第184話 ダンジョンの殺意
五層は、入口から静かだった。
静かすぎた。
四層までは、まだ分かりやすい気配があった。敵の足音、呼吸、石を擦る音、何かが動いた後の湿った臭い。危険はあったが、危険がそこにいると分かるだけの情報もあった。
五層には、それが少ない。
代わりに、通路そのものが嫌な沈黙を持っていた。
グラントは大楯を前に出し、半身で進む。四層の報酬として持ち帰ったそれは、見た目の圧に反して、扱えないほど重いわけではない。ただ、狭い通路で構えるには大きすぎた。角度を誤れば壁に引っかかり、後ろの視界も塞ぐ。
コールは黒い槍を低く構え、グラントの左後方についた。エレナは後列で負傷対応と記録を兼ね、ケイレブは床と壁ばかり見ている。
それが、五層に入ってからの基本隊形だった。
「止まれ」
ケイレブが言った。
グラントの足が止まる。
コールも止まった。エレナは一拍遅れたが、すぐに膝を落として後方を確認する。
「床?」
グラントが聞いた。
「床と壁。たぶん両方」
ケイレブは膝をつき、足元の石板を指した。
石板の継ぎ目に、乾いた泥のようなものが詰まっている。自然に溜まった汚れにも見えるが、継ぎ目の一部だけが妙に細い。
「この線、踏むと沈む。沈んだら、右の壁穴が開く」
「槍?」
コールが壁を見る。
「杭だと思う。金属じゃない。骨か木か、何か硬いもの」
「解除できる?」
「できるかもしれない。でも、解除しようとして近づくと、こっちの線に触る」
ケイレブが別の継ぎ目を指した。
最初の線から半歩ずれた位置に、さらに細い溝がある。
「罠を避けるために近づくと、別の罠を踏むようになってる」
エレナが息を吐いた。
「性格が悪い」
「性格があるならな」
コールが短く返す。
グラントは大楯の角度を変えた。盾で右側を塞げば、杭が出ても止められるかもしれない。ただ、そうすると後ろの二人が見えなくなる。
「盾で受ける」
「やめた方がいい」
ケイレブが即座に言った。
「理由は」
「右を塞ぐと、左に寄る。左に寄ると、あの石が沈む」
指された先に、小さな石があった。
小石にしか見えない。だが、周囲の砂の乗り方が不自然だった。置かれているのではなく、そこだけが薄く被せられている。
「踏まなくても、蹴れば動く。動いたら何が起きるかは分からない」
「戻るか」
グラントが言った。
「戻るには、さっきの角をもう一度通る」
エレナが後ろを見た。
「そこにもあった?」
「なかった」
ケイレブは答えた。
「なかった、はずだ」
その言い方で、全員が黙った。
確認していない場所がある。見落とした可能性がある。五層では、その差がそのまま死に近づく。
コールが舌打ちした。
「前進も後退も罠か」
「今のところ、横も罠だ」
ケイレブは淡々と言った。
冗談の余地はなかった。
彼はチョークで床に小さく印を付け、さらに壁に布テープを貼った。矢印ではなく、短い線と点を組み合わせた記号だった。方向を示す印は、間違って読まれると危険になる。
グラントはそれを見てから、低く言う。
「人数を増やしていたら、ここで詰まっていたな」
「詰まるだけで済めばいい」
コールが返した。
「先頭が止まる。後ろが止まる。最後尾は理由を知らない。誰かが体勢を変える。誰かが声を出す。誰かが助けようとする。そのたびに踏む場所が増える」
エレナが言った。
「大人数で安全にする場所じゃない」
「大人数をまとめて殺す場所だ」
グラントの声は平坦だった。
その言葉を口にした直後、後方で小さな音がした。
紙を裂くような音だった。
エレナが振り向く。
さっき角に貼った布テープの端が、壁から消えていた。
最初は剥がれただけかと思った。だが、テープの切れ端が床に落ちていない。壁の隙間に、白っぽい小さな影が入り込むのが見えた。
「何かいる」
エレナが言った。
「大きさは」
「手のひらくらい。テープを持っていった」
コールが槍を向けかけた。
グラントが短く止める。
「追うな」
コールは止まった。
正解だった。
白い影が入った隙間の下に、細い糸のようなものが一本だけ張られていた。追って一歩踏み込めば、まず触る。
「目印を消すやつがいる」
ケイレブが言った。
「罠だけじゃない。帰り道も触ってくる」
エレナは唇を噛んだ。
入口からここまで、彼らは慎重に進んでいた。印もつけていた。戻る道も確認していた。その前提が、いま一つ削られた。
グラントは後ろを確認し、次に前を見た。
「ここで引くか」
「まだ入口から深くない」
コールが言った。
「深くないから引ける」
グラントの返事に、コールは反論しなかった。
四層を越えたからこそ、分かることがある。進めるかどうかと、進むべきかどうかは同じではない。
彼らは少しずつ後退した。
来た道をそのまま戻るだけのはずだった。
だが、三つ目の印が見つからない。
ケイレブの顔が変わった。
「印がない」
「剥がされた?」
「違う。壁の傷もない。場所が違う」
「迷った?」
エレナが聞く。
「迷ってない」
ケイレブは即答した。
「迷ってない。通路の形が同じすぎる」
その言葉の直後、天井の色が少しだけ動いた。
全員が止まる。
薄い甲殻のようなものが、石と同じ色で天井に張りついていた。胴体は平たく、脚は長い。蜘蛛ほど丸くなく、蜥蜴ほど厚くもない。そいつは彼らを見ていたわけではない。
天井から垂れた細い糸を、前脚で器用に引いていた。
切ったはずの糸が、ゆっくりと張り直されていく。
外したはずの楔が、壁の穴へ押し戻される。
少し沈んでいた床板が、元の高さへ戻る。
「……あいつだ」
ケイレブが呟いた。
「罠を直してる」
「作ってるんじゃないのか」
コールが聞く。
「たぶん違う。元からある仕掛けを、使える状態に戻してる。こっちが避けたもの、触ったもの、解除したものを戻してるんだ」
天井の生き物は、こちらへ襲いかかってこなかった。
ただ、作業を続けている。
それが、かえって嫌だった。
敵意を向けてくる獣なら、倒せばいい。だが、あれは倒すべき敵というより、ダンジョンの一部に見えた。人間が通った後を整え、次の人間を殺す準備を戻す器官。
コールが槍を握り直す。
「撃つか」
「届くか?」
「届く。でも、落ちた先が罠の上なら終わる」
グラントは一秒だけ考えた。
「撃たない。位置だけ覚えろ」
天井の影は、糸を引き終えると横穴へ滑り込んだ。
すぐに追える距離だった。
誰も追わなかった。
追えば死ぬと、全員が分かっていた。
しばらく、彼らは動かなかった。動けなかったのではない。動く前に、床、壁、天井、背後、印、糸、音を一つずつ確認する必要があった。
その確認に時間がかかる。
時間がかかるほど、別の何かが目印を消す。
目印が消えるほど、戻る道に自信が持てなくなる。
五層は、前へ進む者だけでなく、戻ろうとする者にも手を伸ばしていた。
十分ほどかけて、彼らは入口側の比較的広い場所まで戻った。
そこで初めて、グラントは大楯を床に置いた。置く時も、床を叩かないようゆっくりだった。
「名前を決める」
コールが言った。
「今?」
エレナが眉を寄せる。
「今だ。呼べないものは共有できない」
ケイレブが天井の方を見たまま、低く続ける。
「あの薄いやつは、切った糸を張り直した。外した楔を押し戻して、動いた床板も元の位置へ戻してる。罠を解除前の状態に戻してるんだ」
「じゃあ、罠の――」
「リセッター」
エレナが言い切る前に、コールが切った。
「それで」
グラントが即答する。
「早くない?」
エレナが睨む。
「そんなことはない。今ここで悩む時間が惜しいだけだ」
グラントの返事は短かった。
コールは天井から目を離さずに言う。
「リセッター。罠を戻すやつだ。解除したものを、もう一度使える状態にする」
次に、壁際を走った小さな影へ視線が移る。さっき床に付けたチョークの印が半分ほど削れていた。テープの端も消えている。
「あっちは?」
ケイレブが言った。
「あれは――」
エレナがまた口を開く。
「イレイサー」
コールが先に言った。
「それで」
グラントがまた決める。
「私に言わせる気ないでしょ」
「今はない」
「今は?」
「戻ってからなら聞く」
「絶対聞く気ないでしょ」
コールは短く息を吐いた。
「イレイサー。印を消すやつだ。チョーク、テープ、ライト、布。帰り道の目印を消す」
「そのまますぎる」
エレナが言う。
「そのままでいい。叫んで分かる名前がいい」
コールは黒い槍を握り直した。
「リセッターとイレイサー。見つけたら位置を言え。追うな。追わせるために姿を見せてる可能性もある」
誰も異論を挟まなかった。
名前が決まったからといって、安全になるわけではない。それでも、同じものを同じ名前で呼べるようになっただけで、少しだけ状況を掴める。
グラントは入口側を見た。
「今日はここまでだ」
「撤退?」
エレナが聞いた。
「確認終了だ」
グラントはそう言い直した。
「五層は、四人でも多い時がある。十人なら安全になるという考えは捨てる。人数を増やせば、踏む足も、消える印も、助けに動く手も増える」
コールが頷いた。
「道が狭い。罠は連動してる。後ろまで情報が届く前に、誰かが動く」
「そして、リセッターが戻す。イレイサーが消す」
ケイレブが続ける。
「ここは、隊列を長くした分だけ危ない」
グラントは大楯を持ち直した。
「帰るぞ。五層は逃げる相手を追ってくる場所じゃない」
そこで一度、言葉を切る。
「逃げる道を、先に殺してくる場所だ」
彼らは入ってきた時よりも遅い速度で、五層から戻った。
誰も勝ったとは言わなかった。
ただ、全員が生きていた。
その日の成果としては、それ以上を求めるべきではなかった。




