている。
「内部のモンスターが、外へ出ようとしています」




