表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/116

第18話 夕方の水門



 階段から離れた後、俺は広間を振り返らなかった。宝箱、階段、巨大スライムの魔石らしきもの。今日はそれだけで十分すぎる。これ以上、奥へ進む理由はない。あるとすれば好奇心だけだ。そして今の俺にとって、その好奇心が不安要素で一番危険な代物だ。


 来た道を戻る。黒い石の通路は静かだった。さっきまで下層で聞いた虫の脚音が耳に残っているせいか、何も聞こえないことが逆に不気味に思える。壁の亀裂、床の凹凸、天井の影。ライトを向けるたび、どこかから虫型の魔物が飛び出してくる気がした。実際には何も出てこなかった。小型スライムの跡も、大型スライムの粘液も、もうほとんど残っていない。ダンジョンの中で倒されたものは、時間が経つと本当に消えるらしい。死体も、血も、臭いも、少しずつなかったことにされていく。


 リュックが重い。中には、巨大スライムの魔石らしき結晶、核片、小さな瓶、砕いた記録カード、曲がったトレッキングポールが入っている。どれも説明できないものばかりだった。持って帰るべきではない、ここで処分することができる。だが、置いていくのは何となく嫌な予感がした。配信者の例もある、消える前に誰かに見つけられるのも嫌だし、ダンジョンに吸われるように消えるのをただ見ているのも気持ちが悪い。第一持ち込み品が消えるのかも確証が無い。


 水門へ続く横道に近づくにつれて、空気が湿り始めた。黒い石の匂いが薄れ、苔と錆びた鉄と古い水の匂いが戻ってくる。たったそれだけで、少しだけ現実に近づいた気がした。実際には何も解決していない。俺は未確認ダンジョンに入り、配信者を助け、巨大スライムを倒し、虫だらけの下層を見て、正体不明のものを持ち帰ろうとしている。現実に戻るには、荷物が重すぎた。


 横道を抜けると、コンクリートの壁が現れた。水門内部の狭い足場。浅い水の流れ。天井から落ちる水滴の音。普通の設備に見える。だが、もう普通には見えなかった。ここを通って、あの黒い通路に入った。ここから数十メートル先に、ボス部屋と虫の階層がある。外から見れば、ただの水門なのに。


 出口の光は弱くなっていた。昼間の白い光ではない。夕方の、少し赤みの混じった灰色の光。俺は水門の開口部の手前で一度足を止め、顔のメッシュが下りていることを確認した。手袋も外していない。服の汚れは、暗い色のおかげで目立ちにくい。だが、近くで見れば不自然だろう。今さらだ。


 外へ出ると、空気が広がった。川の匂い。草の匂い。遠くを走る車の音。堤防の上を通る自転車のブレーキ音。何もかもが普通で、その普通さに少しだけ眩暈がした。


 水門から少し離れた場所に、先ほど別れたはずの配信者がいた。


 男はコンクリートの斜面から離れた草地の端にしゃがみ込み、膝に肘を乗せていた。撮影機材はバッグの中にしまってある。虫捕り網も畳まれて、横に置かれていた。こちらに気づくと、はっとしたように立ち上がる。もうとっくに帰ったものだと思ったが、男はまだそこにいた。少し警戒心を高める。


「あの、待ってました」


 俺は足を止めた。すぐに周囲を見る。堤防の上には人影があるが、こちらを気にしている様子はない。警察もいない。車も来ていない。少なくとも、今この場で何かが始まっているわけではなさそうだった。


 男は慌てたように両手を上げた。


「あ、まだ連絡してません。してないです。というか、先にあなたに言っておいた方がいいと思って。いや、あなたに許可を取る話なのかは分からないんですけど、でも、何も言わずに通報したら、それはそれでまずい気がして」


 言葉が多い。だが、今回は軽さだけではなかった。さっきまでの興奮は消えている。顔色はまだ悪いが、目は少し落ち着いていた。自分が死にかけたことと、ここを放置する危険を、ようやく別々に考え始めたのだろう。


「最初は、そのまま帰ろうと思ったんです。正直、怖かったんで。でも、あれを放置したら、また誰か入りますよね。俺みたいな馬鹿が。いや、俺より馬鹿なやつも来るかもしれないですし、子供とかが入ったら本当にまずいですし」


 俺は黙っていた。子供の好奇心と言われると、昔の自分を思い出す。いや、それを思い出してあの暗渠に入った事もあるから、おそらく俺は子供と同列でかつ馬鹿に違いない。 こいつナチュラルに俺の事馬鹿って言ってるんだけど...処すか?。


「だから、警察に連絡します。ダンジョンを見つけたって。場所だけ言います。あなたのことは言いません。というか、言えません。顔も名前も知らないですし、記録もないですし。俺が水門の中で変な横道を見つけて、怖くなって出てきた。そう言います」


 警察。


 その言葉に、胸の奥が冷えた。だが、止める理由はなかった。ここはもう見つかっている。俺だけの場所ではない。配信者が見つけた以上、近いうちに他の誰かも気づくかもしれない。あの男を黙らせて帰らせたところで、水門そのものが消えるわけではない。むしろ通報されない方が危ない。下層には虫型の魔物が群れていた。スライムもいた。何も知らない人間が入れば、次は助からない。ましてや子供ならば...。


 それでも、通報されればここは封鎖される。警察か、自治体か、政府か、何かしらの組織が来る。俺はもう、この入口へ簡単には近づけなくなる。見つけた場所が、俺の手から離れていく。その感覚に、少しだけ胸の奥がざらついた。


 男は俺の沈黙をどう受け取ったのか、さらに早口になった。


「あなたのことは言いません。本当に。助けてもらったのに、巻き込む気はないです。あと、さっきのことも言いません。言っても証拠ないですし、たぶん信じてもらえないですし、何より俺が怖いんで」


 最後の一言だけ、妙に本音に聞こえた。


 俺はしばらく男を見た。顔のメッシュ越しなので、相手から俺の表情はほとんど見えないはずだ。それでも男は、こちらの反応を待つように固まっていた。俺はゆっくり頷いた。


 男の肩から、目に見えて力が抜けた。


「あ、ありがとうございます。いや、俺が言うことじゃないんですけど。ほんと、今日はすみませんでした。虫探しに来て、ダンジョン見つけて、スライムに殺されかけて、謎の人に助けられて、記録カードを指で潰されるって、もう何から考えればいいのか分からないですけど……助けてもらったことだけは、忘れません」


 俺は答えなかった。男は少し迷ったように口を開きかけ、結局閉じる。それから、バッグを抱え直した。


「連絡は、あなたが離れてからにします。今すぐここで電話したら、たぶん落ち着いて話せないんで。あと、あなたが近くにいる状態で人を呼ぶのも違う気がするので」


 思ったより、まともな判断だった。少なくとも、今日の前半のこいつとは別人に見える。巨大スライムの前に立たされたことで、やっと危機感が追いついたのかもしれない。遅すぎるが、今後も遅いままでいられるよりはましだった。


 俺はもう一度、短く頷いた。


 男は深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


 俺は返事をしないまま、踵を返した。もうここにいるべきではない。通報が入るなら、なおさらだ。水門から離れ、堤防の上ではなく、人通りの少ない側道へ向かう。背後で男がスマホを取り出す気配がしたが、すぐには発信しなかったようだった。約束を守るつもりらしい。


 夕方の風が、顔のメッシュを揺らした。日中より少し冷たい。空は暗くなり始めている。普通なら、家に帰って飯を食い、風呂に入って、適当に動画でも流す時間だ。だが、俺のリュックには、普通の生活に持ち込んではいけないものがいくつも入っている。しかし、心持ち足が軽く感じるのは、自分のした事が少しだけ報われた気持ちになったからだろうか。


 帰り道は、人目を避けた。駅には向かわず、バスにも乗らない。大通りを避け、住宅街の裏道を選ぶ。途中で何度か振り返ったが、誰かがついてくる様子はなかった。周囲を警戒しつつ帽子を取る。ポケットに残った石が、歩くたびに小さく当たる。ダンジョンの石だ。もういらない。そう思ったが、捨てる気にもなれなかった。普通の道端に投げ捨てていいものなのか分からない。


 家に着く頃には、空はかなり暗くなっていた。玄関の前で一度立ち止まり、周囲を確認する。誰もいない。鍵を開け、部屋に入る。ドアを閉め、鍵をかけ、チェーンもかける。そこでようやく、膝から力が抜けそうになった。


 帰ってきた。


 今日も、帰ってきた。


 それだけで十分なはずだった。だが、床にリュックを下ろすと、現実はすぐに目の前へ戻ってくる。巨大スライムの結晶。核片。小さな瓶。砕いた記録カード。曲がったトレッキングポール。拾った石。全部が、布とビニール越しに存在を主張していた。


 俺は手袋を外さないまま、ひとつずつ机の上に並べた。まず、砕いた記録カード。これはさらにビニール袋を二重にする。捨てるのは後だ。どこに捨てるかも考えなければならない。次に、曲がったトレッキングポール。先端近くが明らかに歪んでいる。ロックも少し緩い。普通の登山用品としてはもう使えない。だが、今日これがなければ、配信者も俺もどうなっていたか分からない。


 灰色の結晶は、机の上に置くと小さく鈍い音を立てた。見た目より重い。光を当てると、奥で何かが沈むように揺れる。綺麗だとは思わなかった。価値がありそうだとは思った。そう思った自分が、少し嫌だった。核片は青緑色で、乾いてきたのか表面のぬめりは薄れている。それでも、素手で触る気にはなれない。


 最後に、小さな瓶を見る。透明な液体。蝋のような封。ポーションかもしれないもの。これが本当に回復薬なら、価値は計り知れない。だが、飲む気にはなれなかった。怪我もしていない。試す理由がない。いや、理由を作ろうと思えばいくらでも作れる。だが、それは危ない。今日、何度も思ったことだ。


 できるかもしれない。


 その言葉は危ない。


 俺は瓶を机の奥へ押しやり、深く息を吐いた。手が震えていた。ダンジョンの中では、もっと落ち着いていた。虫型の魔物と向き合っている時でさえ、石を投げる手は正確だった。それなのに、家に帰ってきた途端、震えが戻ってくる。


 どちらが俺なのか。


 震えている方か。


 それとも、毒牙を持ったムカデに石を投げ、ゲジゲジの胴を千切り、大型スライムの核を砕いた方か。


 答えは出ない。出ないまま、目の奥がかすかに熱を持つ。左腕の古傷も、服の下で小さく疼いた。痛みではない。合図でもない。ただ、そこに何かがいると知らせるような感覚だった。


 俺は机の上のものを見下ろした。


 今日、俺は水門を失った。


 代わりに、これだけのものを持ち帰った。


・・・今後の将来どうなるんだと本気で思い悩み始めるのは少し間を空けてからだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ